このところドイツはめっきり涼しくなってきた、というよりは寒いぐらいだ。日本のまだ残暑きびしい(しかも非常に蒸し暑い)この時期からは想像できない。そしてわれわれのドイツ滞在も、間もなく幕切れを迎える。
毎年、ドイツでやるべき課題・計画を考えて来るのだが、今頃になって反省してみれば、その何十分の一程度しかやれていないのに愕然とする。これで酷暑の日本に帰れば、おそらく「仮死状態」で、ひと月半位は「ぐったり、だらだら」の生活になることを思うと、今更ながらすぎ去りゆくドイツの時間がもったいない思いだ。
そんなことを考えながら手元を調べると、まだ「ジャーマンレイルパス」が三回分も残っている。単純計算しても一回が約8000円として、24000円になる。こちらももったいないので、やはり使ってしまわなければと思う。
しかし、以下の旅行記は、それとは別の旅行体験記である。
1.ベルリンへの旅
8月の頭にドイツ人の友人に誘われて、彼女の車でベルリンまで行った。朝の10時頃に我が家を出発し、途中で1時間ほど休みを取り、午後の3時頃に目的地に着いた。勿論、「アウトバーン」を駆け抜けての旅である。途中では逆方向へ向かうトラック(LKW)の車列を多く見かけた。同じ方向へ向かうトラックに比べて格段に数が多いと思った。多分、スラブ圏や北欧などから食糧や家具等を載せて、大手のスーパーマーケットなどへ卸す車が大半ではないだろうか。曜日、時間帯によってこの車列の数が大きく変わるそうである。
それにしてもドイツが誇る「アウトバーン」は、さすがに見事な道路だと思う。どこまで行っても信号がないのは勿論のことだが、両側がほとんど緑の樹木や畑(この時期では、トウモロコシ=Maisが多い)で囲まれていて、さながら森の中の道路を走るがごとき雰囲気だ。
それでも時々大渋滞になるのは、この時期が学校や企業の「夏季休暇」と重なるためで、極端な言い方をすれば、ヨーロッパ中の人々が南から北へ、北から南へと移動するためにこの道路を利用するからであろう。そして、渋滞解消のためか、所々で「アウトバーン」の拡張工事が行われていた。それによってせっかくの自然林が破壊されるかと思うと、やはりやりきれない感じがする。自然を守るためにも、産業優先社会からの転換が求められる。
ハルツ台地のあたり、またブランデンブルク州を抜ける頃、「アウトバーン」の両側に風力発電用の風車(Windrad)がかなりの数林立しているのが見える。このドイツでは見慣れた光景が、どうして原発事故を起こした当事国の日本であまり見かけないのか、改めて不思議に思った。日本こそ、風、光、水〈海や川〉などの自然環境を生かそうと思えば、絶好の条件を備えた所ではないのか。なぜ、環境先進国たらんとしないのか。自然エネルギー先進国たらんとしないのか。かつて環境学者として名高かった故宇井順さんは、この日本の自然環境を「世界一自然資源に恵まれた国」と讃えたという。これを現実に活かせないのは、やはり「活かそうとしない」別の力が働いているからだとしか考えようがない。
ベルリンでは西に位置するシュパンダウ(Spandau)という行政区内のホテルに落ち着き、夕方まで旧市内を散策した。ここにはかつて、かなり大きな軍事工場があったため、先の大戦でほとんど全土が焼け野原と化したそうだが、それでもところどころ戦前からの建物(1930年代からあるアパートなども含めて)が残っていると友人のドイツ女性が話してくれた〈因みに彼女はここの出身である〉。
旧市内には、石を敷き詰めた歩道、マルクトプラッツ(市が立つ広場)、古い教会、昔からの家並が残る街角など、歴史を感じさせるものがまだ沢山残っている。歩いているうちに「閘門運河」の畔に来た。閘門とは、船を通すために堰の水門を閉じたり開けたりして水量を調節し、水位を一定に保つ独特の水門のことであるが、丁度いい時間だったらしく、それが開くのを見物することができた。運河の水はどす黒く濁っていたが、観光船やモーターボートが勢いよく片方から飛び出していき、また割に大きな貨物船がゆっくりと通過するのを目の当たりにする事が出来た。30分位開いていたであろうか、門はまたゆっくりと閉じてしまった。
その後、近くの「ブラオハウスBrau Haus」に行き、ここで醸造しているビールを心行くまで堪能した。この日は夏らしい晴天の暑い日で、既にガルテン(Garten)は満席であった。
翌日は、朝食の後、彼女の車で「カイザー・ヴィルヘルム一世」を記念したレンガ作りの塔に行った。ヴィルヘルム一世は、ビスマルクと共に大いに専制をふるい、労働運動を弾圧したことで有名であり、ついには1871年にドイツ統一を成し遂げたことで歴史に名を残している。しかし、今回はそんな歴史的事実とは無関係に、ここからのベルリンの風景が絶好だという彼女の判断からここに来た。
入場料を払い、狭い階段を上まで登っていった。あの身体のでっかい(身長も体重も、お腹の出具合も)ドイツ人がよくもこんな狭いところを登るものだと感心するほど、狭くて急な階段だった。年のせいか、少々息切れしながら頂上まで登ると、眼下に素晴らしい眺めが見えてきた。これはここでしか味わえない眺望絶佳のベルリンである。
ベルリンの町中を歩いているだけでは、この大都市は東京と同じような雑然たる都会というイメージしか抱かせない。勿論、大きな公園があちこちにあり、樹木が非常に多い点は、東京と大いに違う点である。しかし、ここから眺めるベルリンは、また全く違う相貌を見せている。
先ず、周囲360度、すべて森である。夥しい数の樹林が眼下に広がっている。そのはるかかなたにベルリンの市街地が見える。森を縫ってハ―フェル川が流れているが、これがどこかの入江かと思えるほど大きな川で、川中に大きな島もある。かなりな数のヨットや、モーターボートなどが繋留され、あるいは波間をゆっくりと動いている。観光船の往き来も見える。改めて、ベルリンが巨大な森と美しい川に囲まれて在ることに気づかされる。
東京はかつてベルリンに似せて都市づくりをしたと言われるが、今や「似て非なるもの」と化している。ドイツ人がベルリンを自分たちの都と思いたがるのもむべなるかなである。
ハ―フェル川のあまりの大きさに、つい「この川はどこで海とつながっているのか」と連れに聞いて見た。すかさず、傍らにいた見知らぬドイツ人男性に、「この川はエルベの支流であり、海から来ているのではない」と訂正された。
ベルリン市内の旧東ドイツ領内にも、東ドイツ時代に建設された大きなテレビ塔が建っていて、そこが展望台になっている。そこにも以前上ったことがあったが、この塔からの見晴らしは、そことは全く違ったもっと素晴らしいものだった。
森に囲まれたベルリンの遠景とハ―フェル川
その夜、われわれは彼女の誕生祝いのパーティに招待された。そして、ドイツでは誕生日を迎える当事者が、客を自費で接待するということを初めて知った。勿論、客の方はそれぞれ何らかの「お祝い品」を持ってくるには違いないが、それにしても、この日のようにホテルに20数人もの客を接待して、時間制限もなく、自由に飲み食いさせるのでは大変な散財だ。或るドイツ人に、日本では客の方が当事者を接待するのが通例だ、と言ったら、「じゃあ、誕生日には日本に行こうかな」と冗談めかして言われた。
2.北ニーダーザクセン州への旅
いつもちきゅう座に素晴らしい記事を送って下さるグローガー理恵さんにご招待されて、彼女のお宅に一泊させていただく予定で出かけた。彼女のお宅にお邪魔するのは実際には今度で3度目である。
いつも、ハノーファー(Hannnover)駅で待ち合わせをし、ご主人の運転する車でご自宅まで連れて行っていただく習わしである。途中寄り道をする事もあるが、今回はまっすぐお住まいまで行った。町中から離れた、別荘地の様な場所にある、広い庭を持つ誠に閑静な住宅である。ここに来るたびに、リゾートホテルに来たような気分になる。
日ぐれてから、再びご主人の運転で、最初はリューベックのホテルへ行き、生憎私は知らなかったのだが「名高い」Duckstein Bierをご馳走になった。少々herbな(渋いというか、苦味のある)味のする、珍しい黒ビールだった。その後、今度はSoltauのBrauhaus〈醸造所兼居酒屋〉で、口当たりの良いピルスビールと黒ビールを堪能させていただいた。
私の下手なドイツ語を熱心に聞いて下さり、理恵さんとの日本語だけでの長時間の会話を横でじっと、おそらくlangweiligに辛抱して下さった彼女のご主人に心から感謝!
翌日は、再び車でリューネブルクへ、有名なリューネブルク原野(Heideハイデ)のエリカ(Erika)見物に出かけた。広い原野一面に咲き誇るエリカは、言い古された表現ではあるが、紫紅色(桜の花ほど鮮やかな色ではなく、もっと落ち着いた色)の絨緞を敷き詰めたような、なかなか味わいのある風情を見せていた。
花の見頃としても最高の時期だったし、またたまたま午前中が雨模様だったため、見物客が少なかったことも幸いして、広い原野を1時間程度歩きながら、ゆっくり満喫できた。ここはかつて、森林の伐採で土地がやせ衰え、荒れ果てた所(まさに原野、荒地)だったが、そこに生えてきたエリカによって、蘇ったと言われている。
リューネブルク原野のエリカ
次に向かったのは、ブレーメン近郊の「芸術家村」(名前は失念した)である。われわれの様な物見遊山な観光客が多いのでは彼ら芸術家たちに少々気の毒な感じがしないでもないが、この小さな場所の雰囲気は抜群によいものだった。ふと、堀辰雄や志賀直哉だったかが住んでいた頃の「軽井沢文化村」(そういう名前だったかも怪しいのだが)について読んだ小説中のイメージが重なってきた。
あちこちに置かれているオブジェにもユニークさが感じられるし、ギャラリーも沢山ある、その時の気分で、ふらりとどこにでも立ち寄れるのが良い。
理恵さんご夫妻とは、来年の再会を約しながらブレーメン駅でお別れした。
3.余禄
この小文を書きあげた後、誘われてハノーファー(Hannover)のMaschseeFestに行った。このFestは、ハノーファーというよりも、ニーダーザクセン州の二大Festと言われているようで、二週間以上も引き続いて行われる。この日が最終日だった。
ハノーファーの中心部を少し離れた場所にあるMaschsee(マッシュ湖)は周囲が約6kmもあるかなり大きな人造湖である。周囲は木々で覆われている。湖の中には、観光船はもとより、ヨットやモーターボートやカヌーや手漕ぎのボート等も見える。
湖の一方の岸辺しか歩いていないのだが、すごい数の出店が軒を並べている。人出もすごい。屋台というよりも、どこかの居酒屋がそっくりこの場所に移ってきたかのような、大規模なホールがいくつも出現していて、大勢の客がビールのジョッキーを傾けている。いろんな銘柄のビールが読めるのは、多分、ビール会社の方もこれらの居酒屋を全面的にバックアップしているのではないだろうか。
いくつかの舞台が設営され、時折ライブが行われている。
この日はあいにくの雨模様で、とにかく寒かった。シャツを重ね着して、その上にブレザーを着こんだのにまだ寒い。途中の出店のベンチに座って、ビールを飲んだのだが、あまりの寒さと、冷えるせいでトイレが近くなって(トイレはすべて有料。0.5ユーロ/1回)、連れのドイツ女性には申し訳なかったのだが早々に引き揚げた。
別の日、「ジャーマンレイルパス」を使いきろうと思い、再び小旅行に出かけた。毎年おなじみの、イエナ、アイゼナハ、バンベルク、そしてマンハイム(今回初めて)。
マンハイムは、ドルトムントと同じ雰囲気を持つ工業都市で、少々雑然とした印象を受けた。かつてカール・マルクスの時代には、マンハイムはフランクフルトと結んで、「第一インターナショナル」のドイツでの拠点の一つだった。
列車の窓から外を眺めながら、やはりドイツも産業社会(資本主義)の巨大な流れに抗しきれていない、というよりも幾分積極的にそれを受け入れているように思った。フルダ(Fulda)と言えば、ドイツ有数の教会都市〈カトリック〉で有名だが、その街の山の手に今はずらりと高層建築が立ち並んでいた。悲しいかな、こういう景色はいく先々で見受けられる。特に、旧東ドイツ地域のアメリカナイズ化は、目に余る。
ドイツ人(少なくとも知り合いのドイツ人たち)は、一様にアメリカを批判する。しかし、単なる批判では、社会変革はできない。マルクスがかつていうように「批判的批判の批判」として、「虚偽社会を実在せしめている」その根源をこそ、実践的に突き崩すことが必要であると、改めて思う。
2014.8.21記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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