8月下旬に新宿は武蔵野館で映画「チャーチル ノルマンディーの決断」を観た。1944年6月6日連合軍ノルマンディー上陸作戦決行前の4日間、その作戦に猛反対して、連合軍最高司令官アイゼンハワーや英国王ジョージ6世に訴え続ける英首相チャーチルの狂気に近い、あるいは神経症そのものの姿が画面に映し出される。
反対の根拠は、第一次大戦中に海軍大臣としてチャーチル自身が推進したガリポリ上陸作戦の大敗北、それによる数多くのイギリスの若者が無益に血潮の中にただよった記憶の噴出である。何万人、あるいは何十万人の青年の生命を百パーセント勝利の保証なくして賭ける事に国民の最高指導者たる首相は断固として反対する。ノルマンディー上陸作戦の対案としてチャーチルは、エーゲ海から上陸し、中央ヨーロッパへ軍を北上させる作戦を構想していた。アメリカの将軍からもイギリスの将軍からも全く相手にされない。
大東亜戦争中に兵士の生命が一銭五厘の葉書ほどの重みしか持たなかった史実を知る日本常民は、大日本帝国の最高戦争指導部にこんな指導者がいて、昭和天皇の前でチャーチルの如く苦しんでほしかったと願うであろう。
私もそう願う。しかしながら、私見によれば、この映画のチャーチルはどこか嘘っぽい。彼が本気に苦しんだのは、ノルマンディー上陸作戦の決行によって対独戦争の西部大戦線がアメリカ軍主導になってしまい、その結果、対独戦争の最大の勝利者がソ連とアメリカになってしまい、戦後における大英帝国の地位が第一次大戦とは異なって二流になってしまう確実な政治的予見の故であろう。
イギリスは1939年9月以来、ナチス・ドイツと戦争をしつづけていた。ソ連は1941年6月22日以来、アメリカは1941年12月8日の真珠湾の後にナチス・ドイツが対米宣戦布告をしてからだ。そんなイギリスが対ナチス・ドイツ戦争の最大勝利者として登場し、戦後世界の第一級指導国の地位を確保できる可能性は、1944年にフランス・ノルマンディーではなく、ギリシャからユーゴスラヴィアとルーマニアを北上して、中央ヨーロッパでソ連軍と合流する事にあった。「と合流」はすなわち「を阻止」でもある。
「チャーチル ノルマンディーの決断」は、映画作家とその日本語題名の作者の意図とは異なって、戦後に第二級国家として生きる決断=諦念である。そう考えると、映画に描かれた保守大政治家チャーチルのあの狂態・神経症は納得できる。残念ながら、ガリポリで流された英国青年の血の臭いは、そんな政治家の本音・本心を公然と語る事が絶対に出来ないが故に、嘘ではないが、あくまで建前としてチャーチルによって使われたのだ。
ここで、チャーチルが最も警戒していた事は、ルーズベルト・スターリン連合であったろう。ルーズベルトが構想し、スターリンが別の思惑で支持するに違いない新世界秩序である。それは何であったろうか。
私=岩田は、以前に紹介した事のある説を再び記すことにする。ヴィトルド・キエジュン著『転形の病理学』(poltext、ワルシャワ、2013年)にある説である。キエジュンはポーランド人であり、1944年8月と9月の対独ワルシャワ蜂起の参加者である。本書には1944年8月23日、警察本部占拠直後の彼の写真がのっている。キエジュンは、本書でこれまで全く知られていないルーズベルトの対英観と対スターリン観を提示する。要約・抄訳して紹介することにしよう。
――ルーズベルトは、脱植民地化活動のために戦後にスターリンと協力しようと熱心に努力していた。すなわち、18世紀に始まったアメリカ革命の継続、イギリス帝国の解体のために。p.47
――大英帝国の植民地体制の解体は、世界の社会主義化を企図するソ連の目的でもあったが、同時に、F.D.ルーズベルトの長期的戦略でもあった。脱植民地化のグローバル綱領は、ルーズベルトのイデオロギー的強迫観念をなしていた。この強迫観念を知ると、第二次大戦期におけるアメリカ大統領のあの不可解な、パラドクシカルなヨシフ・スターリンへの親近感、Uncle Joe(スターリンおじさん)― 岩田解釈:チェーホフのワーニャおじさんを念頭に入れてるか― との呼び掛け、また反ポーランド的施策がよく理解できる。私は、ニューヨークのイエズス会神父James C.Finlay、Fordham大学長から以上に関連する信頼できる情報を入手した。1976年のことだった。p.95
――Finlay神父は、アメリカ合衆国カトリック教会首座大司教Francis Spellman、「アメリカの教皇」と呼ばれた人物からこの情報をルーズベルト没後25年間は公表してはならぬという制限付きで伝えられていた。
――1942年に、F.D.ルーズベルトは、心おだやかならぬ首座大司教に対して、対独戦争でソ連と友好協力する理由、武器貸与法と赤軍へ軍事援助する理由を説明した。更にまた、戦後もイギリス植民地主義解体においてソ連と協力するという長期展望を語った。それは、時間がたってしまったけれども1775年アメリカ反植民地革命の理念を実現するのは論理的かつ理念的義務だったからだ。
――アフリカにおけるロンメル将軍に対する勝利の後に、ルーズベルトは、ドイツ占領下のギリシャへの攻撃、そして引き続いて北上攻勢をするというチャーチルの構想に断固として反対した。チャーチルの構想は合理的であった。
――私、キエジュンも参加していた独占領下のワルシャワにおける地下討論において、南方からの連合軍の北上攻勢によって我々は自由になると確信していた。ギリシャのドイツ軍は弱体であったし、人民解放戦線と人民解放軍が頑張っていた。ユーゴスラヴィアではチトーの軍が国土の大きな部分を押えていた。ハンガリーではいたる所に地域住民の反ドイツ感情。スロヴァキアでは1944年に反独人民蜂起。最後にポーランドには40万人の地下国内軍が健在であった。― 岩田注:近年中東・北アフリカからドイツを目指す大量難民の流動諸経路は、そのままチャーチルのドイツ攻略作戦を示す。― 勿論、このような作戦計画はソ連にとって不利益であった。すでに連合軍によって解放された中欧を戦後にソ連が手に入れることは出来ないからだ。
――1943年 テヘラン。ルーズベルトはソ連大使館に宿泊する事に同意した。スターリンとの一対一の夜間会談が可能になった。その階段でルーズベルトは何の留保も付けずに、ルヴォフ等のポーランド領をソ連に与える事に同意した。p.96
――ルーズベルトはテヘランの協定を秘密にするようにスターリンに頼んだ。第三期大統領選でポーランド系アメリカ人の票を得るためだ。選挙の前にUSAのポーランド人大会の代表者達を招待し、ポーランド地図上のルヴォフを指で刺しながら、彼等と一緒に写真をとった。選挙後に議会でテヘランでポーランド分割がなされたのかと質問され、テヘランでは何一つポーランドについて話し合わなかったと断固として応答した。p.97
このように見ると、ノルマンディー上陸作戦がなければ、アメリカは、ヨーロッパ戦争における対独勝利の最大支援者であっても、最大の勝利主体になれなかった。イギリス>ソ連>アメリカと言う序列であったろう。ノルマンディーのおかげで、アメリカは太平洋戦争の最大勝利主体かつヨーロッパ戦争の最大勝利主体となった。Mr.PresidentがHis Imperial Majestyを乗り越える。Uncle Joeの協力を得て。戦後に世界秩序の形成者の地位を大英帝国から奪った。そして、ソ連はアメリカの挑戦者となる。映画「チャーチル ノルマンディーの決断」におけるチャーチルの神経症的苦悩はかかる帝国の行末を諦念する瞬間を覚悟するステーツマンのものであろう。映像作家はそれを人道主義的・人間的なものと誤読している。
平成30年8月27日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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