テント日誌3月23日…クラリネットが心地よい/る裁判官が、東電勝俣のようにサボタージュ/ 政治家たちのいう法治国家とは

経産省前テントひろば1291日商業用原発停止555日

クラリネットの静かな演奏が心地よい

昨日の「安倍政権NO!0322大行動」が終え、テント前は夕闇が迫るまで多くの人々が歓談し、カンパ総額は79,000円を超えた。テントへの心強い応援が頼もしく感謝が身に染みる。

一週間前の深夜から16日早朝にかけ仮執行によるテント撤去X dayが想定され緊張感に包まれた時間を経験した。そして22日の深夜、S・Mさんが12時過ぎにツイキャス終了のコメントを画像とともに送信した。
今回の仮執行対策は一種の予行演習になった。控訴審を経て秋から再びテント撤去の可能性が生じる。今回の経緯を活かした対策と活動が求められる。

第2テントに泊まるH・Yさんが第1テントに訪れ、女性が泊りやすい環境作りに銀座・金春湯(銭湯)の利用などを検討している事や今後に備えた資金作りについても話し合う。S・Mさんは著名イラストレーターが描いたNO NUKUS Tシャツの販売を提案。実現させたいアイデアだ。直ちに連絡が取られ反応が楽しみだ。

午前2時半過ぎに就寝、朝6時半過ぎに起床。K・Mさんがテント前の椅子でクラリネットの練習に勤しんだ。明け方の霞が関のど真ん中、クラシックスの静かな演奏が何とも心地よい。いつもは8時半から始めるチラシを演奏に合わせ配ると高率で受け取ってくれる。効果を伝えると彼は笑った。

 その後も昨日Kさんが配布用に印刷したテントニュース最新版を配る。今朝は財務省前のメトロ階段の出入口だ。毎週最新の原発関連情報を盛り込んで呼びかける。先週の原発5基の廃炉と抱き合わせの再稼働申請。九電が発表した川内原発、夏の再稼働阻止を訴える。通勤者の列からはほとんど無視されるが、
それでも受け取る人が必ずいる。60枚ほどを撒くのに9時半までかかったが、月曜配布が確実に定着しているので更なる受け取りの工夫の必要性を感じた。
(I・M)

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最高の地位と経済的補償を享受している裁判官が、東電勝俣のように、サボタージュしている

      監視テントのくま

司法の自殺――三権の分立というが、司法がその権利を行使する努力を完全に怠った事件を目の当たりにした。テントの建立が、テントひろばの存在が事件になったのは、国が訴えたからであろうが、この訴えの正当性について、この裁判長たちは、判断できず、みずからの司法の主体的判断、訴訟指揮ができないことを白日のもとにさらした。かれら裁判官たちは、裁判が無意味であることを証明した。こうして、司法の独立はありえず、裁判は、権力のご都合的道具と化した。2月26日はそういう日であった。

東電福一事故の原因の多くは、事故を防ぐあれこれの補修・改善コストを経営者が削減した結果である。司法も東電もサボタージュ(怠業)をすることへの酷しい反省がない。

サボタージュはあるとき戦術である。働く理由がないときには、ストを打って、職場は抗議行動の舞台に変わる。良心的被害者は、この裁判の判決をいただくことをサボタージュした。かれらは、判決を受ける根拠も正当性もないと判断した。

立場でサボタージュしている。受身しかないなら、サボタージュしかない。

ひそかに故障を起こすサボタージュ戦術もある。故障が起きても、特定秘密として隠されるだろう。サボタージュとサボタージュの連続である。原発工場の現場でしていることもおざなりな仕事の連続であろう。なぜなら、事故が起きないという盲目的な信仰に基づいている「時限」爆弾システムを転がしているだけだからだ。ここまで無責任な体制の良心的指導改悛をさぼりながら、裁判官として、エクゼクティブとして、高収入を得て、能天気に暮らしている。2・26判決は、司法の怠業である。なぜなら、この一年以上の審議の成果がまったくみられない、検察のいうとおりの判決をコピーしただけだからである。この裁判官たちは、ほとんど、マシンに過ぎないのに、人間生活の対価を民衆の税金から戴いている。権力がコインを入れれば、権力の都合のいい判決文がでてくるマシン。被害者の陳情も弁護士の論理もまったく意に介していない、馬のような裁判官だった。ありがたい証人たちの言葉を理解できない、馬か犬か、なのだ。餌をもらえれば仕事は終わっているのだ。くわしくは、テントひろばのWEBで確かめてください。もっともらしい司法界の権威主義など真似したい気持ちにはなれません。

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政治家たちのいう法治国家とは(?)

以前からどうも気になっていたことに、ことあるごとに日本は法治国家であるという語る政治家の言動がある。僕も学生時代にあんまり真面目に憲法や法について勉強したという記憶はないのだが、それでも常識として身につけた考えはある。政治家の言動はどうもそれに反するというかそう思えてならない。認識というか、理解が食い違うのだ。与党といか、保守派の政治家に限らずいえることのように思う。

 テント裁判での裁判官にもそういう感想をいだいたのだが、沖縄の辺野古基地建設作業にたいする翁知事の停止指示に対して管官房長官や中谷防衛長官の発言にもあらためてそう思った。彼らは日本が法治国家なのであり、翁知事の指示はそれに反するようなコメントをしていた。だが、それで何を言いたいのかよくわからなかった。

 辺野古作業が法にのっとって工事を進めているという意味なら分かる。(仲井真前知事の認可には問題があるのだがこれは問わないとしてだが…)。辺野古作業が許可条件に反している疑いがあるから、停止指示を出すことは法にのっとった行為である。停止指示が法に反しているという反論をするのなともかく、法治国家であるからというのを突然持ち出すのは何らの反論にもなっていない。何がいいたいのかわからない。法的な手続きを経て事を進めているのだから、それを妨害してもらっては困るというのだろうが、作業が法に反してなされていることについての反論になっていないのである。

国家や権力の側から法や法治ということが持ち出されるたびに、どうもちがうという違和感というか、齟齬をかんじるのだが、何故だろうと考えてきた。僕の身についている法や法治に間違ったところがあるからか、ともしばしば考えたのだが、どうもそうではなさそうである。

 ある本で日本人や西欧人が中国での良く法的な対立というか、齟齬に出会うことがあるそうだ。これは法の理解や解釈、突き詰めていえば法についての思想が違うからだと述べていた。これはとても興味深かった。詳しく説明するペースはないが、中国は伝統的な法治国家であり、その源流は法家(韓非子)にあり、これが現在も中国の法思想であるというのだ。法とは役人(官僚)のものであり、その技術であるとするものだ。法は上級者(支配者や官僚)のためのものであり、その解釈権も彼らに属している。これは権力を縛り、制限するものとしての法、あるいは権利としての法というのとまるきり違うものである。中国は法治の長い伝統があり、法制は近代以前の西欧よりも発展していた面がある。中国の法制について仁井田陞は中国の法制は発展していたが自由はなかったと述べているが、肝心のところが違っていた。

 この本を読みながら、僕が想像したのは日本での法や法治についての理解や認識だった。日本が近代法を導入したのは明治時代以降であるが、明治の支配艇的な思想が儒教であったように、中国の法家の思想は支配的なものとして存続してきたように思う。国家権力や官僚たちには無意識化も含めて伝統的な法家の思想はあるのではないかと思えてならない。法治国家と言っても日本の長い伝統でもあった中国の法家流の概念と近代法的な概念が混融してあり、日本の国家権力者や官僚たちは本音のところでは中国の法家的な考えを持ち、それが顔をだすのではないのか。そこのところを厳しき問うかたちで法や法治について考えてはいないのではないか。これは明治以降の近現代史を問えば明瞭になることのように思う。

 憲法について日本の政治家や官僚がどう考えているのか、ということにもなるのだが、彼らが法治国家なる言葉を聞くたび感じる違和感は日本の法思想、国家思想の根深いところの問題であり、僕らはその歴史的由縁まで掘り下げて考えることを必要としている。相変わらず長々と書いてしまったが、裁判官や裁判所に対する不信や疑念に連なることであり、気になることだ。(三上治)