テント日誌8月15日…テントでは秋に向けたいろいろの準備が進められている

経産省前テントひろば1070日 商業用原発停止331日

テントでは秋に向けたいろいろの準備が進められている

 

世間はお盆休みに入っているのだろう。何となしに人通りも少なく寂しい。台風の影響か、幾分か涼しい風も混じってはいるが、それでも蒸し暑い。冷房のないテントでは風が頼りだが、これも強すぎると強敵になる。雨もそうだが、適度なお湿りは恵みであるが、降り過ぎれば恐ろしい。信じられないような降雨をテレビで見ていると、天候は異変を超えた状態になったのかと思う。いつも天候や季節のことを気にかけていた宮沢賢治のことを思うが生態系を狂わしてきた社会のことをあれこれ想像する。暇な折には歳時記で言葉を探索するのが好きなのだが、この基盤もまた替わりつつあるのだろうか。テント前では雨や風ごとに落ち葉がたまるようになり、それを掃除するような毎日になり、秋の気配を感ずることが日々深まって行く。テントでは秋に向けて準備がなされている。やがてはそれをお知らせすることもできると思う。世間並みに鋭気を養い秋に備えている。

テント前の椅子に座っていると、外務省前が騒がしい。韓国からきた人たちが竹島(独島)は韓国のものだと抗議の声をあげているのを右翼の街宣車が取り囲み、そこに警察が割って入って騒がし状態になっているのだ。これはすぐに終わったが、そういえば今日は8月15日なのだと思う。新聞を読んでも政府の集団的自衛権行使容認の閣議決定の戦争に関する記事が目につく。僕は政府の集団的自衛権行使容認の閣議決定によって戦争への道が近くなったと思うし、その不安というか、危機感も強くなった。よく言われる「むかしのにおい」がするということもその通りだとも思う。だが他方で、安倍政権に戦争担当能力があるのか、あるいは自衛隊に戦争遂行能力があるのか、という疑問も強い。これには僕の願望も入っている。この否定的な意識には人々が戦争にそう簡単に同意して行くはずがない、という思いも込められているのだが、この矛盾した感情の中で自問をしていることが現状である。これはどうすればいいのだ、どこに戦争を阻止する道があるか抵抗の道はあるかということに連なっている。

僕は戦中の生まれであり、戦争についての記憶がかすかにではあるが存在する。自分の最初の記憶が戦争と不可分に結びついたものだとも言える。幼い日に四日市の街が艦砲射撃で赤々と燃えあがるのが脳裏に深くあるのだ。だが、僕らが意識を持つ時代は既に戦後であり、戦後世代だったのだが、戦争についてはよく考えてきた。戦争についての考えは「戦争はよくない」「憲法第9条でいい」ということにつきるし、それで十分なのだが戦争の原因を認識することは難しいとも思ってきた。逆にいえば、僕の考えが実現していくのは難しいということでもある。

ある人は日本の軍隊の本質は目的やルールが上級者と不可分に結びついていて、目的やルールにそった抵抗や抗議も反逆と見なされ許させないものとしてあったと述べている。軍隊は専制的な権力としてあり、軍隊が国家の象徴なら、そうした国家にあったということだ。国家も軍隊も憲法も持ち、近代的な制度的な装いを持っていても、最も肝心な権力の形態は専制的だったということだ。少し、難しい言い方になってしまったが、これはやさしくいえば、憲法の前文に書かれている次のようなに関係する。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。政府の行為によってということは、専制的な政府や軍隊の行為によってという意味であり、そういう文脈で読まれるべきだ。この前文は後のほうの憲法第九条と結び付いている。

集団的自衛権行使容認は憲法九条に規定された国家目的やルールの解釈をめぐる問題であるが、憲法解釈の変更を閣議決定でやることは憲法の前文の変更でもある。安倍政権は日本政治を古い形態(目的やルール、つまり法は権力と結びついている)というところにもどしているのである。彼らが沖縄の基地建設移設についてやっていることはこの具体例と言える。日本の戦争や軍隊のありようは、日本の政治(権力)のありようであり、それは法が法として機能しない政治である。法治国家というけれど、擬似的法治国家にすぎないのである。安倍の政治や権力としてのありかたが、日本を戦争に近付けていることであり、戦争に近づいている不安の理由だが、それは根拠のあることだ。

日本の国家や軍隊が制度的には合目的な根拠やルール、別の言葉でいえば近代的な装いを持っていたにしても、実質的には専制的にしか現れなかったのはその権力のありかたがそれに反していたからである。目的やルールの判断や決定は権力に独占されていたのであり、国民の意志や意向が反映される余地がなかったからである。それは自由や民主的なものの不在であり、自由で民主的なものの基盤が欠如していたからである。反戦運動も民衆から孤立して敗北したが、その基盤の生成に失敗したからなのである。

集団的自衛権行使が戦争への道であり、「戦前のにおい」を人々が感じるとしたら、それを阻止する道はどこにあるのか。日本の政治の専制的なところに回帰することへの抵抗する道を開いて行くことであり、自由で民主的なものの基盤の含めた生成をやっていくことなのである。今、右傾化と呼ばれる動きが浸透しているように思う。これは僕らが戦前の抵抗運動と同じように、自由で民主的なものの基盤形成に敗退してきたことであり、戦前の失敗をまた繰り返してきたことの結果である。政治党派の存在である。僕もその一端にあったし、責任の感じるところもある。けれども、政治党派の解体と力の喪失の中でも、戦前とちがって民衆のレベルにおいては自由で民主的なものは基盤として力はる。このことに希望をもっている。これには僕らは自信を持っていいのだと思う。ここで負けなければ戦争を阻止する道は開かれて行く。このことは脱原発や反原発の運動においても言えることだ。脱原発の運動が日本の政治の回帰的動きに抗し、権力を変えて行くとは自由で民主的なものの生成であり、これは永続的なものとしてあるのだ。非戦を可能にし、現実かするのと同じ道だ。

お盆と休みでいくらか寂しげな官庁街の風景を見ながらこんなことを考えながら過ごした一日だった。(三上治)

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テントからのお知らせ

◆サマーナイト・テントシアター「ハイ・パワー 大いなる力」上映・交流会
・8月17日(日)19時~21時
・経産省前テントひろば第2テント
・「ハイ・パワー:大いなる力」上映(27分)、プラディープ・インドゥルカー監督との交流会
・定員:約20名 、参加費:無料(カンパ歓迎)
・担当:テントひろば(担当:藤原節男、木村雅英)
・問合せ:fujiwara_setsuo2004@yahoo.co.jp、090-1793-4404