太宰治の作品に「満願」がある。短い作品だ。よく知られた作品なので説明は不要だが、結核者を夫に持つ夫人が長い禁止の時期に耐え医師から許しを得た喜びを表している。「白いパラソルをくるくるっと回した」という最後の方の場面が鮮やかだ。この作品は時間や歳月の持つ意味を表現していた。「満願」ならぬ「満貫」に浸ってきた方が長かった人生だが、時には「満願」のことを想起もした。
テントが「満願」を成就し、白いパラソルをくるくるっと回しながら喜びあえる日がくるか(?) これは誰にもわからぬ。だが、テントが2年間という時間を経て存続してきたということは「満願」ならぬ「小願」くらいは僕らにもたしている。誰しもがテントにまつわる様々の思いを持ったはずだし、それは簡単には言葉に出来ないものだ。久しぶりに顔をあわせる友人、あるいは顔見知りになった人の笑顔、あるいはその笑顔の交換がそれをあらわしている。テントの存在意義はそれに尽きるし、それでいいのである。
3年目にテントは入る。様々のことがこれからも起こるだろう。この二年間に起こったように。それはテントが現実に存在していることの証だ。僕らはそれに首尾よく対処できたか。無器用で周りをはらはらさせただけか。こんなことはわからない。混沌とした中で、やってみなければわからないことを抱えての歩みである。
ただ、僕はいつも自分に課してきた戒律がある。自分のできないことは自分にも人にも期待しないことだ。だから、僕のなかでは「…せねばならない」というのは禁句だ。自分ができないことはできないのだし、そのことが何を結果しても全部引き受けていくつもりだ。そのことを歎かないつもりだ。自分が出来ないことを自分にも他者に期待しないし、また、期待という名の非難はしない。自分が何をやれるかを自問自答しながら歩いて行くだけだ。これがこれまでの歩みだったが、きっとこれからもそうだ。 (M/O)