テント日誌3/27日(水)経産省前テントひろば564日目…桜が一気に開花し

桜が一気に開花し、心の準備も整わないうちに花見かよ、と思っていたが、一転して寒い日が続く。まだ、散らずにある外務省前の桜を見ながら、そんなことをぼやいていたら、週末まで桜は持つからいいのだとKさんが笑顔で言った。金曜日の官邸前抗議行動のあとに、日比谷公園あたりで花見をやろうということらしい。この行動は午後の8時くらいまでだからその後の夜桜見物というところか。官邸前抗議行動の後にどこかで一杯というかわりに今回は桜の下でやればよい。誰が提唱したのか楽しみだ。そういえば『夜桜お七』という演歌もある。美空ひばりの歌かと思っていたのだが、坂本冬実の歌だがお七と言う言葉がそれを連想させたらしい。車屋さんという彼女の歌の文句がそれを誘ったのか。それはどうでもいいがこの歌は女性の自己主張を歌ったものとあるから今の状況と無縁ではあるまい。誰か花見の席で歌ってみてもらいたい。

テント前ひろばが提起していた「福島月間」は3月23日(土)・24日(日)の福島での集会参加で終わった。多くの課題を残したという思いが強い。テントに泊まりながら結構議論もした。これを反芻しながら、今後のことを考えて行きたいが、やはり、私たちは今、「時の風化」との闘いを強いられているのだという実感がする。『3・11』から2周年と言ったってたかが2年じゃないか、という思いがする一方で2年というのが速いスピードで物事を忘却させもする。これには現在が次々に生起する事件で、我々が物事を考えている間にもう次のことがやってきているという状態があるからだ。どんなに大きな事柄や事件もそれを対象化し得ないうちに、ということは身体化し内化しえないうちに次のことを考えることを要求されているのだ。歴史的な時間の流れがこんな風にあるから、じっくり物事を対象化して行くことが難しいのだ。でも、他方で、社会や世界はそんなに変わってはいないということを思い起こすこともある。

古い歴史のことが昨今のことのように思うこともあるのだ。ちっとも変わってはいないという感慨をもたらすのだ。歴史的な時間の流れを速くしている、そのように思わせているのは多分に現在のジャーナリズムの働きがあるのかもしれないが、我々は時にじっくりと考え、こうした時間の流れに抗することも必要である。事件などにこだわりしつこく考え続けることは大事なのだ。世間の動きからは孤立する、新しい動きについていけないで、どうしてこんなことにこだわるのかという心境にさせられるかもしれないが、時の動きに抗して頑固に考え続ける必要がある。それが、ある意味で歴史につながって行く道でもあるのだ。一見すると、孤立しているようにみえても、それが全体につながっているのである。ジャーナリズムの作り出す時の流れという空虚に抗して自分の流れとして時間を形成すること、それが「時の風化」に抗する道だし、その時に世界は変わった光景に見えるかもしれない。でもそれこそが、自分にとつてだけではなく、他者にとっても真なる世界なのだ。今はそうして世界を自己のうちに生成することが困難な時代であるにしても。

『3・11』から2周年というがこの2年間に多くの物事が突き出され私たちに対象的になることを突き付けた。それは対象的になること、考えを及ぼすことが難しいことを現出させたことである。考えて見れば「原発事故が収束」していないことはその象徴であるといえよう。この事実や現実から実に多くのことが突き出されている。それは原発のことから、日本の社会のことなどである。ある新聞で「原発事故は収束したのではなく、収束させたい人がいるのだ」と書いてあったが本当にそうだと思う。これは原発事故を考えたくないということであり、突き出されていることに目を覆いたいということだろう。「時」は人間の傷をいやし、包摂していく作用もある。時の流れには人間の救いとなるところもある。そこに依存するのが日本的な自然思想のである。それにはいい所でもあるが怖い所でもある。これが権力的な力としてでてくることに私たちは警戒し、時に抗わなければならない。そこが大事なのだ。その意味では「福島月間」として提起されたことは終ったのではなく、続けられるべきことである。

毎週金曜日の官邸前抗議行動について新聞は参加者が減ってきていると報じている。参加の人は増えたり減ったりするだろう。それはたいしたことではない。そんなことはちょっとした契機でいくらでも変わる。「時の風化」が参加者たちにもたらす、孤立感的な心境が問題なのだ。原発問題を過去のことにしたい、なるべく現在の問題から遠ざけたいと言う有形無形の力がここに働いているのである。権力というのは日本的な自然思想も含めて包括的にあるのであり、それに意志的に抗することは無意識的なものも含めてやってくる孤立感と抗うことだ。それがなかなか難しいことだ。自己の内に内ザ化したものしか、孤立感と闘えないが、それはまた、孤独な自己門答しか支えられない。参加者の一人ひとりがこれを深めることで、それでこそ他者とつながっている局面に脱原発の闘いは入ったのである。持久戦というのはそんなことだ。   (M/O)