テント日誌8月14日  経産省前テントひろば704日目…世間はお盆休みだが…

テントでは朝の10時ころから暑くなるのだが、この猛暑では朝から暑い。暑さの中でもテントは比較的過ごしやすいのだが、そうはいかないようだ。紋切り型の暑い暑いという言葉は自然に口についてでるのだけれど、それはある意味で心的には僕らを安心させるのかも知れない。多分、この言葉には身体化されたものが対応している。季節感は身体化されてあり、それを言葉があらわすわけだが、身体化されたものと異なる季節の動きこそが、心的にも不安感になるのだろう。それ故に、局地的な大雨や季節はずれの寒さなどが問題なのだ。猛暑も利用して原発の必要《再稼動》に訴えるという体制や権力の動きを想起するが、原発は異様な季節の演出の一端を担っているかもしれないことを研究すべきだと思う。僕らには暑さ寒さを楽しむことが大事だし、その意味では紋切り型の挨拶はとてもいいことなのだと思う。小津の映画も良さもそんなところだろう。

テントの前に座っていると、友人の差し入れたくれた風鈴の音がここちよく響いてくる。風が出てきて心もあらわれるような気分の中で、このお盆休みの一日を過ごす。世間はお盆休みの週でテント前も人通りが少ない。前夜もいつもの待機タクシーがほとんどいず、各省の電気も消えていた。こんな静かなのもいいかとは思うがやはり寂しい。午前中にはテントにはほとんど人が訪れない。明日の15日は敗戦記念日であり、いつものように夜にはトークライブに出掛ける、恒例のことだ。紋切り型の「戦争はだめだというのは」重要だ。安倍の式典のあいさつから紋切り型の言葉が消え去った事は批判に値する。

テントでは9月11日にはテント設立の2周年を迎える。9月12日には第3回の後半もあってその準備がはじまっている。9月15日は現在稼働中の大飯原発も定期審査のために稼働はとまる。再び、原発稼働ゼロの状態になる。そして再稼動問題が政治焦点になる。政治的な動きなど展望すれば、先に動きはイメージできるのであるが、テントは2周年を近くに控えてやはり、時間との闘いという困難ななかにあるように思える。

時間は原発への動きについての関心を風化させるように現象させる。これは本当のところは関心が薄れたことではなく、中性化し、身体化して行く過程である。関心が消えて行くのではなく身体化して行くのだ。と同時に関心がなくなって行く場合もある。時間は関心《反応》が変化して行くようにあわわれるから、それを見極めていくことが大事だ。人々の反応《感情》を喚起させるような現実の事件はそうたびたびおこるものではないし、反応《感情》を持続することは簡単でではない。

原発に対する反応《感情》も中性化し、身体化して行くというのと消えていくのとがある。ただ、現象としては反応(感情)が消え去り、何処かに行ったように見えるところがある。原発に対する反応の必然的な変化は、原発への反応《感情》が消え去ったように見えるだが、反応《感情》の上に形成された運動は孤立していくように思えるし、そういう危機感を持つこともある。中性化して、身体化していくものは,契機さえあれば反応派出てくるし、基盤化したもので運動の発展でもある。消え去るのは違う、ここをどう認識しているかは運動にとって一番大事で難しいところだ。

原発に対する反応《感情》を意志に発展させていけるか、どうかは重要なことであり、それが体制や権力との闘いの実体をなす。その場合に、時の中での反応《感情》の変化という現象とどう対応するか大事なのだ。

僕は脱原発や反原発の運動が持久戦にあると書いた。この認識は今も変わらない。これは現実からその反応が出て気にくい時期にあって、それに依存せずに運動を持続する時期であると考えてきたことだ。この時期は人々の原発に対する反応の変化を見極めながら、ある程度、この意志によって運動を持続して行く過程である。体制や権力の動向は強化されていくのがみえながら、人々の反応は見えず、ある種の孤立の中で闘うことを強いられることだ。テントが二年間にわたって持久戦を意識してやってきたことは意味ある事だが、現在、まだ持久戦期の局面にある。運動に悩みはつきものだけれどそういう現状にある。

日本の反体制運動や反権力運動は運動が孤立した場合の伝統的パターンがある。それは内部対立を激化させ自滅して行く道をたどることだ。持久戦は下手であって急進的展開という型でない運動を展開した経験もあまりないのだ。これは遺伝子のように僕らも受け継いでいて、そのことに自覚的でないととんでもない結果にいたることもある。脱原発の運動の一般的な反応は変化しており、テントに対する反応も変化している。その意味である種の孤立として現象していると言える。この時にこれまでとちった持久戦型の闘いをやることが問われているのだ。知らず知らずのうちに内部対立に誘導されてしまうところに自覚的でないといけない。僕らは人々の反応や意識に寄りそう方向を、その持続の方向に意を傾けるべきなのだが、これは外ならない自分の反応や感情の変化をのぞき見ながら、自己問答をやって行くこと、そこで答えを見いだす事だ。答えがないのも答えだという時期も含み脱原発という国民的な反応を国民的意志にする問いかけを自分の内で繰り返すことが依然として出発点である。持久戦の時期とは運動の先が見通せなく、個々は心的不安を抱える時期だが、その解決を自己問答の中で見出すべき耐える時期であり、不安を些細なところの対立感情に解消してはならない。ここのところこそ、見ないところでの権力や体制との闘いである。こんなときは考えることに戻るしかない。これも紋切り型の言葉だが時にはそこに戻ることも大事だ。 (M/O)