句集とは何か。俳句が連続的に提示されるテクスト。そう言ってしまえば、それで済む事柄ではあるが、句集の主要な特徴は音節数が制限され、また、接続詞のようなコネクターによって前の言表と後ろの言表とが結びつくことが殆どないテクストであると述べ得る。ある句から他のある句へと展開する言表連鎖は、日常的な言表連鎖とは、あるいは、散文的な言表連鎖とはあまりにも異なったディスクールの動き (muovement discursif) を有するテクストであり、それぞれの句が他の句とどのように繋がっているのかは読み手のイマージュ (image) の領域に所属する部分が大きい。
それでも、ある種の句集はセクションごとに並べられた句が、何らかの物語性を困難なく想像させてくれるが、これから語ろうと思う川口外狼の『ダブルデカダンス』はそのような特性を有していない。しかしながら、句集の表紙の左下に小さなはっきりしない文字で書かれた、「JKととある刑事のメイクラブ」というサブタイトルのような一句を発見した時、この句集も物語性を求めていることに気づいた。たとえその物語性の中に美しいイマージュが織りなされてはいないとしても。
これから語ろうと思っている事柄は一般的なジャンル区分からするならば、書評ではない。それは間テクスト的な (intertextuel) 対話を目指すテクストであり、私はこの対話を以下の三つの側面から行いたい。第一の側面はデカダンス (décadence) とは何かを問うものであり、第二の側面は二重化すること (doublement) とは何かを問う側面であり、第三の側面はイマージュの連続性 (continuité) と変更性 (déplacement) とを探求するものである。この三つの側面から間テクスト的に『ダブルデカダンス』との対話関係を築く必然性はない。だが、この三つの側面からのアプローチによって、私がこの句集により接近できるのではないかと考えられたのである。それは直観的な判断であって、合理的な判断でも、客観的な判断でもないのは確かであるが、主観的であるからこそ、合理性が少ないからこそ可能な探究も存在する。この句集の解読に対しては、こうした姿勢が最も重要であると私は強く感じたのである。
デカダンスとは何か
デカダンスは退廃を意味するフランス語であるが、『ダブルデカダンス』の中にある句をいくら読んでも私には退廃性は感じられなかった。何故なら、デカダンスの中の退廃性には甘美さや気品や崇高性が存在するが、この句集にある360句からはそうしたもの、つまりは、エレガンス (élégance) を感じることはできなかったからだ。この句集の句の連続の中にあるもの、それはデカダンと言うよりもキッチュ (kitsch) やスノッブ (snob) と言った方がよいものであった。
「狂った果実では電マがもたない」、「陰毛換気さす古風な奥方」、「修行僧乳ぷるるんで水の泡」といった句から受けるイマージュは芳香が漂うものや滅びの美学ではなく、特異な日常性の中にある存在証明を訴えようとする印象を受ける。使い古されたプラスチックワードを用いた形容ではあるが、そこには実存的な存在証明があるように思われる。特異性は実存的である。それは、サルトルやカミュの小説を読めば十分に理解できる。だが、「ニーチェとさすらう真昼の乱気流」という句が句集の中にあるが、ニーチェの思想にデカダンスやキッチュはない。肯定的ニヒリズムは至高性へと向かう強さがある。それはこの句集の連続性からイマージュされるものとは大きく異なる。それゆえ、この句に代表される知的表象の挿入はディレタント (dilettante) なスノッブ性を感じさせる。
通俗的な事象の連続 (それを物語と呼んでもよいが)、その中に挿入される淫猥な言葉。それがこの句集の主要エクリチュール戦略である。その戦略が、煩雑なイマージュを想起させる。だが、「夜の蝶みな然るべき蜜の許」と「カタルシスぶちまけしママの脱ぎたて」と「ヒス女賢水浴びて安らけし」という句の連続性から確固としたイマージュ空間を築くことは困難である。では、デカダンスと形容されたこの本の中にある俳句は表層的な言葉遊びの中でプレイしているだけなのだろうか。われわれデカダンスではなく、ダブルデカダンスと命名されたタイトルに戻って、考える必要性があるのではないだろうか。
物語空間が一方向性に収斂するのではなく、多方向に拡散し、バラバラな存在性の飛沫となって飛び散っていく。それは破裂した爆弾によって粉々になった聖なる扉の痕跡のように私には感じられた。アンチロマン (antiroman)、あるいは、物語の残滓。物語の時間軸は錯綜している。現在の次に過去が来るが、次に、未来が、そして、空想の時間が、いつしか、現在が再びやって来るというように。それも、時間軸の変更は予告されず、時間の異なる事象が並置されている。だが、そこにあるイマージュの欠片を集めることは、破壊された建築物の廃墟を見つめることと同義ではない。多数の破片を拾い集め、それらを組み合わせ、復元することで、デカダンスがダブルデカダンスになるのではないだろうか。そう思った私は、ダブルという語の持つ意味作用について検討すべきであると考えた。
二重化することとは何か
何故、デカダンスではなく、ダブルデカダンスなのだろうか。ダブルという語は二倍というような強化や増幅を表す場合がある。このような語義の例として、「ウィスキーをダブルで」という文を例示することができる。しかしそれだけではなく、この語は二つの異なった事柄を同時に内包している様態を示すことも可能である。例えば、グレゴリー・ベイトソンが主張したダブルバインド (double bind:二重拘束) という概念語のように。
川口外狼がダブルデカダンスという語によって表そうとしたものの正確な意味は判らないが、デカダンスの前にあるダブルは強意単位として捉えたならば、そこには通俗的な意味があるだけになるだろう。意味の広がりはそこで止まってしまい、クラス分けされ、はっきりと区切られた意味論的境界線を越えることが不可能となる。たとえ川口が意識的にそう思ったのではないとしても、別のレベルからの意味カテゴリーを導入すべきであると私は考える。『ダブルデカダンス』という句集との間テクスト的な関係をより深化させるために、ここではダブルデカダンスという語のダブルは強意単位としてではなく、意味の二重化と解釈したい。
二重化とは何か。それは文法概念としての二重否定のような意味カテゴリーとして、この言葉を捉えることである。二重否定は「Aではなくはない」や「Aではないわけではない」といった表現形態である。そこには意味の強化や増加は存在してはいない。そこにある意味は回帰性を示している。つまり、最初の否定の否定によって肯定的意味が復権するのだ。論理式の上で、肯定文と否定文は対立し、決して等号記号では結び合わせることができない。そして、肯定を肯定しても肯定しか導くことができない。ところが、否定を否定したならば肯定が誕生する。ダブルの意味作用には剰法的意味がある。それゆえ、否定に否定を掛け合わせることによって、肯定が生み出されていく意味論的メカニズムが作用していると述べ得る。
では、デカダンスをダブルにした場合に指し示される意味とは何であろうか。そこにある回帰性とは何であろうか。デカダンな世界とは日常的な世界の否定である。一般的な生活世界を否定することによってしか現出しない、日常世界に対する負の世界である。この負の世界を否定した時に復権するのは日常世界である。だが、その日常世界はデカダンな世界に落下する以前の世界と同質なものであろうか。日常性というカテゴリーでは同質と語ることも可能であるが、一度デカダンな世界に転落した主体が日常世界に戻ったとしても、その主体がそこで生きる様態は同質のものとなることは決してない。彼にとっての第二の日常世界と第一の日常世界とでは、生活世界がまったく異なるのだ。すなわち、生の方向性が完全に別の向きを向いているのだ。
次のセクションでは、上述した私の解釈を確認するために、日常世界の世界チェンジの物語が、『ダブルデカダンス』を構成する句のディスクールの動き、または、言表連鎖 (enchaînement des énoncés) 中で、どのように展開されているのかを詳しく考察していく。
イマージュの連続性と変更性
あらゆる言表は他の言表との関係によって何らかのディスクールの動きを構築する。その動きは大きく分けてテーマの視点とジャンルの視点から分析が可能であるとロシアの思想家ミハイル・バフチンは主張している。フランスの哲学者・言語学者のフレデリック・フランソワはこのバフチンの言説理論をベースとして、言表連鎖の様態に関する研究を多数行った。フランソワは言表連鎖においては連続する動きと変更する動きの二つの動きしかないことを強調し、如何なる要素が連続し、如何なる要素が変更されるのかを見つめようとした。ここで、バフチンとフランソワとの言語理論を詳細に紹介する時間はないが、言表連鎖という問題を考察するために非常に有効な分析装置となる点は注記する必要性がある。
『ダブルデカダンス』の連続性と変更性に関する多くの言語要素の特質を検討していく余裕はない。ここではテーマ的動きに焦点を当てて分析していく。この句集は、「Ⅰ写生」、「Ⅱ狂女の系譜」、「Ⅲ非暴力の足し」、「Ⅳ分裂者の散歩」という四つのセクション、あるいは、テーマ的構成体から形成されている。それぞれのセクションのタイトルはそれぞれのセクションのテーマと見做すことが可能である。各セクションの句は、ⅠとⅣは日常世界の描写を、ⅡとⅢはデカダンな世界の描写を行っているが、Ⅱは個々人のデカダンな世界が表現され、Ⅲは社会の堕落、つまりは、社会的デカダンな世界が表現されていると捉えることができると思われる。
では、ⅠとⅣの日常的世界の差異と、ⅡとⅢのデカダンな世界の差異に注目しながら、各セクションのテーマ展開の特質を観察していく。Ⅰはデカダンな世界に陥る以前の日常生活が描かれている。「湯ざめして椅子に凭れしニューハーフ」や「豊満か華奢か物憂いイブの夜」といった句があるが、そこにはエロチックとグロテスクが混じり合って、下降しようとする生の、あるいは、性の方向性は脆弱であり、生活の臭いの方が強く感じられる。Ⅱはデカダンな世界が最も強く、具体的に表されたセクションである。「少女らに蹴られ御褒美やる男」や「城攻めにおしっこジャアアの姫君」や「ギャルふたり小腹を満たす乱パ前」といった句の連続性は堕落した個人的行為の連鎖として捉えることができる。
Ⅲの中には、個別的なデカダンな世界像の描写する句は殆どないが、「税金泥棒のピカピカの愛車」や「テロ多発方やセレブらアナル見す」や「国葬の安倍とカルトのタイアップ」といった句は社会の退廃性が色濃く反映されている。デカダンに陥るのは個々の主体だけではない。国家や社会もデカダンに陥る時代があるのだ。Ⅳは「謎ですかひとエッチがそんなにも」や「まっぴらや人の心に生きる死後」や「勃起したところで別にあてはない」という句は狂乱後に戻った日常世界のペーソス (pathos) を感じさせる。それは単なる日常世界ではなく、祭りの後 (post festum) にやって来た日常世界の描写である。デカダンスが回帰して、戻って来た場所は日常世界。デカダンス×デカダンス=日常、この等式による単純化はシンプルな美しさよりも、喜劇的二重性を表す。「はじめは悲劇として、二度目は喜劇として」というマルクスの言葉が響いている。
このように『ダブルデカダンス』の言表連鎖を見ていくと、朧気ながらも、この句集の物語展開が見えてくるのではないだろうか。だが、その物語性は暗い夜の闇に包まれており、その闇の中で一つ一つの句に順番にスポットライトが当てられているために、この句集の物語性をしっかりと捕まえることは困難なのだ。また、『ダブルデカダンス』の言表連鎖は散文的な連鎖ではないゆえに、多くの省略されたイマージュを補う必要性がある。デカダンスは雑然とした日常性 俗世間の中に溶解している。一つ一つの句から鮮明な物語的イマージュを思い描くことは困難ではあるが、朧げに見えるこの句集の物語的イマージュに私は郷愁に似たものを感じる。
重層決定とポスト・フェストゥム
このテクストへの解釈を総括するにあたって、川口外狼の第一句集に対する私の抱いた印象を再検討していく。そのために、ここでは「重層決定 (surdétermination)」と、先程も述べた「ポスト・フェストゥム」という二つの分析装置、あるいは、分析視点から考察していこうと思う。何故なら、この二つの視点を導入することで、川口外狼の書いたこの句集との間テクスト的な関係がより濃密に、より多様性を持って展開できると考えられるからである。
デカダンな背景に塗り込められた世界像は日常性の極めて薄い被膜に覆われている。被膜が薄すぎるゆえに、それは破れ易いだけではなく、雑多な事象がすぐに侵入してしまう。様々な事象の混入によって日常世界は攪乱され、秩序立てられた規律が崩れ、事象間の激しい対立と衝突によって、生の方向性が決定されていく。こうした様相は構造主義的マルクス主義者ルイ・アルチュセールの重層決定という用語によって表すべきであると考えられる。
日常性は均質な状態を求めながらも均質さが保持され続けることはあり得ない。日常性は多種多様な特異な出来事 (événements) によって、日常性を打ち破られ、深い闇の中に引きずり込まれて行く。日常世界からデカダンな世界へと沈み込むこと。それは、世界チェンジ (changement de monde) である。だが、世界チェンジとは何であろうか。フランソワは言語学に世界チェンジという用語を分析装置として導入した。フランソワの用語における世界とはある事象に対するコード化の変化を意味する。すなわち、同一テーマについて語る場合でもコード化はチェンジできる。例えば、お金について話したとしてもポケットの中に入っている一万円について話すことと、空想の中で思い描いた一万円について話すことは、一万円という同じテーマに関して話すことであっても、コード化は異なっている。このことをフランソワは世界チェンジと述べ、世界チェンジはテーマを発展させる大きな要因であることを強調した。こうしたテーマ展開を重層決定されたコード化の問題と考えることが可能である。
上述したように、『ダブルデカダンス』のⅠからⅣの各セクションのテーマはセクションごとのタイトルとして考えられ、そのコード化はⅠでは日常世界のレベルから語られており、ⅡとⅢはデカダンな世界から語られているが、それぞれのセクションのテーマ構築は錯綜したコードが複雑に交差することで方向づけられている。それは重層決定される意味論的テクスト戦略と述べ得るものであるが、ⅠからⅡへの世界変化、そして、ⅡとⅢとの世界の連続性。さらには、ⅢからⅣへの世界変化の大きな流れとなっている。このディスクールの動きは日常世界の炸裂と日常世界への回帰がイマージュ要素の二重性によって方向づけられている。
ここで、ポスト・フェストゥムという視点を導き入れよう。日常世界のコード化の中にも、もちろん、デカダンなエロスの影が侵入しているが、それは日常世界の中の一場面でしかない。また、デカダンな世界のコード化の中にも日常的な出来事が挿入されている。しかしながら、Ⅰの基調はあくまで日常世界であり、ⅡとⅢの世界はデカダンな世界である。上記したように、Ⅱのデカダン性とⅢのデカダン性とには個人の退廃と共同体の退廃という差異があるが、そこで表されたコード化の基調はデカダンな世界である。Ⅳは日常世界の再導入によって描かれているが、回帰した日常世界はⅠの日常世界とは異なり、デカダンな世界での出来事を通過した後の日常世界の描写である。その世界像はポスト・フェストゥムと名づけるべきものである。
ポスト・フェストゥムの世界は、特異な、衝撃的な出来事、あるいは、祭りの狂乱が終わった後の日常世界の再来である。再来とは、以前の日常世界とは似ているように見えながらも、まったく別な日常世界。狂乱の後の日常には決して以前と同様になれないというペーソスが漂っている。『ダブルデカダンス』の中に、いくら過激な言葉を発見しようとも、この句集が作り上げている物語空間は物悲しい。だが、この物悲しさ、あるいは、ペーソスはデカダンな出来事の様々なコード化によって巧みに隠蔽されている。それゆえ、句と句との連続性を追っても、イマージュの連続性を結びつけることは容易ではない。錯綜したコード化のモザイク状の形態と時間的な並びの組み合わせをチェンジしなければ、『ダブルデカダンス』の基盤にある悲哀は浮かび上がってこないのだ。
このテクストの最後に、一つの疑問を述べ、それを考察して、このテクストにピリオドを打ちたい。それは、異なる要素が詰め込まれ過ぎているこの句集の言説は、俳句で表すよりも散文で表した方が、より物語性が強まるのではないだろうかという疑問である。暴力的な語や卑猥な語の過剰さは物語性を拡散させ、物語を破壊する。しかし、残り香のような印象を受けるこの句集の風景はデカダンスを超えてダブルデカダンスとしての存在意義を語っているように私には思われる。物語として語るにはあまりにも一つ一つの出来事が物語に溶解してしまっている物語性。そこにこそこの句集の物語性を見つめるための鍵があるのではないだろうか。
『ダブルデカダンス』が語ったものは虚無主義ではない。悲劇である。再び戻って来た日常世界が喜劇に満ちていても、そこにあるものはやはり悲劇である。『ダブルデカダンス』の喜劇のように語られた悲劇。その声が、どんなに卑俗で、野卑で、通俗的で、淫猥であっても、そこには物悲しい実存の響きがある。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
宇波彰現代哲学研究所 ダブルデカダンスの二重性 (fc2.com)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion13886:240924〕