ハイデッガーについて

今、南京大学の張一兵氏の『ハイデッガーへ帰れ』の翻訳をしているところです。門外漢が難解をもって知られる、ハイデッガー研究の書籍を翻訳するなど笑止千万な行為ですね。でも、まあ率直に言うと、「人神(毛さん)の肖像画が印刷された物神」=翻訳料に惹かれて、かくなった次第です。

 

さて、このちきゅう座で、野上俊明氏が、ハイデッガー研究者の研究態度について、「ファリアスらによって1930年代前半のナチとの関わりの全容がほぼ明らかにされた以上、それをまったく無視して「存在と時間」を完結した作品として扱うのは知的誠実さに欠ける態度と言わなければなりません」と批判されています。この野上さんのご指摘を別の面から見ると、ハイデッガーは、様々な読解(「20世紀最大の哲学者」から「大地への回帰の提唱者」まで)を許容するような一筋縄ではいかない人物だということになるでしょうか。

 

張さんも、この『ハイデッガーへ帰れ』の中で「ハイデッガーが一筋縄ではいかない人物だ」と指摘しています。ハイデッガーのテキストには、彼の多面性を示す4種のタイプのテキストがあるというのです。

 

張さんの中国語での表現によると、それらは①表演性(vorf?hrend)文本、②争?式的表?性(ausdr?cklich)文本、③?匿性的神秘性(geheimnisvoll)文本、④直接在?的?身性(gegenw?rtig)文本の4種類だそうです。①は大学教師資格や教授職取得のために、本音を隠し相手の理解度・思考形態を忖度した演技的なテキスト、②は論争的ではあるがやや本音を控えたテキスト、③は隠匿された秘密のテキスト、④は本音を直接登場させたテキストです。

 

ハイデッガーのテキストを読解する際は、「そのまま素直に読んでしまうと彼の仕掛けた罠に引っかかるぞ。その背後にある執筆情況を頭に入れて読め」という警告なのです。確かに一筋縄ではいかない人物ですね。

 

『ハイデッガーへ帰れ』では、ハンナ・アーレントがこの人物を「老獪な狐(Fuchs)」と称したことを紹介しています。さすがアーレントです。一言でハイデッガーというこの奇怪な人物を言い表していますね。

 

以上のことを踏まえれば、ナチス礼賛の講演もそれに対する戦後の弁明も、どこまでが本音でどこまでが演技なのかわからくなります。でも、演技であれ本音であれ、野上さんの言うように、この「老獪な狐」が一時期ナチスを礼賛した事実は絶対に無視してはならないでしょう。