テント日誌11月28日…第二テントに反原発美術館が開設

経産省前テントひろば1540日

第二テントに反原発美術館が開設される

10時過ぎテントに着いたらYさんと泊まり開けのTさんが待っていてくれた。
午前中はいつものようにひっそり。
昼近くなってアースパレードに参加する人などが寄って下さった。
そしていつものメンバーS子さん・Oさんなどが来てくれてだんだん賑やかになった。

昨夜郡山の金曜行動応援に行ったYさんも郡山の名物薄皮饅頭をお土産にやってきた。福島ではまだ若い50代の人が心筋梗塞で無くなるケースが多いこと、放射能の話がタブーになってきていることなど話してくれた。
でも皆気になっているのですね。
持って行ったテントニュースを受け取る人が多かったとのことです。

Oさんはテントで花や風景のスケッチをしているのですが、外務省脇の銀杏やけやきの紅葉の仕方が毎年違うのだと言っていました。
観察力が違うのだなあと感心する。
第2テントでは早川由美子さんや他のアーティストが集まって反原発美術館開設の準備会議らしきことが行われていた。
どんなものが出来るのか楽しみです。

今日は快晴で風もあまりなく過ごしやすかったが、2時過ぎにお日さまが隠れるとやっぱり寒さが身に沁みます。泊まりの人も早めに来てくれ、人が多かったので安心してS子さんと私は3時少し前にテントを後にした。(I・K)

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控訴審判決から早くも1カ月が過ぎて…

昨日、経産省前抗議集会に参加したが、控訴審での判決から早くも1カ月が過ぎた。参加者たちとそんな話をしていた。それにしてもこの裁判の理不尽さはあらためて頭にくる。経産省側(国側)は自己の土地(国有地)が不法に占拠されているとして、これまでの占拠による損害賠償も含めて撤去という処分を求めた訴えをした。東京地裁と高裁は国側の言い分に沿った判決をした。このことは一見すると、国側の所有する土地への不法侵入であり、その排除を求めたものであり、合理的なことのように見えるのかもしれない。一般的にはそのように受け取れられるのかもしれない。国の所有している土地には国の管理権があるのは当然と思われらすいからだ。しかし、これは、僕らにも経産省という国家機関(官僚的組織)が国民(市民や地域住民)の意思を代表、あるいは代行したものだ、つまりは公的機関だと思わされているからであり、これを僕らは生まれたときから刷り込まされてきているからだ。このことに、少しでも疑いを挟めば、事態は違ってくる。もっと別に見えてくる。僕らもこころのどこかで、この一つの常識のような考えがやむを得ないと思わされているのかもしれないし、これに疑いをいだいても、これがもう一つの常識になるまではなかなかのことだと孤立感におとしめられるのかもしれない。でも、僕らはこの疑念に執着し、常識に抗い続けねばならない。脱原発の運動、闘いとはそういうことなのである。寒風のふきすさぶ経産省前での僕らの声は、経産省側から無視されているように見えるが、僕らの疑念は彼らに届いているのだし、無視されないものとして彼らだって考えざるをえなかなっている。テントを訪れ、談笑して行く人々を監視カメラで覗きながら、彼らは脅迫されているのだ。≪ごみのような連中の叫び>なんて思っている反面、それを聞こえないようにして置こうという心性が働くように恐れてもいるのだ。僕らは壁の向こうをこのように見ておかなければいけない。

僕らは原発の再稼働に反対している。原発の存続にも反対している。これは原発についての民意、いうなら公的立場を代表しているといえる。ここでいう公的-ということは共同的、社会的、国民的立場を代表しているということである。経産省はこれを無視し、原発再稼働や存続を進める。多くの事はともかく、この

原発についてのことに絞って論じればことは明瞭になる(辺野古の新基地建設も分かりやすいことかもしれない)。国民(市民や地域住民)の民意(意志)に、反して国家機関(官僚や政府)は原発再稼働や辺野古基地建設を進める。

これは国民を代表するはずの政府や官僚(公僕)が取る行為としては矛盾ではないかと思う。誰もがそう思うことである。政府の場合はこれを国民の承認されたものであり、公的な立場にそったことであると強弁している。法に沿ってことを進めているというのは政府が法的に公的性を保証された存在だから、自分らのやることは公的なことだといっているにすぎない。具体的に彼らはそれを示せないのだが、官僚たちは黙ってことを進める。

原発再稼働や存続を国家政策として掲げ、それを国民が承認したとは手続的にも過程的にもいえない。そうであれば、原発再稼働や存続という政治的決定は国民の意志(民意)、つまりは公的な要求に反して進められていることになる。つまり、公的な欲求に反しているのである。これは官僚が公的な要求に反した行為をやっていることを露呈させているのである。

もともと官僚は社会(市民や地域住民の世界)の外部にある国家を母体にして生まれたものであり、社会の利害や欲求とは別の利害で動く存在であるから出てくることだ。前の日誌で紹介したように、佐藤優は官僚が国民の収奪(税という形態)の上に存在する階級的存在であると指摘している。官僚は国民の代表であり、意志の代行機関であるという公共的な存在という装いが進んでいるから、その存在を見破るのは現在では難しいにしても。彼らの本質と公的存在という偽装はなかなか見抜くのは難しのだが、原発政策の推進(再稼働や原発存続)はその矛盾と同時に本質を露呈させるともいえるのだ。彼らの取っている現在の所業は、官僚の本質と実態を見抜くサンプルのようなものと言える。彼らの原発政策は国民の意志(民意)、つまりは公的な政策に反していることであり、彼らの存在を覆っている公的存在ということのいかがわしさ(実態)が露呈している。

密室で、閉ざされた場所での原発再稼働や原発保存政策は、それに反対する国民の運動が現れ、対峙的に展開される中でその非公的性格が見えてくる。と同時に普段は見えにくいその階級的、権力的性格もあらわになる。テントは原発問題での公的な提起と展開をした。それを可視的な形で示したのである。原発再稼働や原発存続は公的な利益によるものであるのか、どうかを鋭く問うたのである。経産省が公的な存在であり、公的な利益という立場で、原発再稼働や保存政策をやるのなら、それで持って僕らと対決し、彼らの意思が公的なものであることを示さなければならないはずだ。これは彼らが国民に向かって自己の立場と根拠を明瞭にすることでもある。彼らが公的な存在であれば、そうするはずだ。でも現在の官僚はこれを避け、誰が、どこで、どのように決めているのかを不透明なままことを進め、一方では国民的、いうなら公的な主張に対して排除で臨む。

彼らは公開的にことを進めえず、国民に見えないところでことを進めてきたのであり、国民に対してきたのである。テントに対し、裁判での撤去(排除)の主張は原発問題として答えず、土地の管理という論理で持って対応してきたに過ぎない。再稼働反対、原発存続反対という公的な展開を、彼らが土地を管理しているためという主張で排除してきたのだ。彼らは土地の管理が公的なものの維持であるという論理で装う。経産省が僕らの公的主張を排除して土地を管理することが公的なことなのか、僕らが原発問題での公的主張の展開のために、この場所を使うことが公的なことなのか。土地の管理一般ではなく、このことに本質がある。これは官僚たちも分かっていることである。ある意味では彼らが安易にテントに手を付けられない理由でもある。

彼らは僕らを排除し、彼らが管理すること、つまりはこの土地を使うことを「公共の福祉」のためという。「公共の福祉」というなら、その中身が問われなければならない。経産省の立場は突き詰めて言えば、原発再稼働や原発保存が「公共の福祉」ということである。脱原発や再稼働反対のためにこの土地を使うことを排除するのはそのためだという。だが、彼らは表立ってそれを言わないで「公共の福祉」という抽象的な言い方なのだ。何が「公共の福祉」なのだ。

原発再稼働や原発存続が「公共の福祉」であり、だから、それに反対し、異議申し立てをするのが「公共の福祉」であるというならそう言え。彼らはそう言わない。彼らの論理は経産省は公的存在である、だから、自分たちが「公共の福祉」というのだから「公共の福祉」であるといにすぎない。むかし、天才バカボンのパパがいてなかなかユーモラスな応答をしていたが、この答えは権力の独善的なものだ。それ以上ではない。言ってみれば、これは彼らだけでなく、多くの国民が官僚を公的な存在であると思い込んでいる(思い込まされている)ことの結果にすぎない。彼らが管理としてあの土地を使うよりは、原発問題を討議する空間として使うことは「公共の福祉」にかなっているではないか。権力の独善を排除するために法があるではないか、といわれるかもしれない。法は権力の独善を廃止、国民の公的なものの展開のためにある、国民の権利としてのほうである。これは俺たちが公的存在なので、俺たちのやることは公的なこと(公共の福祉にかなったこと)という権力の独善を縛るためにある。

おかしいではないかという疑問に対する解答は決まっている。官僚のやることを認めるだけだ。これはそれを媒介する法が官僚のための法であるということによる。近代法による法治が支配的であると思われているが、日本では(中国はもっと明瞭だが)、伝統的な、アジア的な法思想(法家の思想)が実質的には力を持っているためだ。法は官僚という上級存在と結ばれたものとしてあり、国民の権利として官僚(権力)を制限し、縛るものではないからだ。法は国家や官僚のためである。法が国民の権利であり、そのための手段であるというのは少数のかんがえである。近代法はタテマエの域を脱してはいない。それが現実である。

公的な運動や表現を排除するために、使われる「公共の福祉」という論理はその中身が問われないで、官僚の行為や主張を守るためにつかわれる。裁判所が官僚側の論理を承認するために使ったのは驚かない。裁判所も官僚的存在であることもあるが、日本で法思想がその水準にあるためだ。

官僚の存在を本質的に認識し、それと闘うということはその擬制的な公共性とも闘うことだが、それは現在ではアリの一穴の如きものかも知れない。いつの時代も権力との闘いはそう見える。でも、一見、強固に見える堤防がアリの一穴で崩されることにもある。(三上治)

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<イベント紹介>

★12月2日(水)大27回東電本店合同抗議

開始時間は18時30分(いつもより30分早い)

★12月5日(土)集会とデモ 日比谷野音(13時45分開始)

「KEEP CALM AND NO NUKES 反原発★1205銀座大行進」

主催:首都圏反原連(12月4日金の官邸前抗議行動はお休み)

★ もんじゅを廃炉に!全国集会&高浜原発3・4号機再稼働を本気で止める全国集会」

もんじゅ集会:福井文化会館(12時)/高浜集会福井市西公園(14時30分)パレード(15時30分)

◆原発事故被害者の切り捨てを許さない12/5東京集会

12月5日(土)13時~

田町交通ビル&Fホール(JR田町駅芝浦口徒歩3分)

主催:原発事故被害者の救済を求める全国運動実行委員会

資料代:500円

集会内容

ひだんれん挨拶

連帯挨拶 さよなら原発1000万人署名市民の会/鎌田慧

     反貧困ネットワーク

特別講演

『原発避難白書』から見える避難者の現在 弁護士大城聰

当事者報告