ジャマイカ人のパーティー―はみ出し駐在記(37)

今度の土曜日にジャマイカ人のパーティがあるから一緒に行こうと言う。アッシーだったら、いくらでもいるだろうし、ジャマイカ人でもないのが場違いじゃないかと遠慮した。そんな堅苦しいパーティじゃないし、日本人でもかまやしない、行こうよ。モニカは媚びるようなところもないし、決して押し付けがましくもない。ただ説明しようのない説得力がある。

 

なんでオレがアッシー役なんだと思いながらも、レゲエヘアも気になるし、ジャマイカの人たちがいったいどんな人たちなのかにも興味がある。こんな機会はめったにない。行ってみたいという気持ちもあるが、レゲエヘアに囲まれた自分を想像すると気後れする。それでも、モニカの説得より自分を説得する自分がいた。パーティといっても、高々十人やそこらの知り合いが軽く食って飲んでの集まりだろう。何かあったところで、どうにでもなる。断るには惜しすぎる。

 

マンハッタンに行くときはスーツを避けていた。アメリカ社会は今ほどではないにしても階層化が進んでいて、スーツを着る人たちとスーツには縁のない人たちがはっきり分かれていた。スーツを着てなければ入れない店に行くときは、きれいで安全なところまでしか足を踏み入れない。ちょっとでも怪しいところに行くときは、そこに集まる人たちと似たような格好にする。TPO(古語?)をわきまえるというほどでもないが、わざわざトラブルに巻き込まれるような格好はしない。マンハッタン街歩きの「いろは」なのだが、旅行者には難しい。

 

一応はソサエティのパーティ、ただの飲み会ではない。ソサエティの一員でもない。見たところ一員に見えるのならまだしも、一見して部外者。モニカは気にすることじゃないと言うが、お邪魔虫の可能性もある。スニーカーにジーンズとシャツは気が引ける。部外者だし、せめて格好だけでもきちんとしていた方がいい。スーツを着てネクタイをして出張に行く格好ででかけた。

 

アパートのドアを開けたモニカの目が点になっていた。出張帰りに“扇”に寄ったこともあるから、スーツ姿を初めて見たわけではない。口には出さなかったが、なんでスーツなんか着てきたの。そんな格好で、だったろう。会場でそんな堅苦しい格好をしているのは誰もいなかった。

 

モニカの言う通りに走って会場についた。会場の入り口のちょっと前で立ち止まってしまった。ニューヨーク市の大きな建物で身内のパーティをやるようなところではない。おいおい、ダイナーかスポーツバーじゃないのか。ここは何なんだと思いながらモニカに付いて建物に入ってパーティ会場に行った。

 

五ドルかそこらの入場料を払って、手の甲に紫外線インクのハンコを押されてドアを開けた。まるで大きな倉庫じゃないかという広さがある。薄暗い会場のあちこちでフラッシュライトが光っていた。肌に音圧を感じるディスコの音楽のなかで、百人二百人ではない数の真っ黒な人たちが話して、飲んで、踊っていた。あまりの人数に圧倒された。薄暗いなかに歯と白目の白さを引き立てる真っ黒な肌。全員ではないだろうが、見える限りでは男はみんなレゲエへアで背も高い。こっちが低いのだが、どっちを向いてもちょっと見上げる高さに細かく編んだ三つ網が踊っている。

 

モニカに引かれて踊っている人たちの間をすりぬけて、待ち合わせしていた何人かと合流した。合流するまでにもモニカの知り合いと出会う。出会う度に、「なんでここにチャイニーズがいるんだ?」と言われる。モニカが平然と、こっちはちょっとあわくって「ジャパニーズ」と答える。彼らにしてみれば、チャイニーズもジャパニーズも似たようなもので何の違いもない。

 

何度も聞かれて何度も答えて慣れてくる。レゲエヘアの集団、見た目は怖い感じがあるが、ちょっと話してみれば気のよさそうな人たちだった。決して悪い人たちでもなければ、やばい人たちでもない。だんだん場になれてきて、途中からジャパニーズの後に、ずうずうしく「I am a guest from Japan.」と言い出した。

 

もうここまで来たら、一緒になっちゃえという感じで知らない集団に混じって踊っていた。スーツを着てネクタイ締めて踊れば暑くなる。ネクタイ外して、モニカと一緒にソーダを飲んでいたら、どこからともなく誘惑の香りがしてきた。

 

こんなくだけたところとは思ってもみなかったので、持ってきてなかった。モニカに誰か持ってないかなと聞いた。誰が持ってるか?ちょっと考えてモニカと探しに歩いた。モニカが何人かに聞いて見つけた。一本分けてもらって二人で吸って(固いモニカはお付き合い程度)、ソーダを飲んで、また踊りの輪の中に戻った。見上げる高さのレゲエヘアに囲まれて違和感が滲んでかすれて行った。想像もしたことになかった世界に混じって、ちょっと腰の引ける違和感だけだったのが、何時の間にやら、ここちよい違和感になっていった。

何があるわけでもない。多分、そこにいた人たちも何があるわけでもなかっただろう。あるのは気のおけない仲間同士の憩いの一時だけかもしれない。

 

人付き合いが面倒という変わり者、日本人社会でも嫌な違和感しかないことがほとんどだった。それがジャマイカ人社会のパーティで心地よい違和感。この違いが何からきているのか。ジャマイカの人たちとは埋めようのない距離がある。距離のおかげで要らぬ「しがらみ」は生まれない。「しがらみ」がないから、社会的な立場や仕事、成功や功名といった世俗の思いから自由になれたのかもしれない。

 

会場に入ったときの身を引いた緊張感に当初の疎外感や違和感。出てきたときの軽い何とも言えないハッピーな気持ち。特別何があるわけでもないパーティなのに、人をハッピーにする何かがあった。その何か、いまだ日本で味わったことがない。

 

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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