経産省前テントひろば1006日 商業用原発停止267日
多くの人が川内原発再稼動阻止に向かっている
テントは間、設置1000日の記念集会などを行いました。多くの方にお集まりいただき、どこまで続くか分からないが今後もテントを保持していくことを確認しました。国会では集団的自衛権行使容認の閣議決定をめぐる攻防が頂点にあります。それに反対する声はこの梅雨の中、地響きのようにテントにも伝わってきます。テントでは再稼動の一番手に指名されている川内原発の再稼動阻止行動に向けた呼びかけを行い、120名(全国から200名)を超える人たちが12日~14日の現地行動に参加します。これは6月13日の県議会に向けた訴えが中心になるのですが、現地からの報告としてお伝えできることになると思います。国会周辺では集団的自衛権を巡る攻防が、鹿児島川内では再稼動阻止の第一波の行動が展開されます。週末のテントは手薄になるとも考えられますので、是非テントに足をはこんでください。国会周辺では連日、集団的自衛権行使容認の閣議決定阻止の行動があります。出掛けてきてください。
テント外伝の続きを掲載します。こうした論稿をテント日誌に載せることには異論もいただいているのですが、テントには多くに人が参加し、それぞれの立場で原発の問題を考えています。考えを深める契機になればということで掲載を続けたいと思います。(三上治)
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【テント外伝…12】…… 山村輝貴
原発事故は全て人災である。
私は、以前自分のブログである「新鬼の城」http://blogs.yahoo.co.jp/kugayama322/64337863.htmlで「原発事故は「「天災」が原因となることもあるし、「人災」が原因となることもある(2014年6月5日投稿)、と述べた。だが、その後私のブログを読んだ国立系の独立行政法人である某研究所の研究者から、「認識不足であり、一知半解である」と言う指摘を受けた。その研究者は地球物理学を専攻とするものである。それを整理すると…。
l 地球の運動は自転とプレートの運動の相乗効果である。プレートの運動とマグマの動きは連動している。その、プレートの動きは「大陸の分裂と新たな地図を作り出す」動きである。インドがレムリア大陸から離れて、ユーラシア大陸に衝突する。その結果、ヒマラヤ山脈が興隆しその反動としてチベット盆地ができる。そのミニ版として伊豆半島形成は太平洋プレート上の島が移動し伊豆半島となり、その衝撃で南アルプスができ、甲府盆地ができる。なお、伊豆諸島で新島と式根島はフィリッピンプレートであり、他の伊豆諸島が玄武岩系の島である(砂浜が黒い)、ことに比して新島と式根島は流紋岩系の島である(砂浜が白い)。これは地球物理学の基本的なことである。
l 日本列島は4つのプレートが衝突する世界でも類がない不安定な構造に位置している。まずは、世界最大のユーラシアプレート(西がバルト海、地中海、東が日本列島)、それに対して衝突するように、フィリッピンプレート、太平洋プレート、北アメリカプレートが貫入している。それにより、日本海溝と言う世界最大の「溝」ができ、深さは14,000mになる。また、日本列島が「逆『く』の字型に曲がっている」ものこのプレートの運動の結果である。そして、そのことによりフォッサマグナや、日本構造線が形成されている。そのフォッサマグナから少し西側に凹んでいるのが若狭湾である。
l 70年代初め、「東大地震研闘争」があった。これは、不当解雇撤回闘争だが何故この不当解雇が生じたのか。それは、地震研の若手研究者、嘱託研究者が「東大地震研が御用団体になり原発開発に賛成し、逆に言うならば日本列島に原発を作るなんてとんでもない」、と言う意見を述べた。これに対して、東大当局は「解雇処分」と言う弾圧を行った。この闘いは、日本列島に原発を作ることは地学研究者として容認できない、と言う意見であり、闘いだった。ここで改めて確認するまでもないことだが、水俣病同様の「学識経験者」なるものの本質が「学問の中立性自体が作為的な幻想」であり、研究者が日本帝国主義の「金と位置」に群がりくる亡者であるということである。この反動的な構造の中で「地震研の闘争」は研究主体とは何か、と言う人民的・階級的位置づけを根本においた闘いであった。だが、東大地震研の不当解雇撤回闘争は東大当局のより圧殺される。
l つまり、このような日本列島が極めて地学・地理学的に危険な脆弱的構造を有しており、それを原発推進派は充分理解したうえで、原発推進・核武装化を行ったのだ。このことは、イチフクの事故も人災であるのであると指摘できる。実際に2011年3月11日にイチフクは地震により原発としての機能を無くし、原発事故を発生させた。その凄まじい災禍は住民の生活を根本的に破壊し、自然を放射能で汚染させ止まるところを知らないどころか、被害はますます大きくなるのだ。この容易ならない事態に対して政府・東電は「津波による事故であり、不可抗力である」との責任回避の言説をばら撒き、「原発は基本的に安全である」と言う宣伝を今もなお流しているが、事故の発生及びその後の事故の広がりを見ると、地震が原発事故の原因であることは明らかである(2014年「吉田調書」朝日新聞)。
以上である。私の一知半解を深く反省すると共に改めて「原発事故は人災である」ことを徹底して確認したい。さらに、日本における原発政策史を「現在」を知るうえで必須事項であると考え、以下に時間軸にそり整理する。
【中曽根康弘による原発開発とその背景】
1945年8月6日広島に米軍が原爆を投下した。その当時四国の高松にいた青年将校中曽根康弘は、あのキノコ雲の下で起きた地獄絵図に想像力は働かず、「これからは原子力の時代」だと深く認識した。中曽根は戦後一貫して原子力開発に己の存在を目的化した。そして、国家資本の投入を「原子力ムラ」の組織化と、原子力産業を基幹産業とまで推進した(中曽根康弘1992年「政治と人生回顧録」講談社)。中曽根は原子力政策を「資源が無い国=日本」の国策として押し進め、正力松太郎とコンビを組む。そして、1955年12月、原子力基本法が保革全議員の署名を得て議員立法として成立し、初代委員長に正力松太郎が就任した。原子力推進が挙国一致体制で取り組まれた背景には、正力松太郎の野心と読売新聞による世論操作があった。ビキニ被爆事件が原水爆禁止運動へと波及し、それが次第に反米の色彩を帯びた頃、読売新聞社主であった正力松太郎の片腕であった柴田秀利の前にD.S.ワトソンと言うアメリカ人が現れた。ワトソンの素性は判然としないが、ホワイトハウスと直結する機関から派遣され、ビキニ被爆により日米関係に決定的な亀裂が入ることを回避する任務を帯びていた柴田はワトソンに、「原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない」と告げた。早速アメリカからは原子力平和利用使節団が派遣され、日比谷公園で大規模な博覧会などが開催された。読売新聞と読売テレビはこれを大々的に取り上げ、原子力の夢を喧伝した。この原子力基本法の成立には、社会党も積極的に動き共産党も反対はしていない。ここにおいて一貫して国会議員総意の下で議員立法が成立し、「原子力平和利用論」と言う政治的なプロパガンダ=世論操作があったことは記憶しておく必要がある。
その後の中曽根=正力ラインを軸にして、この国の原子力開発と政治的推移をざっと見ておきたい。なお、このレポートのテーマは今までも反原発運動でも盛んに議論されており、「釈迦に説法」の感がぬぐえないが、政府がアメリカからの支援を受けて「原子力平和利用論」と言うペテン的カーテンの下で確実に実行してきた「確信犯」であることにつき、我々の運動の「甘さ」を含めて再確認する必要があることを強く指摘したい。
【中曽根-正力ラインによる原子力行政推進】
中曽根のこの動きを背後で操っていたのが読売新聞の社主・正力松太郎である。(正力履歴については、木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」を参考のこと)正力は、戦後、戦犯として訴追され、政治生命を断たれた。その正力が戦犯解除されるに当たってCIAとエージェント取引したことが考えられる。同じような経緯で取引した者に戦前の特務機関系右翼・児玉誉士夫がいる。岸にもこの臭いがある。正力は、戦犯訴追解除後、古巣の読売新聞社に復帰し、その後衆議院議員になり、日本テレビ放送網社長、第2次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官を務めている。初代の原子力委員会委員長に就任していくことになる。
この正力の意向を受け、「1954年3月2日、中曽根康弘によって日本の国会に始めて原子力予算が上程された」と考えられる。以来、中曽根と正力は、政界における原発推進の両輪となって動いてきたという経過がある。中曾根と読売新聞社の関係にはただならぬものがある。(これに日共の宮顕を加えれば「闇のトライアングル」を形成している、と云える。ここではこの件の考察はしない)正力–児玉誉士夫-中曽根ラインは、CIAコネクションを形成する。そこから政官財三界に巨大原子力推進人脈が形成されている。これは軍事利権人脈ともほぼ重なっている。この連中がピラニアのように軍事防衛、原発利権に群がり、国家を私物化しつつ食い尽くして行くことになる。まさに「権力を私する魑魅魍魎の妖怪ども」である。中曽根には次のような特別縁戚関係が見て取れる。原子力行政の旗振り役が中曽根であるが、その受注主力企業は鹿島建設(現・鹿島)である。高速増殖炉「もんじゅ」、「ふげん」、福島第一原発、1号、2号、3号、4号、5号、6号、福島第二、1号、2号、3号、浜岡1、2、3号、女川1号、浜岡1号、2号、3号、伊方1号、3号、柏崎1号、2号、5号、島根1号、2号、東海1号、2号、大飯1号、2号、泊1号、2号、これらは全部「鹿島」の建設である。この中曽根と鹿島の関係には深い絆がある。鹿島建設の創業者・鹿島守之助の娘婿が渥美健夫で元会長。その息子直紀が結婚したのが中曽根康弘の娘美恵子。日本の原子炉建設トップ企業と日本の原子力政策の推進者が「血族」として繋がっているという訳である。
【原子力基本法成立、正力が初代委員長に就任】
1955年8月8日から20日まで、スイスのジュネーブで国連が主催する原子力平和利用国際会議が開催され、中曽根康弘(民主)、志村茂治(左社)、前田正男(自由)、松前重義(右社)の四人の衆議院議員が派遣された。ジュネーブの国際会議は米・素・英・仏・加などの原子力研究についての先進国が従来ほとんど機密にしていた原子炉計画、発電炉計画などを公開し、各国から170名あまりの参加者が集まり、次々と原子力の開発計画について発言した。日本の代表団は何も発表する材料もなくただ圧倒されただけであった。四党議員団は会議終了後、フランス、イギリス、アメリカ、カナダの原子力施設を見て回り、9.12日に帰国した。この視察旅行の間に保革4党の議員は一致して原子力推進の方策を協議した。帰国後の記者会見で、4人は次のような声明を発した。「1・.超党派的に長期的年次計画を確立し、これを推進して本問題は政争の圏外におくこと。2・.綜合的基本法たる原子力法を至急制定し、平和利用及び日本学術会議の所謂三原則の基本線を厳守するとともに、資源、燃料、技術の国家管理、安全保障、教育及び技術者養成、国際協力等の事項を規定すること」以上である。
その他を含めていわゆる5項目の大綱を明らかにし、直ちに原子力基本法などの策定に着手した。1955年11月15日、自由民主党は、「自由民主党立党宣言」と共に「党の政綱」を発表し、「原子力の平和利用を中軸とする産業構造の変革に備え、科学技術の振興の格段の措置を講ずる」ことを、憲法改定などとともに党の基本原則として位置付けた。
【正力が科技庁長官に就任し、原子力委員長と科技庁長官のポストを手にする】
1956年正力は、原子力による産業革命をスローガンに総選挙に出馬し、一年生議員であるにもかかわらず、保守合同後の自民党鳩山政権の国務大臣に抜擢された。正力は、原子力委員長と科技庁長官のポストを手にして、原子力推進の権限を独占した。正力は科学者たちの自主技術開発路線を無視して、コールダーホール型原子炉の導入に突き進んだ。高純度プロトニウム生産可能な黒鉛炉の導入に対し、科学者たちは軍事転用の可能性を指摘することも無く、正力の豪腕に屈することになる。ここに平和利用(軍事転用反対)路線は破綻し、科学者たちの武装は解除された。この後の科学者の運動は核兵器廃絶運動を専らとするようになり、原子力の問題は軍事的な警戒感を失い、安全性論争へと収斂していくことになった。(この項続く)