経産前テントひろば1260日商業用原発停止513日
「話と座談」は盛況のようだ
今日は最首悟さんをお招きして「話と座談の会」があったので1時過ぎテントに行った。
着くともうMさんが第2テントの邪魔なものを外に出したりして準備をしていた。会とは別に今日は建国の日なので右翼がやってくるのではと心配して来てくれたYさんに手伝って頂いて会場作りをする。
その後続々と参加者が集まってテントの中はすぐ満員になってしまった。
仕方なくたんぽぽ舎ボランティア姉妹、休日なのでと寄って下さったUさんなどと座り込む。
幸い右翼の街宣も通らず好天の中で楽しいひとときを過ごした。
3時半過ぎ休憩の後座談に入ったようですが、
私は後片付けを託してテントを後にしました。
今日も三輪さんが撮影して下さいましたので以下で様子が見られます。(I・K)
https://www.youtube.com/watch?v=18eU7zqx9_4
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最首さんの話の資料として提出いただいとものです。話の一部でしたがかなり、中心的なところでしたので転載させていただきます。「いのち」という問題をどう考えるかとういう提起です。話の道筋では原発とトイレのはなしから始まって最後の方で「いのちはいのち」ということになりました。
FONTE不登校新聞№299 2010/10/01 1,6,7面掲載
「いのちとはなにか」最終回 最首悟 (話し言葉を改め少しばかり加言)
――これまでの連載をふり返っての感想とお考えをお願いします。
連載で共通しているのは、人間が「取り仕切れないこと」を指摘していることだと思う。人間が取り仕切れないものは「神」と「仏」と「いのち」である。ほかにも細かく言えば例えば「存在」があるが、それにはいろいろな考え方がある。「宇宙」も取り仕切れそうにないが、これは定義によっていつか取り仕切れるかもしれない。
明確に、いつか取り仕切れることを拒否しているのが、神と仏といのちである。
いのちについては、いつかわかるのではないかと思われている。20世紀までの400年間、自然科学は要素還元的、要素分析的手法をとりながら、輝かしい勝利を得てきた。それは「いのちはわからない」という結論に到達せざるを得ないという筋道をつけたということである。21世紀に入って、いよいよ分子生物学が進み、いま「万能細胞」と呼ばれるiPS細胞をつくるというところまで進んだが、進む分だけいのちはわからなくなってきている。
なぜわらかないのか。それはいのちが「部分と全体の連動と循環」という性質を持っているからだ。つまり、部分と全体はつながっているのではないか、あるいは、部分が先なのか全体が先なのかではなく、循環、相互往復なのではないかということである。具体的に言えば、DNAとタンパク質、どちらが先なのか、ということがわからない。タンパク質がなければDNAは構成されない。DNA情報がなければタンパク質はつくられない。いま科学の世界では、さかんにどっちが先なのかと議論されている(池原健二「GADV仮説2006」が、おそらくどちらが先かという問題設定では、この問題は解けないだろう。
たとえば、ヒトは60兆個(最近40兆個と言われる)の細胞からなる秩序体という全体である。しかし、60兆個の細胞の一つひとつもまた一体という秩序体である。さらに言えば、私たち一人ひとりは69億人という人類全体の一体(部分)である。この一体と全体の関係が、いったいぜんたいどうなっているのかわからない。
――「神や仏に立ち入れない」と言われましたが、その根拠は?
私たちが想像できるのは一体と全体で表せるものである。そのほかに完全体がある。神と仏は完全体に入る。神には構造がない。のっぺらぼうである。混沌と言ってもよい。それゆえに「神さまには耳も口もあります」などと言ったら神は死んでしまう。神は「ある」(有)という完全体でありながら、構造がないから「無」に通じる。構造がなければ私たちには想像できない。想像ができなければ、それは「無」とか「空」というもの・ことになる。
たぶん、いのちもそういうものとして捉えられるのではないか。いのちには、二つのフェーズがあって、ひとつは形と働きを持った多様に満ちた個体(一体)である。私もいのち、あなたもいのち。それを「分有のいのち」と呼ぶことにしよう。分有のいのちというのは、いくらちぎってもちぎっても餅というように、無限分割可能体である。そして分有のいのちは、はかり知れない多様性と関係性に満ちている。
分有のいのちは公式にするならば「いのち=形+働き+いのち」です。左辺のいのちとは私という分有のいのちであり形と働きを持っている。もし人間や生き物に形と働きが奪われれば、それを「死」と呼ぶ。しかし死んでも、いのちが残る。それが右辺のもう一つのフェーズのいのちである。(形+働き=0)を公式に代入すれば、いのちというのは「いのち=いのち」になる。この「いのちはいのち」という感覚、いのちはわからないものだという感覚は、みんな活き活きと暮らしの根底に持って暮しを支えている。
一方、神と仏については、いろいろと異論が出るだろう。それゆえ神や仏という完全体について、そのように名付けるだけにして、神や仏がひとにむかってどう言ったか、あるいは完全体といのちとがどう関わっているかは留保して、ハンチントンの遺言の21世紀宗教戦争を回避しょう。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の共立には、遠からず「いのちはいのち」の態度が必要になる。それはそんなに簡単なことではないが……。
エルサレムには、わずか100平方キロ強のなかに三つの聖地がある。そこに三つの聖地があるということが、三すくみで何とか共立いる証明であり、同時にたがいを排除したいという緊張感の表れでもある。同じように、9月11日も共立と排除の二つの始まりであろうと思う。そういう意味で、神や仏は留保して、「いのち」を共通の立ち位置にしよう。共通の立ち位置というのは、まず「いのちはわからない」という態度。そして、いのちは取り仕切れず、私たちはすべていのちのなかで暮らしている、という認識である。
――しかし現在は社会では、いのちよりも合理性、そしてお金のほうが大事な社会になっていますが。
それは人間とは何か、という問いに対する西洋の答えがもたらしたものである。
人間を公式であらわすと人間=生物+αである。生物は機械原理+β、機械は物理化学原理+γである。まとめると人間=物理化学原理+α+β+γ。物理化学原理だけでは機械にならない。機械には目的があるからである。時計にしろペンにしろ、どんな機械にも目的がある。ところが機械には意思がない。しかるに大腸菌といえども意思があると言わざるを得ず、「自ら」という部分が生物にはある。つまりβは「自ら」、γは「目的」である。ではαは何であるか。αの部分が人間と生物をわけるもの、もっと言えば人間の本質だと言える。
西欧の場合、人間と生物を分けるものは「尊厳」(15世紀末)だとした。そして16世紀の宗教改革は自然に働きかけて価値を生み出す「創造労働こそ人間の本質」を導き出した。ミツバチやアリは労働はするけど価値を創造していない。価値を創造し文化を生み出すホモ・ファーベル(工作人)こそが人間なのだと。シンボルという価値体を生み出すのも重要である。
ではαは「創造労働」なのかと言えば、日本列島的にはそうはならない。αは「遊びと笑い」らしい。ここが分かれ目である。人間の本質を労働とするか、それ以外に設定できるか。
労働とするならば、すなわち「働かざる者食うべからず」。食うべからずどころか有害であるとして、王と貴族と不在地主と太った僧侶の首を刎ねた。これが、近代産業市民主義を生んだフランス革命である。現代で言えば、それに該当するのが、認知症老人と私の娘の星子のような重度の知恵おくれであろう。脳死のように意識がなければ「死」と見なし、IQ20以下や働けない者は人間と見なさないのは、人間の本質を労働だと決めているからである。
なぜ西欧では、労働こそ人間の本質だと言われるようになったのか。その源流にはキリスト教のプロテスタンティズムがあると言っていい。哲学を含めて、物体と精神を分けて考え、人間が死ぬと精神は救われ、物体からは別れる、とした。一方、モンゴロイド(東アジアや南北アメリカなどに住む人種)の伝統では、あらゆるものにいのちを見い出した。道元の言い方を借りれば「山川草木波頭」にまでいのちがある、つまり、石ころにしてもいのちがある、と。魂と肉体を分ける考え方は世界的にいろいろあるが、物質といのちをはっきり分けるのは、プロテスタンティズム以来の西欧近代だ。肉体は物質的自然に属する。そうなると死んだ人間は物体であるから資源である。ごみも資源だ。資源は自然と言ってもいい。自然ならばそこから価値を取り出して、文化を創造するのが人間の本質だ、と。人間以外のあらゆるものを有機的物質、無機的物質とすれば、自然への畏れなどといった思いやしがらみを取りのぞいて、自然を開発していくことが可能になった。
このように人間の本質は労働にあり、労働とは文化や価値を創造するものだと考えると、労働は神聖な行為だと考えることができる。日産のゴーン社長は年収8億だか10億だかあることについて、当たり前だという。それは労働が神聖だと思い、その労働を束ねていることに至上な価値を見い出しているからなのであろう。このように神聖化された労働は突き進むところまで突き進み、大工業化を経て、結局は労働よりもお金がすべてが支配するという金融資本主義の現在にいたる。
――日本の場合はどうなのでしょうか?
日本でも同じような状況がある。日本国憲法では労働の権利と義務を規定している。納税は義務だけ、教育は子どもに権利、保護者に義務を与えているから、直接、権利と義務を規定しているのは労働だけである。それゆえ、社会システムとして労働の権利を認めなくてはならないが、本当の目的は労働の義務を規定したことにあります。つまり、憲法も「働かないで遊んでいるヤツの首は刎ねていい」という論理である。
それとは別の理由から日本では熱心に働く人はいる。職人的に働いている。職人というのは物にいのちを見い出す。西欧的な「プロ」のように物質を物質としてだけで扱っていない。典型的な職人はガラス吹き職人だろう。ガラスに息を吹きかけて形を創る。それは息吹によってガラスにいのちを吹き込んでいる作業である。職人の道とは、いのちを感じ、他人にも感じさせるように具体化する作業の道です。それゆえ職人は一生修行を積む。プロを目指すというとき、それは職人を意味している。
――そうすると、現在は世界中が「人間の本質は労働」だという原則にいるわけですね。
資本主義国社会主義国はそうだと言っていい。そして人間の本質が労働だけという発想になると、その恐ろしさの一つに「独り性が失われる」ということが言える。このあたりのことは仏教がよく説いている。釈迦は「サイの角のように独り歩め」と言う。人のなかには二つの衝動がある。独りとして生きていこうということと、みんなに向かっていかなければならないということ。人間はそもそも独りで生まれ、独りで死ぬ。そのなかでいのちに照らしだされ、自から(おのずから、みずから)共同性へ、つまり、みんなに向かっていく。労働というのは共同性のものである。みんなに向かうことを指している。いま、独りであること、「独存」であることがあまりにも奪われている。それゆえ不登校やひきこもりが大事な経験になる。
では、労働だけではない人間の「+α」はなにか。これは先ほど言った「笑い」「遊び」、そして「ケア」ではないかと思われる。ホモ・ファーベル(工作人)に対し、ホモ・ルーデンス(遊び人)と、ホモ・クーランス(癒し人・世話をする人)がある。笑いはケアに欠かせない。
「世話をする」は「ケア」のことだがが、その第一条件は「人に迷惑をかけない」ことである。そしてケアの源泉になっているのが「赤ん坊を抱き上げる」こと。赤ん坊が道ばたに転がっていれば思わず抱き上げる。どれだけ重大な仕事があっても、赤ん坊になんらかの反応をする。この反応を内発的義務という。人に迷惑をかけないことと人に寄り添うことは共に内発的義務から生じる。
人間の「+α」の遊びと笑いと、ケアと労働。その4つのうち労働が肥大化すると社会は閉じて息苦しくなる。とくに日本は「働かざる者食うべからず」という近代西欧の概念を急速に持ち込んでしまった。しかし、いのちに対する感覚は火種としてあるから、いのちに抱かれ、いのちに浸っている、死んだっていのちだという世界を取り戻せると思っている。
――ありがとうございました(聞き手・石井志昂/子ども若者編集部)
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宮崎のUさんからの贈り物が届いていた 2月12日から
テントに着いたら宮崎のUさんから素敵な便りとカンパが届いていた。
手紙には遠くからテントを心配して色々行動している事が書かれている。
1)葉書作戦「東京地裁民事第37部」村上裁判長らに当てて毎日葉書を出す。
2月26日までに64枚になるそうです。すごい!
裁判長、ちゃんと読んで呉れているかな?
2)困ったときの神頼みで「仮執行」にならないように神社にお参りもしているとのこと、
そして地元でも脱原発のため努力している様子、
彼のテントへの思いは永年の脱原発への強い願いに他ならないのです。
見習わなければと思います。
今日は暖かくて太陽を背にして座るとぽかぽかして気持ちよかった。
でも話題は暗い事ばかり、憲法を破壊して戦争への道に進もうとし、お金のために原発再稼働に邁進する政治に私たちはどう立ち向かえば良いのか悲しくなる。
一寸落込んでいるとき、女性が来て名前も告げず、みかんや、お菓子をたくさん差し入れてくれその上カンパまで置いて行った。
テントを思ってくれる人が沢山いることで気を取り直す。
3時ごろ自転車で寄って下さった男性、東京の放射能汚染を心配して測定してい
るとか、テントのことも建った当時から関心を持ってくださった様で、M子さんと意気投合して長時間話して帰られた。
夕方Kさんがニュース43号を増刷してきてチラシの組み合わせ作業を熱心に続ける中私は失礼した。(I・K)
◆テントでの「お話と座談」(トーク)
2月16日(月)午後6時30分~宮崎学・青木理さんの対談と座談
連絡 テント(070-6473-1947)か三上(090-3908-7330)へ