トイレットボール・レース―はみ出し駐在記(38)

ミネアポリスから車で一時間くらい西にいった田舎町に出張した。地道を走っていて見えるのは畑か牧草地で人より牛の方が多い。そのなかに雑貨も多少は置いているガススタンドがあった。そこが町の中心で周りには何もない。一番近いダイナーまでざっと二十マイル。食うにも泊まるにも二十マイル以上走らなければない。

 

スウェーデンからの移民の子孫が三百人ほどの小さな町だった。誰も彼もが大きくて金髪にブルーアイ。ミネソタ・バイキングス(プロフットボールのチーム名)の由来を聞かなくてもバイキングスを納得してしまう。

お互い知らない人はいない。駐車してもドアをロックしないし、夜寝るときも家のドアに鍵をかけない。開拓当時のアメリカがそのまま小社会として残っていた。余程のことでもなければ素性の知れない人と会うこともない。アジア系が珍しかったのだろう、どこに行っても遠慮のない視線を感じた。

 

ここまで田舎だと流石にチャイニーズもないし、シーフードを探すのは馬鹿げている。客にステーキの美味い店を聞いて、車から見た美味そうなのを食べにいった。ステーキ屋のドアを開けて、一瞬で歓迎されない客であることがわかる。映画かテレビでしか見たことのない貧相な東洋系が一人。できればお断りしたいのだろう。平日でテーブルは空いているのに、一番隅のめったに使うことのない狭い席に座らされた。田舎に行けばどこでも似たようことがある。フツーは多少の躊躇いがあるのだが、そこはあからさまだった。サービスもおざなりで二度と来るかと思ったが、飯らしい飯をと思えば、その辺りにはそのステーキ屋しかない。最も高いステーキを食べて、フツーの二倍以上のチップを置いて出てきた。どう変わるか予想は付いていたが、ちょっとしたテストをした。

 

翌日、またその店に行った。顔を見たとたん、大げさな笑い顔になった。一日にして人の態度がここまで変わると人間不信になりかねない。高々数ドルのチップ、いい歳をして恥ずかしくないのかと要らぬ一言も言いたくなる。窓際の四五人は座れるテーブルに案内されて、同じ物を食べて似たようなチップを置いて出てきた。そこはアメリカ、良くも悪くも金次第。一人の客だが、さっさと食べておとなしく出てゆく。周りの客がどう思おうが、店にとってもチップの気になるウェイターにとってもまずまずの客なのだろう。

 

トイレにたったら、後ろから「same, same」と聞こえてきた。何事かと思ったら、四五歳の男の子がトイレにまで付いてきた。はじめて間近に見る東洋系なのかもしれない。横に立って小さな体を斜めにのりだして、小便するのをまじまじと見ていた。その斜め後ろに慌てた父親のバツの悪そうな顔が見える。「same, same」を繰り返えしながら男の子の手を引いていた。気になってしょうがないのだろう、男の子、腰を落として踏ん張って、てこでも動こうとしない。相手は子供、叱る気にもなれない。困った父親と目が合って、お互い苦笑いしかできなかった。

 

出張の目的は大型旋盤の主軸ベアリングの交換だった。大きな機械で、ちょとした部品を外すには誰かの手を借りなければならない。保全担当者が助けてくれたが英語が通じない。身振り手振りを交えて目的と、して欲しいことを説明しながらの作業ではかどらない。そうこうしているうちに昼勤の勤務時間が終わって、夜勤の人たちに変わった。一人で作業は続けられないと思っていたら、夜勤の班長が助けにでてきてくれた。

 

直径三百ミリを超えたベアリングの交換は慣れないと難しい。ヘッドストックの穴にベアリングのアウターレースがせって押すも引くもできなくなってしまった。下手に叩けば精度が落ちて使い物にならなくなる。アウターレースの外周をこつこつ叩いて取り出して、また組込む。入れたり出したりで夜も遅くなって、これ以上遅くなると夕飯にありつけなくなる時間で切り上げた。

 

主軸ベアリング交換の難しさは、組み上げより慣らし運転にあった。やっと組み上げた主軸を低い回転数から徐々に最高回転数まで上げて、少なくとも半日以上は慣らし運転しなければならない。回転数を上げていったら「キュー」という音がした。スキューだ。ベアリング一個無駄にした。事務所に電話して新しいベアリングを即送ってもらえるよう頼んだ。翌日届いたベアリングで再度組み上げた。最初のベアリングで多少要領が分かった。念には念を入れて組み上げた。慣らし運転を始めてかなりの回転数までは上がった。このまま上手くゆくだろうと思っていたら、またスキューが起きた。二個目のベアリングを無駄にした。怒鳴られるのを覚悟して事務所に三個目のベアリングの手配を依頼した。来週の月曜日にならないと新しいベアリングが届かない。火曜日と水曜日の二日で終わらせて次の客に回る予定だったが、その週はベアリングを二個破損して終わった。

 

週末ニューヨークに帰って出直してくる訳にも行かない。木曜日の夜には、今週中には終わらず、来週の作業になることが分かっていた。こんなところで週末を過ごすにしても、どこで何をするという元気もない。モーテルでごろごろしてるしかない。どうしたものかと思っていたら、夜勤の班長が週末はモーテルを止めて、家に泊まれと言ってくれた。仕事で迷惑かけてる者が、好意に甘えていいのかと気にはなったが、甘えてしまった。

 

シカゴを超えると話す英語の速度がガクンと落ちる。ニューヨークなど北東部の街で聞く早口の英語よりついてゆきやすい。『CBSイブニングニュース』の名アンカーマンとしてベトナム戦争を批判したウォルター・クロンカイトの考え考え話す英語を聞くと、その遅さに驚く。

 

工場の作業者の言うことは分かるのだが、こっちの英語が通じない。ところが班長だけは聞き取れる。なぜ彼だけが分かるのか、ストレートに聞いた。ベトナム戦争に行ってたおかげで英語を母国語としない人の怪しい英語を聞き慣れていた。ベトナム語訛りと日本語訛り、相当違うと思うのだが、訛った英語ということでは似たようなものなのかもしれない。

まるで笑い話のような話しぶりで、撃たれたときは痛いというより熱いって感じたなといいながら、脚にある大きな傷跡を見せてくれた。ベトナムで極限を見てきたのだろう、特別な感情を込めない、ゆっくりした話に戦争だけはしゃちゃいけないという重みがあった。

 

金曜日、夜勤が終わるのを待って班長の家におじゃました。夜中にもかかわらず奥さんが迎えてくれた。シャワーを浴びてビール飲んで、ちょっと日本のことやらなにやら話して寝てしまった。

翌朝、ゆっくり起きて家族と一緒に朝食はいいのだが、話についてゆけない。一人だけ話の輪の外にいる。これが精神的な負担になって、美味しい朝食なのに美味しく食べられなかった。中学くらいの男の子を筆頭に男の子ばかりが四人いた。男の子の家庭なのだからだろうが、朝食からボリュームがある。卵焼きにしてもベーコンやハムも日本では考えらない量だった。朝食も終わってひと段落着いたところで、班長に言われた。「今日は隣のSilver Lake(町名)でトイレットボール・レースがあるから家族と一緒に見に行こう。明日はトラクターレースがある。。。」

 

朝食を済ませて、ミニバンでSilver Lakeに行った。小さな田舎町だが、あの辺りの中心だった。トレイレットボール・レースと言われても、実物を見るまで何なんだか想像もつかなかった。適当なパイプでシャーシを作って下に車輪を四個付け、上には洋式便器を乗せた出場車(カート?)が並んでいた。一人乗りのカート(便器一個)と二人乗りのカート(便器を縦に二個)がある。便器に座って、トイレが詰まったときに使うラバーカップ(木の柄にゴムのカップが付いたもの)の柄を握って、カップで地面を押して前に進む。

 

Silver Lakeのメインストリートで思い思いの出場車が二台一緒に走ってタイムを争う。走り始めて直ぐ横転するものもあれば、スタートした途端、車輪が外れてリタイヤするのもいる。ちょっと走っていったらゴムのカップが外れて、柄の棒で地面を押してやっとゴールというのもいた。

 

二人乗りは一人乗り以上に難しい。一人が右側、もう一人が左側の地面をカップで押して進むのだが、二人の力のバランスがとれないと、真っ直ぐ前に進めない。力の弱い方に曲がってゆく。右に曲がって左に曲がって、こっちの歩道とあっちの歩道の間を蛇行する。競争相手が見えるから、どうしても焦る。勢いが付きすぎて歩道に衝突して転倒する。

 

Uターンは難しいらしく、バランスを崩して倒れない方が少なかった。歩道に並んだ観客の応援を両側から受けて、ヘルメットをかぶった出場者は真剣そのものなのだが、何もなくすんなりゴールするのは何台もない。勝ち負けを競うレースというより一所懸命さと思わぬハプニングを楽しむイベントだった。

 

日曜日のトラクターレースにはたまげた。臨時のレース場の階段状の観客席は満員だった。出場者はトイレットボール・レースとは違って近隣の人たちは少ない。トラック競技のトラクターは速度が欲しいから、大きいといってもしれていたが、力比べのトラクターは、どれもこれも化け物のような大きさで、それでもトラクターなのかいう物ばかりだった。農家の道楽の域を遥かに超えたマニアの集まりだった。二台で早さを競うトラックレースも迫力があるが、太い鎖で二台のトラクターの後ろをつないで引き合う力比べは圧巻だった。馬力を求めてジェットエンジンを搭載したトラクターが耳を劈く金属音をあげて引き合う。車体もタイヤも轟音も全てが大きい。

 

満員の観客といってもいいところ一千人くらいしか集まらない。そこに化け物のようなトラクターをもってくる。金持ち農家のオヤジ連中の道楽だろうが、それが町の人たちには年に一度の楽しみになっていた。

 

肥沃で広大な土地に高度に機械化された農業。発達した物流システムに流通網。知り合い同士の穏やかな生活。豊なアメリカの農村。そこにはトイレに付いてくる男の子がいる。ニューヨークとは全く違うアメリカがある。

 

サービスマンが週末をどう過ごそうが誰にも関係ない。ましてや仕事では当てにならない半人前のサービスマンに気を使う必要などない。それをわざわざ自宅にまで招待して、イベントに連れて行ってくれた。なぜ、そこまで親切にしてくれたのか?個人の資質が大きな要素(親切ないい人)だとは思うが、それだけではないような気がしてならない。ベトナム戦争での経験がなければ、彼もトイレまで付いてきた子供が大人になっただけの、町の人たちと似たような人に留まっていただろう。

 

自分たちとは全く違う人たちと出合って、その人たちの生活や文化のなかで生活することで得た何かがある。そのひとつが英語を母国語としない人たちの英語を理解する能力だろう。ベトナムで人として最も大事なこと-人種も違えば、文化も習慣も、価値観も違う人たちともフツーにやってゆく姿勢というのか、大げさに言えば人としての在り様を広げたのだろう。

 

p.s.

顧客にも先輩駐在員にも迷惑のかけっぱなしの、だらしのないサービスマン。そのおかげというのも変だが、さっさと仕事を片付けていたら、見ることも知ることもないことに遭遇し、そこから考えるきっかけを頂戴した。いまさらの感があるが、迷惑をおかけした方々にはお詫びを、親切にしてくださった方々には、お礼を言わせて頂きたい。

 

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5564:150811〕