ノーベル平和賞が中国人の民主化運動の活動家へ授与された件について思う

 ノーベル平和賞委員会によるノーベル平和賞授与における候補者選定に関しては、従来から私は疑念を抱いてきた。平和の問題、とくに世界平和の問題に関しては、特定のイデオロギーの立場に立つ人は除外さるべきではないかという論点である。何れの国の人であれ、例えば政治家や政治運動家を選定するとすれば、これらの人達は特定のイデオロギーを担っているかぎり、ノーベル賞委員会はそのイデオロギーを肯定してしまうことになる。それでは純粋な平和賞ではなくなるのではないか。それ故、むしろ宗教家や芸術家、文学者のような人の方が候補者として望ましいのではないか、と考えてきたのである。もし、こうした候補者がみつからなければ平和賞など出さなくてもよいのでは、と思う。その点は例えばわが国において平和賞を受賞した政治家佐藤栄作氏のケースをとり上げてもよい。佐藤氏は自由民主党に所属する保守政治家であり、総理にもなったが、日米関係の重視、資本主義体制の維持を堅持する立場であったと思うが、とくに平和の維持に熱心で情熱を傾けていたという風には感じられない。多分、日本の立場は、核を作らず、核をもたず、核をもちこませずという非核三原則の立場を提唱したという点で平和主義者であるかの如く海外の人々から思われたのであろう。だが多くの日本人は、沖縄には核があるかもしれないと薄々感じていたことを裏づけるかの如く、最近になって米国との間で米国の必要に応じて沖縄に核を持ち込ませることがありうるという密約を佐藤氏が結んでいたということが明白となったわけである。ノーベル平和賞の権威に傷がつかないといいきれるであろうか。

 この度平和賞を受賞した中国人、劉暁波氏は、西側諸国における自由、人権、民主主義などの価値観に強い影響を受けた人物であると思われる。米国に在住していた経験もあると聞く。そして西欧の価値観や政治システムの方が母国中国のそれよりも優っていると考えたが故に、21年前の天安門事件を惹き起こした学生の民主化運動に参加したのであろう。天安門事件が発生した直後に私は、東京大学の社会科学研究所で研修していた60歳位の上海の中国人経済学者に出会い、この事件について論議する機会をえた。この学者は、あの学生運動は誤っている、現在の中国に必要なのは、多元的政党による民主主義などではなく、中国共産党内部の民主化であると主張していた。私も全く同感であった。あれから20年も経ってしまったが、中国はGDP第2位の大国にのしあがりつつあるとはいえ、13億人の国民を統治していく発展途上の遅れた国であるからには、共産党一党独裁と非難はされても、強力な権力基盤を固めることが現在でも必要であろうと考えるのである。

 それに、民主化を唱える中国人学生に私がいいたい第1の点は、中国が西側資本主義国に対して遅れた国となってしまったのは、中国が歴史的に近代化をとげねばならぬ時期に、西側先進諸国によって帝国主義的収奪と搾取を受けてきたという歴史的事実をもっと直視すべきだろうということである。私は中国の近現代史に詳しいわけではなく、これを語る資格がないことは自覚しているが、19世紀中葉の阿片戦争の頃より中国は西欧帝国主義列強国の侵略の標的となり、植民地化され、これによって日本の明治維新のような市民革命が惹き起こされることもなく、近代化、工業化、資本主義化が遅滞させられた。だからこそ20世紀2~30年代の頃より毛沢東が蜂起するのであろう。それ故、抑圧されてきた民衆(主に農民)の意識も先進諸国からみればきわめて遅れ封建的ともいえるような意識だったのではないだろうか。そのような民衆に対して西側の自由(例えば言論・表現の自由)とか人権の価値観をうえつけようとしても、それはどだい無理な話なのではなかろうか。また民主化運動を行ってきた学生達は、毛沢東が共産党を率いて苦難苦闘の道をゆくにあたっての革命の戦略論として書いた著作『矛盾論』や『実践論』を読んでいたのだろうか。 

 第2に、中国の民主化運動への参加者達に問いたいことは、西側諸国の自由、人権、民主主義、資本主義、多党制、三権分立等の理念や制度はイデオロギーないしたてまえとしては確立されているとはいえ、資本主義と多党制と三権分立を除いていえば、社会の深部においてこれらイデオロギーが現実化されているとは必ずしもいえない点を承知しているか否かの問題である。例えば日本の自民党政権時代に安倍晋三総理は日本は自由と民主主義という理念をもつ点で米国と価値観を共有する国といっていたが私は全く共感をもたなかった。その理念が現実化しているとは考えなかったからである。現在の日本では確かに言論、表現の自由等は保証されており新聞の投稿欄に政治的発言をすること等も自由にできる。だが今日の企業社会においてサラリーマンが勤務先の企業において上司への批判を自由に行いうるかといえば、これはできない。私は20数年以前の頃、金融自由化についての研究会を都市銀行の調査部長級の人々と共に行っていた経験があるが、研究会終了後の酒席において、ある調査部長が銀行内部では自由がないと明言したことを想起する。それは、明日もまた今日と同じ仕事を続けられるか否か判らない程の厳しい環境におかれており、うっかりして口をすべらすことはできない、というものであった。一流国立大学出身の都銀のエリート達ですら、そのような気持ちであることを知って私はやや驚いたが、ましてや平のサラリーマンや労働者の人々も同様な境遇におかれているのだろうと推測した次第である。

 次に人権について触れよう。1789年に勃発したフランス革命=市民革命の頃に人権宣言が発せられたことは周知の事柄に属す。そのさいの人権の意味はいうまでもなく人間の生きていく権利の意であるから生存権という用語とさ程大きな相違はなく、それと重なる部分が大であると捉えうる。西側諸国の人間からすれば、市民革命を経た資本主義諸国では人権は尊重されているが、市民革命を経なかった発展途上国の国々では人権は尊重されないと単純に捉えがちであるが、果たしてそう簡単に割り切れるものであろうか。決してそうではない。今日では米国、日本、EU諸国においても大量の失業者を排出しており、かつ生存ぎりぎりの窮状に陥っている多くの貧困層(ワーキング・プア層)の人々が生み出されている。これらの人達は西側資本主義諸国に生きてはいても、決して人権が保証、尊重されているわけではなく、むしろ人権は落としめられているのである。それ故西側諸国が、途上国のこれへ向かって発展すべき模範国だ等と捕捉されてはならないであろう。

 18世紀の啓蒙思想家達は、自由、平等、友愛の理念を鼓吹し、この理念に基づいて代議制民主主義が成立するまでは100年近い年月を要したのであるが、その成立期には先進資本主義国も発達しつつあった。それ故に民主主義の経済的基盤は資本主義であるかの如く捉えられるようになる。そして20世紀後半に資本主義諸国が高度成長を達成するようになるとこうした一般の人々の考え方はいっそう強化され、1991年に東側のソ連の社会主義体制が崩壊するや有力メディアですら民主主義と資本主義は歴史的に永続性のある普遍的価値とさえまで主張するようになったのである。だが私にはこうした主張は自己欺瞞に陥っているとしか考えられない。なぜなら今日の民主主義と資本主義を支えるイデオロギーとしての自由と平等は、実現されておらず形骸化しているとみているからである。次には平等概念のみを取り上げて論及しよう。現今の日本社会においてもみられるように、経済体制および構造のさまざまな部面、分野において所得と資産の格差、貧富の格差が発生していることが指摘されている。大企業分野のみを取り上げても、正規社員(労働者)対非正規社員の賃金の格差のみならず、大株主や経営者層といった資本家の人々の所得対労働者一般の収入の大規模な格差というものに注目さるべきであろう。この後者の観点に着目するならば、明らかに日本の経済社会は単なる格差社会というのではなく階級社会とも呼びうる社会であることが暸然となろう。いかなる側面から平等を規定しょうとーすなわち、結果の平等と呼ぼうと機会の平等と呼ぼうとー日本社会は不平等な社会であり、不公正な社会である。しかも日本では貧富の格差は固定化しつつある。なぜこのような現象が生じるのかといえば、既に19世紀初頭の頃にイギリスの古典派経済学者(例えばリカアド)が投下労働価値説において論じていたように、資本主義では資本は労働者の労働を搾取する関係が創り出されるためである。すなわち資本主義社会は古代や中世の社会と同様に人間の人間による搾取が行われる階級社会なのである。

 中国の民主化運動の活動家達は中国における多党制をも要求していた。西側諸国のように多党制が採用されれば、政党間で切磋琢磨し、競争が行われるから、理想社会が到来すると考えたのであろう。だが西側諸国では、米国や日本における如く、金儲けの無制限な自由や人間の搾取の自由が認められている自由経済・資本主義経済の発展が保守政党によって全面的に支持されている保守的な社会であるかぎりいずれの政党が選挙に勝利しても国民大衆の間でさまざまな所得格差が拡大するような公正な理想社会からは程遠い悲惨な社会を顕在化させるのは必然ではなかろうか。活動家は決して民主国家という言葉に惑わされてはならない。だからこそ近年の鄧小平以後の中国政権も、西側諸国のような政治、経済環境に陥ることを回避しょうとして、中国型の「特色ある社会主義」の道を歩むことを選択したのではなかろうか。

 中国の当局者は、10数年以上も前から自らの体制を社会主義市場経済のシステムと呼んできた。それは、中国社会に市場経済を導入し生産力を拡大させつつ社会主義の路線を歩んでいこうとするものであろう。それ故に、生産手段の公有制も重視されており、基幹産業のうちの相当部分が国有企業であると解説されている。

 共産党一党独裁体制の社会主義国中国が市場経済を導入し、西側の資本と技術をも導入しつつ未曾有の生産力の増進を図ると共に、20年以上にわたってほぼ10%に近い成長率を達成することにより高成長を実現してきたことは、確かに成功を収めてきたとして評価されるべきかもしれない。だが市場経済導入の負の側面として資本主義化が進行し、都市部では多くの富裕層の人々が発生した半面では、農村地帯では大多数が貧困層の人々として存在している情況で、地域間の貧富の格差が顕著なのは事実である。また資本主義の急速な発展により失業者も多く排出され、大学、大学院の卒業生すら就職の機会に恵まれず失業する人達が多いといわれる。また役所における共産党幹部の腐敗も多いと聞く。中国の為政者が非難さるべきであるとしたらこうした問題に関してであろう。私は中国の大学教授達が訪日し、ここ数年私の所属する研究集団との間で、30名程の社会主義に関する研究集会をもつさいにつねに言及してきたことは、中国は貧富の格差の解消のために、所得税を通ずる所得再配分の役割を断行すべきだというものであった。中国の当局者も数年前からこの問題を重視しているといいながら遅々としていてさ程進捗しているようにはみえないことはまことに残念に思う。

 今日、中国の学生や若者が為政者に対して政治運動を実践するとすれば、それは社会主義的要素を促進する運動であるべきであり、格差是正運動、失業救済運動であるべきだと思う。折しも、現下の中国情勢において地方の各地において反日デモが発生したことが重大な関心を呼んだが、メディアでもこれは単なる反日デモではなく中国の若者達の、格差や失業といった悲惨な情況に対する絶望感のはけ口として行われたものであると解説していた。私もこれに同意する。それと同時に中国に必要なのは、西側の理念に基づいた民主化運動といったものではないと思う。

 最後にノルウェーのノーベル平和賞委員会の委員の方々にいいたい。貴方がたは何か時代錯誤に陥っているのではないか、と。今時古いイデオロギーとしての人権なる用語をもち出し、中国の民主化運動の活動家を人権活動家にしたてあげ、授賞の理由を「人権の尊重が世界平和には不可欠だからだ」と述べている。だがこれでは20世紀の二つの世界大戦(帝国主義戦争の側面がある)から何も学習していないのではないか。戦争は簡単にいえばイデオロギー対立から生ずるわけではなく、経済的要因の対立を軸心として発生する。今日発生している戦争でも必ず経済的要因が絡んでいる。平和の問題をイデオロギーに関わせると、何らかのそれを絶対化する結果となる。実際中国の為政者は平和賞の授与に強く反発し、中国とノルウェーの二国間関係は悪化している。平和賞の授与問題が却って世界平和の実現を遠ざける結果となるとは、これほど不可解なことはない。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion190:101029〕