財務省の庭にある八重桜を残して、テント周辺の桜は見事に葉桜になった。と、同時にテントの後ろの欅はいつの間やら若葉に変わっている。つい先ごろまでは、裸木の細い枝には雀が群がり、餌を催促していたが、目にも鮮やかな葉がついている。本当にいつの間にか、不思議な思いにとらわれもする。ついでに日比谷公園まで足を延すとこちらでは草木が花を咲かせている。日比谷公園に向かう道端だって人知れず小さな草草が咲いていてこころを和ましてくれる。段々と花の名前もおぼつかなくなってきていて、家で調べるかと思ったりするが我が家に図鑑があるわけでもないのでそうは行かない。日本人が草花に寄せた思いをその言葉とともに考えたりするが、それよりか僕は草花に戯れたた少年期を思いだすが、いずれにしてもしばらく楽しみだ。
前回のテント日誌で電力業界や政府の原発への固執は何だと書いたところ、メールで核兵器に対する執着があるのでは、という指摘をいただいた。これは核の平和利用の背後で日本の国家権力者が秘かに抱いてきたものであり、今回の福島原発の事故で表に出されようとしてきたことだが、いつの間にか議論としては消えてしまっている。マスメディアの意識的な対応もあるが、僕らが意識的に提示して行くべきことだと思う。政府は事故を一過的なものとして、それ以前に戻ろうとしているが、僕らはそれを許してはならないのであり、現に進行している事故を見つめ、時には事故当時に立ち返り認識を深めることで対抗しなければならない。再稼動を準備する政府や原子力ムラ―マフィアに対する闘いを準備しつつ、僕らはまた、原発の存在を人間の原存在と関わる形での問い詰めが要請されているのだと思う。
この点でいえば、脱原発―反原発運動はその深めかたという点で停滞にあるのか、といういらだちを感じている。この深まりにおいて権力や体制と根源的に対峙して行く地平に歩み出しえていないのではという疑念が自己の問いかけのうちにある。権力や体制と政治的にだけではなく、存在的に対決しえる場所に進みえていない。これは僕らの主体の中の停滞であって、それに対するいらだちがある。石牟礼道子さんが水俣病に対して展開していたことをあらためて読み直したりしているのだが、なおさらその思いが強まっている。原発という存在が人間の原存在とぶっかる問題であることを深めていくことが出会っていることの困難性は、それこそ現在という歴史の困難性なのだろうが、そこに出て行かないけない。この面で福島の事故直後に提起されたものはいろいろあったが、現在その提起や問いは停滞していると思える。
今日は官邸前金曜行動の日だから、いつもよりテントを訪れる人も多い。椅子に座りながら談笑をしていたが、夕方からは「サーカスはリヤカーに乗って」というパフォーマンスが行われていた。リヤカーを引いた二人の男女がテント前で芸を披歴してくれたのであるが、楽しくテント前では拍手喝さいである。群馬県の「沢入サーカス学校」(サーカスや大道芸の訓練所)の生徒さんとのことだった。若いが達者な芸であった。この学校の放射能汚染で一時閉じられたこともあったとのことだった。
毎週続けられている官邸前抗議行動だが、こちらも再稼動の動きが出てくる中でも力強さを取り戻して行けるように思う。現在の形で維持しえているだけで十分なのであるが、紫陽花の季節に向かって行動は膨らみを増すと思う。その兆候を時折感じるが僕のこの判断は間違っていないと思う。(三上治)
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4月23日(水)テント裁判第6回口頭弁論(14時~15時)
13時東京地裁前抗議集会、4時第6回口頭弁論(103号法廷)、16時~報告集会(参院会館講堂・村山智・人見やよい・河合弘之他)
テント裁判も第6回目の口頭弁論に入ります。傍聴記などでお知らせの通り、5回目からは占有と占有人をめぐる問題に入ってきました。国側の選定した占有人は淵上太郎と正清太一の二人であるが、これがテントの実際とかけ離れたものであり、間違いであることは明瞭です。テントは多数の市民によって維持されてきたのです。多数の市民の維持によって2年半もおろか、3年近くになろうとしているのです。この事態を二人の占有に帰せしめようとする国側の方針との対決の局面に裁判は入ります。これまでの5回と変わらず、6回目の口頭弁論にも多くのみなさんの参加をお願いします。
◇◇映画『シロウオ~原発立地を断念させた町』上映会@阿佐ヶ谷◇◇
http://2011shinsai.info/node/5227