STAP細胞騒ぎがノートのありようを喚起してくれた。以前からノートとメモの違い、対外的な書類と内部書類、個人の資料に留める書類と開示する資料の違いを気にしてきた。コンピュータの進化が資料作成や配布にかかる手間暇を大幅に削減してくれたお陰で楽になった。その分書類の(情報)量は増えたが中身はそれに反比例とは行かなくても負の相関関係があるのではないかと心配してきた。
実験ノートの取り方さえもまともに教育されていない科学者?がいることに驚くというよりあきれた。実験ノートとは呼ばないが巷の技術屋でも事実を事実として記録する。記録したデータを整理して検証して結論を検証報告書など何らかの報告書としてまとめる。報告書は小説でない。思い入れもあれば測定誤差もある、見えたものの背景にある事実にまで迫れずに現象に振り回されているだけの報告書の可能もある。それでも見えたものをできる限り正直に事実としてノートに書き残す。事実にもとづいて出した結論が、他の現象と折り合いがつかなければ、ノートに記されたデータに戻って何が齟齬を生んでいるのか再検証にかかる。
これは科学者や巷の技術屋に限ったことではない。そこそこの量のデータに基づいて何かを思索する場合、どうしてもきちんと書き残されたデータが必要になる。データを書き残すメディアがノートということで、それが物理的にノートのかたちをしていることもあるだろうし、電子データのこともある。媒体がなにであれ、後日そのデータにまで戻って再検証しなければならなくなったときに再検証の基礎となるよう、後で見ても分かるよう整理されていなければならない。
一担当者の個人がノートというかたちで記録に残したものなのだが、再検証に耐えるためには誰が見ても間違いなくデータをデータとして読めるものでなければならない。極端な場合、ノートの記述がだらしないと自分が書いた以前のノートを自分で判読できないという情けないことになる。自分で判読できないものを他人が判読できるはずがない。自分が出した結論を支える基礎となるデータを第三者の目で検証ができなければ、出された結論がどこまで妥当なものなのか検証できない。
ここにノートの性格がある。メモは個人の忘備録として、書いた本人が限られた時間帯のなかで自分だけが判ればいいものなので第三者に対して見通しのよい記述である必要はない。ノートはメモと違って、ノートが書かれた経緯や状況に関係なく、かなりの時間が経過した後でも第三者が想像力を働かせて補足しなくても事実として理解できるかたちに整理されていなければならない。ノートは第三者に開示することを前提としていて、メモは開示する可能性がないものとして書き残される。
昔はノートにせよメモにせよ書き始める前の準備が大変だった。硯を出して墨を擦ってで、今のように消しゴムもなければデリートキーもコピー・ペーストなどない。何をどう記録するのか頭のなかでかなりの整理がされていること、あるいはしっかりした下書きが記録する前の作業としてあったとしか考えられない。それが今やコンピュータとデータロガー機能のおかげで測定データなど何の手をかけることもなく自動的に綺麗に残せる。フツーのレベルのデータの整理であれば、計算表ソフトウェアを使って統計処理にしても、ひと目で分かりやすい表やグラフの作成でもたいした手間をかけずにできてしまう。
たとえ中身の薄いいい加減な報告書や検証結果、さらには論文であってもどこにでもあるソフトウェアのお陰で一見だれが見てもそれらしいものに仕上げられる。ただ、いくら書類にする手間暇がかからなくなっても中身の研究や調査が大量生産の工場生産物のようにほいほいでてくるものではない。いつでもどこでも玉石混交なのだろうが、もしその割合が同じ-玉石百個に三個の玉だとしたら九十七個の石で済むが、一万個になったら三百個の玉に九千七百もの石がある。
一見玉と見間違えかねない格好をつけるのも簡単となれば、もうメモなど適当にしておいて、結果重視を基本とした経済合理性に従って最期の論文の体裁を整えるのを優先し、あとは論文らしく見せるための部品やノート、何でもかき集めてということになるだろう。石一個だすのにはたいした手間はかからないから玉石の割合が変わって石ばかりが増えているのではないかと心配になる。
玉を創りだす人たちの育成は大変で、石しか作れない人たちや玉もどきの石しか作れない人たちがいくらでも出てくる社会構造だったらどうなるか。玉石混交のなかの石が加速的に増え、石を増やした人たちの小社会で玉もどきの石の生産と評価があたかも玉の創造と評価に取って代わる危険性すらある。
極端に言えば、ノートなど-ノート上の記録などあってもなくても構わない。最終結果の辻褄をあわせる技量が、体裁合わせの、自分を、結果を、どう見せるかというプレゼンテーションスキルの勝負になる。まるで見栄と突張り、上手く体制に阿る演技で成り立つ映画-本物か偽物かに関係なく本物らしく見える、しばし飾らない本物より格好をつけた偽物の方が本物らしい、みんなが本物だと思うものが本物のという世界になりかねない。
昔何かの本で読んだだけで記憶はおぼろげだし真偽の程も確かではないのだが、骨董屋の跡取りを育てるには本物しか見せないようにするそうだ。そうすることで贋作をひと目で見分ける能力が培われる。本物と贋作を比べるような練習は意味がないというようなことが書いてあった。骨董屋の世界と巷のフツー世界、同じ世界でもないだろうが、学者や巷の技術屋、経営はおろか社会全てにおいて逆のことが言えるような気がしてならない。本物らしい偽物ばかり見てきて、それもそれが本物だとして先人からも引き継いできたとしたら、果たして本物らしい贋作(石)の山のなかから本物(玉)を見つけ出す能力など培えようがないのではないか。不幸にして巨大コングロマリットでそれに近いものを見てきた。学者先生方にしても、不幸にして玉を見ることより石を見ることの方が多かったら、。。。と要らぬ心配をしてしまう。
ただ、幸いなことに辻褄合わせでどこまででも行ける訳でもなし、最期はノートをしっかり残せなければ、最悪の場合自分の足跡を否定しかねない結論を気がつくこともなく主張するというような馬鹿げたことまで起きる。もっともそれに気がつくこともなくガセを量産し続けて禄を食むのもいるが。
何が良かったのか悪かったのか、棺桶の蓋がしまるまで、あるいはしまってからもはっきりしないことも多い。それでも時間の経過が本物と偽物をはっきりさせる。(千円札を見る度にそうあって欲しいと思う。) はっきりさせるためにも事実を事実としていつ誰が読んでも分かるノートを残さなければならない。ノートは自分が歩んできた道を書き残すもの。まともなノートを残さないのは歩んできた道を人には見せられないということに他ならない。ここまでくるともう人としてのありようの問題になる。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集