テント日誌7月28日…鶴見俊輔さんの著作を今一度/川内原発現地に支援を

経産省前テントひろば1417日商業用原発停止681日

 鶴見俊輔さんの著作を今一度ひもときたいと思って…

今が暑さの盛りなのだろう。テント前に座っていてもじっとりと汗ばんでしまう。風が救いなのだけれど、望む通りには吹かないものだ。もっとも神風なんて吹かなかったのだから当たり前といえばそれまでのことだが、でもやはり一陣でもいいから邪気ならぬ、暑さを吹き飛ばす風が欲しいものだ。

例年だと、国会周辺は夏休みで静かなのだが、今年は参院での戦争法案をめぐる論議も続いていて幾分か様子が違う。テントを訪れる人も多い。国会周辺での抗議行動などのある日はテントに寄られる方も結構いる。はじめてテントを知ったとか、寄ったという人に、内心ではこれはもう4年近くあるのだが、とつぶやきながらも挨拶をする。なんのかんのと言ってもうれしいのである。地方の方で一度、訪れたかったという人も多いが、こんな風にテントの存在が広がり、認められることはいいことだ。あそこでテントを見たから、今、テントを立てる気になったという人が今後いろいろの形で出てくるだろうと想像する。これは期待というよりは歴史というものへの信頼なのかもしれない。

こんな風に一日一日が過ぎて行くテントだが、今年は8月10日を前後する川内原発の再稼働の動きが伝えられて、そちらに出掛ける人も多く、テントは手薄になることも予想される。納涼の花火などに出掛ける機会もあれば、ついでにテントに顔でも出して欲しい。『東京人』という雑誌では日比谷公園やその周辺のことが歴史も含めて紹介されているが、テントに足を運びながらその辺を散策するのもいいと思う。日比谷公園の周辺はよい暑さ凌ぎになると思う。

戦後70年の特集があちらこちらで組まれているが、僕は何よりも戦中派といわれる方々の発言や行動に敬意を持っている。瀬戸内寂聴さんの国会前の行動はその象徴であり、澤地久枝さんの「安倍政治を許さない」という意思表示の提起と行動もそうである。テント前でも、国会周辺でもそういう年代の人たちに出会う。敬意を持ち、密かにご苦労さんとつぶやくが、本当に勇気づけられる。僕は終戦のときに4歳で戦争の記憶がかすかにあるのだが、自分は戦後派(価値観や自己思想を形成したのが戦後という意味)であると自認してきた。が、戦中派というべきなのかも知れないと思うことしきりだ。こういう中でも戦中派の思想家というか、知識人の訃報も伝えられる。最近では鶴見俊輔さんが亡くなられた。

鶴見さんは不思議なというか、特異な思想家であり知識人だった。これはなかなかとらえどころがないということでもあり、それだけ魅力的だったということである。生前に近くで見たことはあっても、お会いしたということはなかったけれど、その著作や座談などはずうっと読み続けてきた。彼は思想家として方法や原理を持たなかった、というよりはそれを意識的に否定(あるいは保留)して思想的な営みをした。思考(考えこと)をし、批評をし、また行動をするときに普通の思想家は方法や原理を求めるものだし、そこに依りどころを求めるものだ。これを意識的に否定するか、保留をするというのはとても重要なことで大変なことだと思う。これは方法や原理という依りどころの探索を続けながら、それがない状態に気が付いた結果として僕はそう言うのだが、これを若いころから自己思想の根底にしてきたことは大変なことだったのだと思う。鶴見さんの懐の深さと息の長い活動として結果してきたのだろうが、今、僕らが時代に向かって思考の触手を伸ばし、それを発展させようとするときに、示唆を与えてくれるのだと思う。体系的に、また、ある思想的主題で時代や社会を認識し、捕まえることの困難な時だから余計にそう思える。

鶴見さんには強い戦争体験があり、その戦争体験が彼の思想的方法を取らせたのだと思う。彼には兵士として戦争の渦中にあって、戦争に否定的な意思を持っていたと思う。でも、それの依りどころとなる思想も原理もどこにもないことを切実に感じていたのだと思う。これは戦艦大和で海上特攻に出撃した兵士の発言にもみられるものだ。ある大尉は自分たちが捨て石になることで愚かな戦争をやるほかなかった日本を目覚めさせる、新生日本の必要を気づかせるために死ぬのだと語っていた。戦争の愚かさ、日本の戦争の愚を実感していても、それをあらわす言葉がない。依りどころとなる言葉がない。これは戦中に戦争に疑念を持ち、いくらかでも抵抗の意思を持っていた人たちの実際だったろう。

戦後に日本の戦争を批判する言葉は一夜にして溢れ出してきた。これは戦勝国の方からもたらされた言葉であり、それに呼応するように出て来た便乗転向者の言葉だった。鶴見さんはこれを信じなかったし、そのために便乗転向しながら戦争推進権力に抵抗したと称した面々(獄中18年の神話も含めて)の検討をはじめた。吉本隆明や橋川文三などの戦中派の思想的営みの先駆けをなすものだった。彼の戦後の大きな仕事であった『転向』研究がある。これには父親であり、日本の有数のリベラル知識人だった鶴見祐輔や戦前の左翼知識人の思想的な動向を検証するものだった。鶴見さんには戦後の便乗転向と戦前の転向は全く正反対の言葉が使われようと同一の構造としてあるものだった。彼には戦中に戦争を批判し、抵抗する言葉がなかったように、戦後にもそれはない状態に他ならなかった。そうである限り、同じことはまた起こるということでもあった。そいう危機艦をいだいていた。ペシミックに感じさえする彼の思想の背後にはこれがあった。

彼は転向を繰り返す日本の知識人の中から本当に戦争に抵抗す行動も言葉も生まれないことを自覚し、その可能性を追求し、考え抜いてきたのだと思う。彼はある座談で「徴兵逃れの息子に手を差し伸べる母親の存在」ということでこれをあらわしていた。これはなかなか含蓄のある言葉だと思う。本当に戦争に抵抗する言葉は左翼も含めて知識人の理念や言葉の中にはないということがある。戦前・戦中だけではない戦後の知識人の理念や言葉には根底的に戦争に抗うものはない。(これを戦後70年の思想として検証することもできる)

戦前・戦中の中で、また、戦後の中で鶴見さんが感じ、考えていたことは現在もある事態であって、彼が「日本では武器よさらば」という言葉は生まれていないと言ったことに通ずる。「徴兵逃れの息子を」を匿うのではなく、社会や国家の方に突き出したというのが戦前の日本の大半の状況だった。これに抗することは共同的なものから孤立を意味し大変なことだったのである。戦争に対する否定の言葉、それに抵抗する言葉が共同体のどこにもなかったからだ。戦争はそれ自体が人間の存在に反する、存在倫理に反するという言葉はなかったのだ。鶴見さんは母親のことを出したのは、日本では男たちの言葉からそれは出てこないことを直観していたのかもしれない。これは大変示唆的なことでもっと検討していいことだと思う。

「戦争反対」や「9条を守れ」という人々の声は鶴見さんのいう母親の行動を含んでいるのであり、その意味では可能性のあるものだ。これが戦争の存在の否定に発展して行く方向を考え抜くことが今、大事なのだろうと思う。1960年の安保闘争にも同じ言葉が使われた。だが、旧左翼も新左翼もこの言葉を戦争の否定の方向に導けなかった。戦争に対する根底的な思想がなかったからだ。戦争観や戦争論は思想的には不毛の中にあった。これは今も痛切なことだ。それらも含めて振り返る時、鶴見さんは多くのヒントを残してくれたように思う。(三上治)

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川内原発現地に、また出掛ける人の支援を

■  九州電力川内原発(1、2号機)の再稼働に反対して、関東圏から鹿児島・

川内原発に押し寄せようという計画が、そのための基金集めを含めて呼び掛けられています。
■ 費用は、飛行機代が夏休みのため通常の3倍ほど係るそうですが、半額を(往復6万円で契約、基金側が3万円負担)負担という形で参加者を募集しています。
■ 時間が余りありません。ぜひ積極的にこの募集(寄金集めと具体的な参加)にご協力下さい。

◆  現地フライト予定
A(第1陣):8月8日(土)~8月10日(月)
   出発:1910分(羽田空港発、JAL655便)
   帰京:1725分(鹿児島空港発、JAL652便)
 B(第2陣):8月9日(日)~8月11日(火)
   出発:午前中で調整中(羽田空港発)
   帰京:調整中(鹿児島空港発)

◆  チラシの申込み用紙に、いずれかを選択し、必要事項を記入の上、FAXにて申込みをして下さい。
宿泊についてはご相談下さい。FAX:03-3238-0797

◆  「行く寄金」
ゆうちょ銀行郵便振替口座番号:00190361095
   加入者名:原発現地へ行く会(ゲンパツゲンチヘイクカイ)
 城南信用金庫九段支店・口座番号:(普通)334455
   加入者名:原発現地へ行く会(ゲンパツゲンチヘイクカイ)

◆  連絡先:07050195907