経産省前テントひろば1011日 商業用原発停止272日
国会は憲法解釈の変更による集団的自衛権行使容認を閣議決定する動きが煮詰まっている。国会周辺ではこれに対する反対行動が連日展開されている。この動きはテントにも伝わってきている。テントに立ち寄る人も多く、テントも励ましになっている。閣議決定がどうあろうと戦争に向かう権力に対して持続的な闘いが不可避な時代になってきている。これを自覚し、僕らは永続的抵抗へと進んでいくしかないと思う。権力に対する異議申し立てや抵抗のこれまでの形態をも変えた永続的抵抗への闘いを組んで行く必要がある。戦争は権力の意志だけで可能になるのではない。そこには国民の同意が必要だし、その現在的な動向に注目しなければならない。国民の非戦意識を確かなものにし、戦争への同意に抵抗して行く道に進まなければならない。集団的自衛権については見解を披歴したいところだが、テント日誌なのでこの辺で止める。テント外伝12に対する意見が届いているのでその紹介と続きの部分を掲載する。(三上)
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テント外伝12に対する感想
原発事故は全て人災である」について
ご紹介いただいた地震学者の言う意味では、その通り。しかし、こういう視点ではなく、「人災」を言い立てている輩がいることを認識しておく必要がある。「災害時の管理運営のミス=人災」という視点である。原発推進派の色合いは多様であるけど、この認識は共通している。適切な管理運営(想定される津波の高さに対応する防波堤再構築等も含めて)をすれば、安全に運転できるという主張である。
「人災」と言う場合、このことに気をつけなくてはいけない。
大学時代に一応「工学」というものを勉強した私の認識は、「人がつくったものは必ず壊れる」ということを基礎においている。これは、仏教の無常観のも通じるものだが。橋も建築も機械も船も、人工物。必ず壊れる。壊れないように維持管理を続けても壊れるときは壊れる。しかし、こうしたものは、壊れても、被害は極地に限られる。また、比較的短い時間(と言っても数年かかることもある)で修復できる。現代文明は、そういうおっかなさの上に成り立っている人類の選択結果の上に立って成立しているわけだ。ところが、原発は壊れた場合(福島とは違った原因で壊れることがある、例えば隕石がぶつかる、管理するコンピューターシステムを突如気の狂った管理技術者が壊す、等々)、被害の質が違う。被害を受ける区域も巨大、被害からの回復時間も巨大。原子力技術は、人間が使ってはならない技術と言うのが私の認識。原子力を使うという事は、今の文明と異質の文明を人類が選択することである。
現代工学では、ものを設計そして作り上げる場合、不測の事態に備えて、想定される外力の数倍が安全率として設定され、実務者は誠実にこれに従う。姉歯みたいに従わないのもたまにいるがあれは例外。しかし、その安全率良いうやつ、学会等で偉い学者が決めるわけだが、その安全率をこえた外力がかからないという保証はどこにもないのだ。
以上、「人災」か「天災」かの議論の危うさに対する私見。(S・K)
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テント外伝12 山村貴輝 前回の続き
【原子力三法が成立する】
同じく1956年、原子力三法が施行されている。この年、科学技術庁、日本原子力研究所、原子燃料公社(後に動燃事業団に統合)が設置されている。
【岸政権時代の原子力政策】
自民党政権は、鳩山から石橋湛山に移り、更に1957年2月、岸内閣が誕生した。4月26日、岸首相は、政府見解として「攻撃的核兵器の保有は違憲」であるとの統一見解をまとめたが、5月7日、岸首相は、「自衛のためであれば核保有は合憲」であると発言し、これがその後の日本政府の統一見解として確定した。これ以来核武装は暗黙の了解事項となる。1958年正月、岸は念頭最初の行動として、伊勢神宮でも靖国神社でもなく、東海村の原研を視察した。岸は回顧録の中でこのときの心境を次のように述べている。「原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用もともに可能であるどちらに用いるかは政策であり国家意思の問題である。日本は国家・国民の意思として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器を持たないが、潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を強めることが出来る」と言う当時の本音を述べている。
【池田政権時代の原子力政策】
1960年7月、原子力委員会は、原子力開発利用著紀計画の基本方針を決定した。9月、日本原子力産業会議が、原子力産業開発に関する長期計画を決定した。1961年2月、原子力委員会は、初めての総合計画となる「原子力開発利用長期計画」を公表し、1961年から1970年の10年間に百万kWを建設する現実的目標を打ち出した。1962年8月、原子力委員会が、動力炉専門部会を設置し、国産動力炉としての炉型の開発体制の検討を開始した。1963年7月、正力は、池田内閣の科学技術庁長官に任命された。原子力船「むつ」の騒動の最中であった。佐藤はこの時期から高速炉に関心を示し、フランスなどへの調査団を派遣している。同8月、日本原子力船開発事業団が発足した。同年10月26日、日本原子力研究所の動力試験炉で初めての試験発電が成功した。同年12月、通産省の総合エネルギー調査会が、「今後のエネルギー政策のあり方」報告書を発表し、その中で原子力発電を将来安価且つ安定供給できるエネルギー源と評価し、将来に備えて積極的な開発をすべしと提言した。
1964年8月、第3回原子力平和利用会議がジュネーブで開催され、米国政府及びGE、WHなどの米国企業の代表が、商業原子力発電の時代が到来したことをキャンペーンした。且つ刻に於ける新型転換炉、高速増殖炉の開発の進展振りが明らかにされ、日本の動力炉開発への取り組みが急がれることになった。1965年5月、原子力発電の東海発電所が、臨海に達し、同年11月に初の送電に成功した。日本に於ける本格的な商業原子力発電の時代の幕開けとなった。
【佐藤政権時代の原子力行政】
同年11月、病気を理由に退陣した池田勇人を継いで首班指名を受けた佐藤は、沖縄返還に政治生命をかけることを公言した。1966年1月、渡米した佐藤は、ジョンソン大頭領の前で、中国の核実験に対し日本も核武装すべきと考えると述べ、核カードを外交の手段として使った。帰国後直ちに核武装の可能性の調査を各方面に命じた。ニクソンドクトリンの洗礼を受けた佐藤は、米国の外交政策の不変性に疑念を抱いており、独自の核武装政策をひそかに追及していた。佐藤政権時代に、防衛庁、外務省、内閣調査室などがそれぞれ、日本の核武装の技術的可能性や、日本が核武装した場合の外交的情勢分析の調査などを行っていた。同年4月、原子力発電の第2番目として、敦賀発電所(BWR型)に設置許可が下りた。6月、原子力委員会は、動力炉開発のため臨時推進本部を設け、高速増殖炉及び新型転換炉の開発をスタートさせた。9月、東海発電所が営業運転に入った。同じく9月、日米原子力協力協定が改定され、三菱、日立、東芝などが燃料製造プラントの建設準備に入った。12月、関西電力の美浜発電所1号炉、東京電力の福島第1号炉の設置許可が下りた。
1967年、4月、原子力開発利用長期計画が改定され公表された。5月、東芝、日立、GE社合弁の核燃料加工会社が発足した。9月、電力7社及び原子力発電が、カナダとウランの長期購入で合意した。10月、原子力発電東海発電所が営業運転を開始した。1967年の秋頃、読売新聞科学部記者石井恂は、上司の指示を受けて、民間の各施設を使って核兵器が製造できるかの調査を行った。そこには、ウラン爆弾ではなくプルトニウム爆弾が、東海村原電1号炉の使用済燃料の再処理を行うことで生産可能である、運搬手段のロケット開発に遅れがある、など具体的に述べられている。この文書はその後大幅に加筆され「わが国における自主防衛とその潜在能力について」としてまとめられ、政府部内で読まれていたようである。1968年7月15日、朝雲新聞社から「日本の安全保障」1968年版が出版された。これは安全保障調査会によって発行され、1966年から年次報告として9年間続いた。「調査会」の中心人物は国防会議事務局長・海原治で、防衛庁内外の人材を集めた私的な政策研究グループであった。
1969年、外務省が「わが国の外交政策大綱」をまとめ、その中で核兵器政策について次のように記している。 「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず1・、当面核兵器は保有しない政策を採るが、2・、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、3・.これに対する掣肘を受けないよう配慮する。また核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの主旨を国民に啓発することとし、将来万一の場合における戦術核持込に際し無用の国内的混乱を避けるよう配慮する」。内閣調査室の報告では、現在核保有を推し進めることによる国際世論、とりわけアジアの世論の悪化が懸念されることを指摘している。この一連の調査報告は1967年から70年頃までの間に集中している。その後の佐藤政権は、動燃と宇宙開発事業団を科技庁傘下の特殊法人として立ち上げ、高速炉開発と人工衛星打ち上げのための技術開発に当たらせることになる。あくまでもこれらの開発は平和目的のものであるとして掣肘を受けないよう配慮して行われた。
【その後の原子力行政】
動燃による核燃料サイクル計画は、東海再処理工場の運転に対してカーター政権の介入を受けしばらく停滞した。1980年代に入って高速炉「もんじゅ」の建設に着手し、そのブランケット燃料の再処理のための施設「RETF」の建設も行われ、青森県六ヶ所村には巨大な再処理工場の建設が行われるにいたった。しかし、1955年の「もんじゅ」におけるナトリウム炎上事故により、佐藤栄作以来の広壮な計画は頓挫した。だが政府は核燃料サイクル計画の頓挫を受けて、軽水炉でプルトニウム燃料を燃やすプルサーマル計画へと重心を移しながらも、再処理工場の建設工事を継続し、「もんじゅ」の再開の機会を図りつつある。技術的にも経済的にも成り立ち得ないこれらの計画を国策として推し進めるその背後には、一貫した各政策が背後にあることを見逃すことが出来ない。なお、核燃料サイクル計画に対し、軍事転用の技術的可能性を論ずることが、反原発運動や反核兵器運動の内部においてタブー視される傾向があったことも、指摘しておかねばならない(以上は、れんだいこ「日本に於ける原子力政策史」を参考とした)。
まとめ
1945年8月の広島原爆投下を目撃し、日本における原子力導入を決意した中曽根は政府内において「主流派」ではなかった。しかし、傍流であるがゆえに「政治的に注目されること」はなく、正力とコンビを組み原発開発を正に「ロードマップを組んで」過去60年以上に亘り確実に実行した。そして、政権主流派は中曽根をコントロールしつつ原発開発と、その実行部隊である原発マフィア、原子力ムラを組織してきた。今現在安倍極右政権も「原発政策を堅持する」ことを明確に宣言している。無論そこには「福島の事故に対する反省も政策の見直し」も全くない。また、その場凌ぎの「安全性の確認」なども全く根拠はない。そして、原発産業は巨大な基幹産業である。資本の論理として基幹産業を手放すことはない。逆に、原発産業の更なる拡大を図るだろう。原発輸出もその一環である。したがってこれと真っ向から対峙し、その構造を打倒することは「日本帝国主義」を打倒することである。