ドストエフスキーと橋川文三

著者: 川端秀夫 かわばたひでお : 批評家・ちきゅう座会員
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橋川文三の『日本浪曼批判序説』の中にはこういう一節があります。

 

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私が保田のものにいかれた時期は正に私の未成年期であり、文字どおりドストエフスキーの『未成年』と、保田の「ウェルテルは何故死んだか」とは同じ昭和十六年の秋に私の読んだものであった。これは閉塞された時代の中で、「神というと大げさになるが、何かそういう絶対的なもの」を追求する過程での不吉な偶然であった!?

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ドストエフスキーの『悪霊』にはロシアの思想的混沌を象徴するかのようなスタヴローギンという悪魔的人物に触発された三人のキャラクターが登場します。ピョートル、シャートフ、キリーロフの三名です。この三名はスタヴローギンにインスパイアされてそれぞれ独自の理念を確立します。

 

ミハイル・バフチンが明らかにしたところによると、ドストエフスキーの人物たちは、それぞれある理念(イデー)を体現しています。そしてイデーを体現しながらも、そのイデーを乗り越える肉体を持っている。どこまでも血肉を持った存在として描かれている。 そこでピョートル、シャートフ、キリーロフの三人がいかなるイデーを体現しているか、ドストエフスキーは体現させたのであろうか、を見てみますと、

 

ピヨートル→革命の理念

シャートフ→民族主義の理念

キリーロフ→自我の理念、です。

 

そこで『悪霊』という作品の本質的構造を記号表現で置き換えてみましょう。

 

S(p、s、k)        ・・・・・ 構造式(1)

 

Sはスタヴローギンで後発近代のロシアの思想的可能性と混沌の一切を象徴するかの如き悪魔的人物。pはピヨートルで革命の理念を、sはシャートフで民族主義の理念を、kはキリーロフで自我の理念を、それぞれ体現ないしは肉化した人物として造型されています。

 

ところで橋川文三は昭和前期の思想的混沌を次のような鮮やかな思想史的洞察によって総括しました。

 

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私の考えでは、昭和の精神史を決定した基本的な体験の型として、まず共産主義・プロレタリア運動があり、次に、世代の順を追って「転向」の体験があり、最後に、日本浪曼派体験がある。このそれぞれの体験は、概して現在の五十代、四十代、三十代のそれぞれの精神的造型の根本様式となっており、相互の間に対応ないしは対偶の関係がある。この三者は、精神史的類型の立場からみれば、等価である。

(橋川文三『日本浪曼批判序説』講談社学芸文庫・15頁)

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上に引用した部分は橋川文三の最高傑作(丸山真男)である『日本浪曼批判序説』の更に精髄であるというのが衆目の一致した意見でしょう。 ならば、橋川文三が昭和の精神史のエッセンスとして取り出した、マルクス主義体験(=革命の理念)、転向体験(=民族主義の理念)、日本浪曼派体験(=人神の理念に繋がる可能性もあるところの自我の発見)。この三項目を等価と断定した作業こそ、思想史を活きた科学として誕生させた橋川文三の金字塔ではなかったかと私は考えるものです。この橋川の洞察を記号表現に置き換えてみます。

 

S(m、t、n)    ・・・・・ 構造式(2)

 

後発近代である日本の昭和前期の思想的可能性と混沌の一切をSは象徴しています。mはマルクス主義体験(=革命の理念)を、tは転向体験(=民族主義の理念)を、nは日本浪曼派体験(=人神の理念に繋がる可能性もあるところの自我の発見)を、それぞれ記号表現に置き換えたものです。

 

先ほどのドストエフスキーの『悪霊』と橋川文三の『批判序説』の構造式(1)と(2)を突き合わせてみましょう。このふたつの構造式は等価です。等号で結び付けられる性質を持っているのです。方程式で表現するならば、こうなります。

 

S(p、s、k) = S(m、t、n)

 

左辺のSはスタヴローギンのS、右辺のSは昭和のSです。左右の構造式に含まれた各要素pとm、sとt、kとnの各々は、橋川の言い方を借りれば「相互の間に対応ないしは対偶の関係」があります。これは私の得た発見です。もし興味を感じた方がいらっしゃいましたら検証の労を取って頂けたら幸いです。(すでに証明はなされており反証は不可能とは思いますけれども念のためということもあります。)

 

『悪霊』で表現されたカタストロフィーの劇はそのまま昭和の歴史として反復されました。ドストエフスキーは昭和の歴史を精確に予言していたのです。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
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