スレブレニツァ虐殺事件外伝

ポリティカ紙(11月29日)に私たち日本人の感性では了解しづらい事件が報じられた。

それは、スレブレニツァ虐殺事件外伝とでもいえよう。BiH(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)のムスリム(ボシニャク)人にとって、スレブレニツァ事件とは、1995年7月中旬、スレブレニツァを陥落させたセルビア人軍によるムスリム人成人男子7千~8千人の虐殺である。セルビア人村落のムスリム人軍(BiH政府軍)による焼き打ちと老若男女約2千名の殺害である。

ナセル・オリチはスレブレニツァ地域のムスリム人軍第28師団の最高司令官であったが、1995年7月のセルビア人軍による攻撃前の4月にスレブリニツァから逃れており、1992-93年のムスリム人軍の攻撃と焼き打ちの時は現場で指揮をとっていた。したがって、ムスリム人にとって、ナセル・オリチは戦争のほとんど全期間中頼りがいある英雄であったが、最後に自分たちを見捨てた将軍である。もちろん、スレブレニツァ周辺のセルビア人にとっては耳にするだにいまわしい名前である。

そのナセル・オリチがサライェヴォの新聞ドネヴ二・アヴァズに次のように語ったのである。現在、BiH政府軍の年金受給者である彼は、セルビア共和国の年金受給資格がある。1987年からボスニア戦争勃発の1992年までセルビア内務省の職員であり、長年政府高官のSPを務めたからである。ミロシェヴィチ大統領があのガジメスタン大集会(1989年6月28日、コソヴォの戦い600周年を記念してセルビア人100万人が全世界からコソヴォに集まった:岩田)で演説した際も警護した。「ハーグから戻ってから(ハーグ・旧ユーゴ戦犯法廷で2年の刑を宣告された:岩田)、何回かベオグラードを訪ね、私の年金権を取り扱ってくれる弁護士を見つけた」。

岩田の感慨。たしかに、オリチはBiHのセルビア人軍と戦ったのであり、セルビア共和国軍とではない。したがって、自分の敵から年金を受けようとするわけではない。しかし、BiHは終始、セルビアを侵略者として糾弾してきたのである。彼はその軍隊の将官である。つまり侵略者から年金を受けようと努力しているわけである。他方、セルビア側からすれば、スレブレニツァ地域の同胞の村々を焼きまわり、殺しまわった男である。ベオグラードの弁護士の手腕が見ものである。とはいえ、「正当」な個人の権利をかかる悪条件下でも主張しようとする根性は評価すべきだろう。国際共同体と協力して、ボスニア・セルビア人軍最高司令官ラトコ・ムラディチを逮捕して、ハーグへ送らねばならないセルビア政府が、ナセル・オリチに年金支給を許可するだろうか。逮捕と支給の両方を実行すれば、EUはセルビアが個人の人権を最大限尊重する国家であると納得する。そう考えるベオグラードの良識的市民社会とそう考えないセルビアの常識的常民社会の力比べであろう。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

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