テント日誌8月21日 経産省前テントひろば711日目 ~ 猛暑の続く中で…

猛暑が続くが、田舎にいる義姉からの電話では雨が降らず蜜柑が心配だとのことだった。少し、前の事だがもう雨は降ったのだろうか(?) 甲子園が終わると秋の気配を感じる。これは僕に身体に内化している季節感だが、どうもうまく対応していないようだ。天候の異常や異変に感じる僕らの不安感は身体に埋め込まれている感覚との狂いでもあり、それは単なる猛暑という事を超えたことだ。もちろん、ここに地震の予兆といわれる現象などを付け加えてもいい。季節の変化を楽しむというのが日本の文化の伝統的なあり方だが、そんな余裕も失われる時代になったのであろうか。テント前に座り込みながらあれこれ妄想をする。古本屋で手にいれた山本健吉の『芭蕉』を読みかけているが、なかなか進まない。テントの前に座っていると、風が、まさに涼風として救いのようにある。それがある限り、まだ、救いはあるのか(?)

新聞の報道ではサラリーマンには欝(うつ)病が増えているとある。これは以前から指摘されていることだ。新自由主義の浸透と深く関係しているという研究もあった。経済的の停滞からくる不安は続いている。アジアの近隣諸国《韓国や中国》との関係悪化が改善される見込みはなく、これも心的不安の種である。政治や経済の動向が人々にもたらす不安感は停滞感とともに見通しのないことからくるものだ。ともかく、一陣の風のように経済の停滞を吹き飛ばすものとしてアベノミクスは期待され、メディアの太鼓でそれは増幅されてはいたが、停滞脱出の見通しを開けず急速に色褪せたものになりつつある。そのうちに、そんな言葉もあったね、ということになる。経済成長という幻想から覚めて成熟時代に経済のあり方に転換しなければ風のやってくる可能性はない。

選挙まで隠されてきた福島第一原発の深刻化する事故の進展、とりわけ汚染水処理問題だが、これは政府やメディアの情報隠しと重なって人々に不安を膨らませている。かつての野田前首相の「事故収束』宣言等今となっては物笑いだが、汚染水一つ処理できない事故の深刻さを人々に知らせている。手の出しようがない思いといらだちの中で、政府や官僚メディアの情報隠しが不安をより募らせている。メディアでは東京新聞が風の役割を果たしてくれているが、どこまで頑張ってくれるか気がかりだ。余計な心配だが、日本の権力の陰湿なやり方を思うと頭をかすめるのだ。僕らはなるべく新聞を読むしか手はないのだが、それを意識的にやろうではないか。

テントは目下のところ持久戦の中のしんどい局面にある。福島で意一原発の事故は深刻化を増し、人々はかたずをのむ思いで行方を見守っている。人々の原発への関心が薄れたわけでもないが、これを解決して行く方向としての運動が発展的に展開しているとはいいがたい。政府の再稼動の動きを前にしても。脱原発―反原発の運動が見通しを持てない不安はあるわけで、僕らはこういう時期に少しでも可視化されたその存在を示し続けたい。毎週金曜日官邸前行動とともによくやっていると思うが、テントが存続することがともかくその第一である。ここに意を配りつつそれをやっていきたい。脱原発運動の現状の中で可視的な行動が続いていること自身が停滞の中での風であると考えている。そんな風になり続けたい。テントの前を通り過ぎる人たちと、話をしたりしながら、こんな事を思っている日々だ。誰かがやってくれているのだろう、となかなか足の向きにくい時期であることは確かなのだが、こういう時期であるからこそテントに来て欲しい。それが一つの風の役割を果たすのか、どうかはわからないが、それを願ってのことだ。 (M/O)