テント日誌 5月28日(水)特別版 経産省前テントひろば990日目 商業用原発停止255日

【テント外伝‥‥11】 共同体考察の続き

山村貴輝

ここのところ、共同体問題と少し話題が離れていたが改めて共同体問題にコミットしたい。戦前まで「念佛講」などが地域にあり、現在もかろうじて地域の民俗文化として残っていることころもある。ではまず、「講」とは一体何か。

ウィデペキアによると「講」とは以下に簡潔に述べられている。

講(こう)とは、同一の信仰を持つ人々による結社である。ただし、無尽講など相互扶助団体の名称に転用されるなど、「講」という名称で呼ばれる対象は多岐に渡っている。元々の講は「講義」「講読」の「講」であり、平安時代に仏典を講読・研究する僧の集団を指すものであった。後に仏典の講読を中心とする仏事(講会)を指すようになり、さらに各種の仏教儀式一般に講という名称をつけるようにもなった(報恩講など)。

 

この「講」が中世ごろから民間に浸透する過程で、様々な信仰集団に「講」という名称がつけられるようになった。信仰集団としての講には、地域社会の中から自然発生的に生まれたものと、外部からの導入によるものとがある。前者の講は、氏神・産土といった地域の神を信仰する氏子によって、その神祠の維持のために運営されるものである。社格の高い神社の講では、「村」の範囲を超えて広い範囲に構成員を持つものもある。

 

「講」の組織が強化されるのが、戦国時代のことである。講元は国人や地侍等があたり、また講元自身が地侍化した。浄土真宗の「講」の組織によって加賀一向一揆などが行われた。「講」という組織上、半民主的な政治が行われた。

講は講社ともいい、講の構成員を講員という。講の運営にあたっては講元(こうもと)、副講元、世話人などの役員を置き、講員の中から選任され、講の信仰する寺社から委嘱されるのが通常である。外部からの導入による講は、当初は山岳信仰に関するものであった。立山などの修験者が霊山への登山を勧めて全国を廻り、各地に参拝講が作られた。それにならって各地の神社・寺院へ参拝するための数多くの講も作られるようになった。これらの参拝講では、講の全員が参拝に行く「総参り」もあったが、多くは講の中から数人を選び、代表して参拝する「代参講」が行われていた。

 

相互扶助団体(頼母子講・無尽講)への転用は、この代参講から派生したものである。すなわち、皆で金を出しあって、参拝に行くのではなくその金をくじや入札によって構成員に融通するというものである。

この、宗教的な「寄合」から、「頼母子講」に見られる生活相互扶助団体に見られる、一種の「生活協同組合」的な要素を有する幅が広い、且つ平安時代から最近まで継続した伝統的な民衆の自治的組織形態である。また、「隠れキリシタン」や「隠れ念佛講」は元より、日蓮宗の一派である「不受布施派(江戸時代にはキリシタン並みの徹底的な弾圧を受けた)」などの非合法組織も「講」の一種と見て差支えない。

これに関連して、戦国時代から江戸時代においては「一揆」の組織的基盤と言う、民衆の意思を暴力的実力闘争の組織化を行ったことも見逃せない。信仰による一揆としては一向一揆が思いだされるが、信仰ではなく生活防衛的な一揆の存在も時の政権と暴力的実力闘争を行ったことも見逃せない。だが、一揆と言うと暴力的実力闘争とストレートに結び付けられるが、実際にはそのことを行うための「盟約に基づく政治的共同体」として理解すべきだろう。ロシア革命での「ソビエト」、ドイツ革命での「レーテ」と言う、下部構造の本来的な「政治的共同体」と通底する意味づけも可能である。以下、ウィデペキアからの引用である。なお、言うまでもなく「講」と「一揆」は政治的・文化的な密接な関係があったのだ。

『孟子』に由来する言葉で、本来は揆(やり方、手段)をひとつにするという意味で、平安時代後期から鎌倉時代には武家が団結する意志や集団行動を表す言葉として使われているが、同時代には易占の結果や意見が一致するという用例も見られた[2]。江戸時代になると、幕府に公認された既存の秩序以外の形で、こうした一揆の盟約による政治的共同体を結成すること自体が禁じられるようになるため、近現代の日本では一揆自体があたかも反乱、暴動を意味する語であるかのように誤解されるようになった。確かに一揆が反乱的、暴動的武力行使に踏み切ることもあるが、こうした武力行使が一揆なのではなく、これを行使する「盟約に基づく政治的共同体」そのものが一揆なのである。

 

こういった誤解のため、日本の一揆が英訳されて日本国外に紹介されるに際しても、 riot, revoltといった暴動や反乱を意味する語として訳されるのが一般化してしまった。近世の「百姓一揆」も peasant uprising と英訳されて紹介されているが、現実には peasant の意味する零細な小作人だけによるものではなく、むしろ村落の指導的な立場に立つ裕福な本百姓らによって指導されており、彼らはむしろ英語で農場経営者を指す語である farmer と訳すのがふさわしい事を考慮すると、これも歴史的事実に即した英訳とは言えない。また逆に、政府に対する暴動、反乱を意味するドイツ語の「Putsch」を日本語訳する際にカップ一揆、ミュンヘン一揆とするように「一揆」の語を当てることが慣用化している面があるが、これも中世の日本の一揆とは似て非なるものと言わざるを得ない。

 

室町時代・戦国時代を中心とした中世後期の日本社会は、下は庶民から上は大名クラスの領主達に至るまで、ほとんど全ての階層が、自ら同等な階層の者と考える者同士で一揆契約を結ぶことにより、自らの権利行使の基礎を確保しており、正に一揆こそが社会秩序であったと言っても過言ではない。戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ねによって経営されていたのである。例えば戦国大名毛利氏の領国組織は、唐傘連判状による安芸国人の一揆以外の何者でもなかった。そのため、一揆が原因になることもあるが、政権の転覆を図る反乱、暴動、クーデターなどとは本来ははっきりと区別されるべき語である。

いわゆる暴動に該当するのは、一揆の形態のひとつに過ぎない、土一揆である。その最初の例である正長の土一揆については、尋尊の『大乗院日記目録』において、して『水戸黄門』第22 26 では、がめつい商人に対して職人たちが共謀して反抗した行為(本来の一揆とは全く異なる行為である)が、作中の人物によって「一揆まがいの行動」と解説された。の盟約が禁止されていながらも、百姓身分の権利行使の慣例として現実的には認めざるを得なかったという、現実と建前の著しく乖離した構図を持っていたこの時代の一揆をもって、日本の歴史的一揆の典型とみなすべきではないであろう。この表向きの一揆の盟約の禁止下で行われた百姓一揆は、その建前上の性格ゆえに土寇(どこう)とも漢語表記された。

 

日本ではこのような狭義の一揆(百姓一揆)が一般市民レベルでは普及しているが、上記のような事情に鑑みると、その一揆観は一揆のごく一部の相を見て創られたものに過ぎない。実際の一揆は、大名層からの抑圧に関係なく結ばれることも多く、また、一揆内での主導権を巡る派閥抗争も絶えなかった。こうした一揆内の派閥抗争を一揆内一揆と呼ぶことがあり、越前一向一揆におけるものが有名である(下間頼照を参また、中世後期の一揆の盟約による政治的共同体が武装していたことから武装勢力の蜂起の意味合いを強く想起する向きもあるが、この時代、自検断権に基づいて、ほとんど全ての階層の共同体が軍事警察力と司法権の行使を認められ、その達成のための保障となる武装は当然であったことを忘れてはならない。

 

一揆の盟約を結ぶに際しては、神前で宣言内容や罰則などを記す起請文を書いて誓約を行い、紙を焼いた灰を飲む一味神水と呼ばれる儀式が行われた。特に日本が明治期以降の近代に入り、江戸時代が最も近い前近代の「歴史」となってからは、一揆は「百姓一揆」を指すような印象があるが、前述のように表向きは一揆「日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」と記載されており、土一揆というのは極めて特異なものであった事がうかがえる。

 

このように、実際に一揆の盟約によって秩序が達成されていた中世後期から、表向きは一揆が禁止されていた中で実際には百姓身分の権利行使運動として恒例化していた江戸時代のいわゆる百姓一揆の時期を経ることで、現代では一揆の本来の意味は忘れられ、理解されがたくなってしまっている。

 

少し引用が長くなったが、「一揆」と言うと百姓(非農耕民を含む)が圧政に抗してギリギリのところで決起する(もちろん、そういう場合も否定できない)、と言うイメージの刷り込みが我々になされているが、封建社会における民衆の自治組織、あるいは政治的共同体と言うのが本質である。その母体が「講」であると言ってもよい。

そして、それはそれぞれの時代的制約に限られたとは言え、「共同体の在り方」を強く示唆している。だが、それも明治時代後半から日本帝国主義の国内戦時体制への移行とともに「上から強圧的に解体」されており、最終的には1938年国家総動員法制定により「隣組」とかの擬似的共同体にすりかえられた。そして、旧来の「一揆」は秩父困民党の闘いの敗北で最後的に一掃されたのだ。現在でも「講」は、長崎県ではほとんど土着化した「隠れキリシタン(明治時代以降カトリックへの復帰を拒否している)」や、「念佛講」あるいは「庚申講」として民俗的な習俗として残存している。さらに、文化・芸能として地場観光行事とされているところもあるが、それらは本来の「共同体」の持つ自治組織や、民衆の権力組織とは現在無縁である。

だが、福島の原発事故で政府や行政の機能が破綻し、1938年施法された国家総動員体制が、戦後も維持されてはいたが(もちろん、それ自体形骸化され支配体制維持の暴力でもって自民党支配の道具化とされているのだ)、今回の原発事故において、その灰燼と行政機能崩壊の中から今日的な「一揆」の復権の兆しが見られ、併せて政府・行政への不信感と相まって、新たな人民の自治組織を我々は歴史的に再構築することも視野に入れて、「人民の権力」を闘いとるべきチャンスであることだと我々は、深く認識すべきである。来るべき社会の当面のイメージとしてマルクスはロシアの農村共同体であるミールを参考にしていたし(ザースリッチへの手紙)、レーニンのソビエトはパリ・コンミューンの血の総括の上で「人民とりわけ労働者・農民の権力装置」としていた。その意味で、この国における人民の権力の在り方について、かかる問題意識を持ち過去を振り返ることもあながち無駄なことではないだろう。

このことについてもう少し触れるなら(原発問題と地域の過去異関連して)、例えば、伊方原発再稼働強行が予定されている佐多岬半島では、かつての藤原純友の乱や平家伝説が今なお土地の人びとにより今なお語られ続けている。瀬戸内海を自由往来し、武装する自治組織を維持してきた過去は、実際に「倭寇」へと継承され、東アジアの大海原を「国境を越えて(当時国境概念が希薄である、と言うこともある)」自由民として活動していたことや、河野水軍(純友の乱に加担していた)や、戦国時代の村上水軍の歴史的存在の事実などに精神的に依拠し、現実の生活を破壊する伊方原発建設に対して、最後まで抵抗し反対運動を展開していた佐多岬半島の人びとの存在も忘れてはならない。

これらの意味で、私たちの闘いは、人民による地域の文化・歴史の今日的復権の闘いでもあるのだ。

(2014・5・28)

テントからのお知らせ

1)   「川内原発動かすな!東日本決起集会」

   時; 5月29日(木) 19時~ 場所:明大リバティーホール

2) 6月1日(日) 第9回東電本店合同抗議(13時~13時45分)

    呼びかけ:たんぽぽ舎、テントひろば 賛同団体:81団体

6月1日(日) 川内原発再稼動やめろ 官邸・国会前★大抗議

   14時~17時 首相官邸前・国会議事堂周辺 主催:首都圏反原発連合

3)   STOP再稼動!テント1000日 6・8集会

6月8日(日)14時~16時30分

明大リバティーホール 福島の祈り★神田香織

4) 6月13日(金)、鹿児島・川内現地行動参加者募集

 6月12日(木)~14日(土)行動。6月12日12時、成田集合、6月13日現地行動。6月14日帰り、参加費(宿泊代込み1万円)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion4863:140528〕