暦をめくれば啓蟄(けいちつ)である。春も近くなって虫たちがうごめきはじめるのであり、長い冬から解放されたさざめきが聞こえてくるのだ。(啓蟄や頭上を誰か踏みゆける―松田福枝)。温かくなったと思ったら寒さがぶり返す、そんな日々だがやがては三寒四温という言葉がぴったりということになるのだと思う。政治は冬の季節に突入しつつある感じがするが、こちらも人々が街に溢れ出る春の季節に入りたいものだ。意志表示の群れが街に繰り出す日々を。
前日に「唐牛健太郎没後30年を問う」という催しがあった。若い人たちは唐牛健太郎と言っても知らない人が多いのかもしれないが、1960年安保時の全学連委員長であった。あの当時の首相の岸信介の孫である安倍晋三が現在の首相であることを考えると、何か因縁めいたところもあった。岸と佐藤(栄作、後の首相)の兄弟は安保に反対するデモに自衛隊を出動させることに意欲を燃やしていた。これは赤城防衛庁長官や幕僚長たちの強い反対で実現しなかったけれど…、もし彼らの主張が通っていればどうなっていたか。
今、孫の安倍首相が自衛隊の海外派兵を合法化する集団自衛権の行使を容認するように憲法解釈を変更せんとしているのを見るとこれまた因縁めいたものを感じざるをえない。軍隊の外に向けた出動と内に向けた出動とは、戦前の歴史を見れば同じことであり、必ずそうなってしまう。この催しはテントの近くの憲政記念館で開かれたが、テントに還り道にそんなことを思いだしていた。テントに寄っていただいた人もいた。
統治権力についての優れた見識を持たぬ連中がその行使者になることの恐ろしさを知るべきなのだろう、と思う。法治の精神というか、根源を知らぬ面々が法治主義をふりまわす矛盾とでも言うべきか。積極的平和主義の滑稽さも含めて。平和や民主化を掲げて戦争をするのが大国の常套手段であれば、積極的平和主義は戦争の合理化の旗印に過ぎないのである。平和を願っていない人たちの口にする平和主義には要注意である。
新聞の見いだしに風化する震災というのがあった。原発震災も含めて人々の関心が薄れてきているという意味では風化というべき現象があるのかもしれない。しかし、風化という言葉に惑わされてはならない。物事に対する感覚的、あるいは感情的な反応はそのまま長続きするものではない。物事は対象として変化するし、感覚的・感情的なものは中性化という内化を遂げて存続するものだからである。原発震災も含めた大震災の反応も同じ形で持続して行くのではない。
中性化という内化(身体化)された反応の持続や深化もあるのだが、それは反応が薄れてきている風化ではなく、別の形の存続である。そこで必要なのは内化に対応する物事の認識や理解力の深まりである。震災に対するそれが自分の中で深まっているのか、どうかを内省すれば風化の実態は見えるはずだ。風化のように見える現象は脱原発運動への関心の風化とも重なっているように見えるところもあるが、これは人々から関心が去ったことではなく、内化して持続している面もあるのだから、この面での課題(原発問題の認識力や理解力の深まり)に目をやり努めよう。また、そのうちに風化を吹き飛ばす行動もみられるだろうとも思う。
三年目を迎える「3・11」もすぐ近くであるが、3月9日(日)から3月15日に至る脱原発運動の集会・行動がそれこそ目白押しである。全国各地で多くの集会やデモがある。北は北海道から南は沖縄までおびただし数だが、3月9日(日)には首都圏反原連等が主催の集会が13時から《日比谷野外音楽堂》である。14時からは国会請願・包囲デモが、15時30分~17時まで国会正門前の集会がある。経産省前テントひろばは協力団体だが、14時から東電への抗議集会などを行う。3月15日(土)には日比谷公園の野外音楽堂で12時から集会がある。これらについては別版でおしらせする。(三上治)