スターリンの国境線引きが悪の根源-キルギス人とウズベク人の民族紛争

キルギスと聞けば記憶の良い読者は、1999年8月キルギス南部で日本人鉱山技師4人がイスラム過激派に誘拐され、2カ月にわたって関連ニュースが紙面を飾ったことを覚えておられるだろう。時の小渕内閣が身代金300万㌦を払って(日本政府は一貫して身代金支払いを否定)4人は無事釈放されて一件落着となった。その後も旧ソ連圏中央アジアに属すキルギスは隣国に比べるとちょくちょく日本の新聞の大見出しになる。

ここ数日はキルギス南部に住む少数民族ウズベク人とキルギス人が衝突、187人の死者、2000人以上の負傷者(6月17日現在)を出す民族紛争が燃え盛って、国際ニュース面をにぎわしている。ついこの間の4月にも、キルギス南部出身のバキエフ大統領が首都ビシケクで燃え盛った反政府デモを武力鎮圧し、多数の死傷者を出したことが原因で政権投げ出しを余儀なくされた事件が大見出しで報じられたばかりである。2005年4月には、1991年のソ連崩壊後この国の政権を握っていたアカエフ大統領が反政府デモで追放された「チューリップ革命」が話題になった。

さて問題のキルギス南部は、古代中国で名馬として渇望された汗血馬の産地であり、古代からシルクロードの要衝として知られたフェルガナ盆地の一角を占める。ところが地図を見ていただくと分かるが、このフェルガナ盆地はキルギスとウズベキスタンとタジキスタンの領土がジグソー・パズルのように入り組んでいる。キルギス共和国は面積が約20万平方㌔と日本の半分強、平均海抜1800㍍の高地だが気候は比較的温暖で、人口は550万人弱。その内訳はキルギス人69%、ウズベク系15%、ロシア系9%でイスラム教徒が75%、ロシア正教徒が20%という国柄だ。

古代中国の史書に出てくる丁零、突厥、匈奴など、中華の地を脅かした騎馬民族は今の学術用語で言えばテュルク系民族だ。彼らはもともとモンゴル高原からバイカル湖周辺に住んでいたが、のちのシルクロードを経由して中央アジアからインド亜大陸、中東にまで足跡を残した。キルギス人といい、ウズベク人といい、トルクメン人といい、トルコ人といい、ルーツは皆共通のテュルク系民族である。しかしキルギス人とウズベク人は現在犬猿の仲で、激しい殺し合いを展開している。それはなぜか。その訳はスターリンの悪業にある。

1924年のレーニンの死後ソ連共産党書記長として広大なソ連邦を統治する権限を握ったスターリンは、19世紀後半ロシア帝国の版図に組み入れたばかりの、異教徒の地である中央アジアの統治に頭を悩ませた。ボリシェビキ(のちのソ連共産党)に抵抗したイスラム教徒のゲリラ部隊「ペシュメルガ」の記憶もまだ新しい時代だった。そこでスターリンが考えて実行したのが、肥沃なフェルガナ盆地をキルギス人、ウズベク人、タジク人に3分割することであった。タジク人だけは周辺のテュルク系民族と異なるペルシャ系の民族だが、スターリンとしてはフェルガナの「分割統治」によって、異教徒・異民族の反乱を防ごうと考えたのであろう。

スターリンの民族政策はソ連にとっては成功したと言えるのだろうが、ソ連崩壊後は米国のアフガン戦争の余波もあって中央アジアの不安定化をもたらしている。ソ連崩壊寸前の1990年にはキルギス南部の都市オシでキルギス人とウズベク人が衝突して数百人の死者を出したが、ソ連軍が出動して素早く鎮圧したためこの時は世界の耳目を引かなかった。今回はキルギス暫定政府の公式発表は死者187人だが、現地のウズベク人たちは少なくとも数百人の犠牲者が出ていると西側報道陣に告げている。

既にウズベク人難民の少なくとも10万人がウズベキスタンへ逃れようと国境に集結している。ウズベキスタン政府は老人・婦女子を中心に75,000人の難民を受け入れたが、これ以上はすぐには引き受けられないとして国境を閉鎖、国境付近では露天で眠るウズベク人が増えるありさまで人道問題になっている。国際赤十字(IRC)や国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、ロシアのNGOなどがテントや毛布、食料、医薬品を空輸するなど人道支援に乗り出しているが、現地からの西側報道によればウズベク人25万人が、キルギス人の襲撃を恐れて家を捨て難民化しておおり、ウズベク人の多いオシやジャララバードの両都市は放火による火災で地獄の様相だという。

今回の民族紛争の直接の原因は何か。キルギス南部では4月政変で追われたバキエフ大統領(南部ジャララバード出身)の支持者が多く、彼らはロシアの支援を受けてバキエフ政権を倒したとされる後任のオトゥンバエワ暫定政権を憎んでいる。一方少数派のウズベク系はオトゥンバエワ政権の登場を歓迎し、それが古くからくすぶっている民族対立に火を付けたというのだ。

さる4月7日、キルギスの首都ビシケクで突如起きた数千人の反政府デモを、バキエフ政権が武力弾圧して多数の死傷者(当初発表でも死者30人、負傷者300人)を出したことから、バキエフ大統領は亡命を余儀なくされた。バキエフ大統領は2005年4月のチューリップ革命でアカエフ前大統領を追放、同年7月の大統領選挙で大勝した。しかしその後兄弟や親族などを政権の重要ポストに登用するなど、権力の私物化を進めたとして野党側から批判されていた。バキエフ政権崩壊後のキルギスはバキエフ政権の初代外相を務めたオトゥンバエワ氏(女性)を首班とする暫定政権が引き継いだ。

暫定政権は6月27日に新憲法制定の国民投票を、秋には議会選挙を行うと発表しているが、これだけ民族紛争が激化している中で国民投票が実施できるかどうか。とまれバキエフ追放劇は、オトゥンバエワ女史をかついだロシアのシナリオという説が西側ではもっぱらである。事実、プーチン・ロシア首相は暫定政権ができた4月8日にオトゥンバエワ氏に電話して、暫定政権支持を表明している。

ロシアがバキエフ政権を忌避した背景には、キルギス議会が2009年2月首都近郊マナスにある米軍基地の閉鎖を議決したのに、米国が3倍の基地使用料を払うと約束したのを受けてバキエフ大統領が同年6月、基地の存続を認めたことがあるようだ。マナス米軍基地はブッシュ前米政権がアフガン侵攻作戦を始めて以来、アフガニスタンの米軍に物資補給をするための枢要基地としてアカエフ政権時代にやっと獲得したものだ。アフガン戦争を続けているオバマ政権としても、アフガニスタンの裏庭にあるマナス基地は是が非でも確保しなければならない基地だ。

一方のロシアはソ連解体以前から、やはりビシケクから遠くないカントに空軍基地を維持している。あの手この手のロシアの働きかけが功を奏しようやく米空軍マナス基地の閉鎖が決まったのに、バキエフ政権がドルの力に誘惑されて同基地存続を決めたことがロシアを激怒させたことは想像に難くない。メドベージェフ・ロシア大統領は2009年1月、20億㌦の巨額融資をバキエフ大統領に約束していた。これがマナス基地閉鎖の議決の決め手になったのだろう。

しかしマナス基地に関する逆転決定の後メドベージェフ大統領は8月にバキエフ大統領と会談して、キルギス国内に2番目のロシア軍基地を新設するとの合意に調印した。これから先は筆者の想像だが、バキエフ大統領はこの合意実行に誠意を見せなかったため、ロシアがキルギスの野党勢力を焚きつけてバキエフ追放劇を演出したのではあるまいか。

キルギスをめぐる現代の「グレート・ゲーム」に、米露以外に第3の参加者中国の存在があることを見落とすわけにはいかない。新疆ウイグル自治区に問題を抱える中国にとってキルギスに約25万人のウイグル民族が住んでいることを無視することはできない。中央アジア枢要の地キルギスで民族紛争が起きれば地域全体に伝染し、新疆ウイグル自治区にも影響が及ぶ。中国政府はウイグル、チベットに巨額の開発投資を投入して新疆やチベット自治区を豊かにすれば問題は解決すると考えているようだが、異なる文化を持つ少数民族の問題がそれほど単純でないことは明らかだ。

沖縄の米海兵隊が「弱い孤」の中央アジアに殴りこみを掛けるための訓練をしている以上、キルギスの問題は日本にとっても実は他人事ではない。(6月17日記す)

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