10月にフランスに訪れた際、ユダヤ人の強制収容所跡を見学した。
昨年は、イタリアの精神医療改革の発祥地であるトリエステに行き、そこでたまたまイタリア国内のユダヤ人を狩り集めてドイツに送り込んだ一時収容所跡の記念施設を見る機会があったことや、同じくドイツに行って、ナチスがユダヤ人虐殺に先駆けて精神障害者など約20万人を虐殺した現場となったドイツ中部のハダマー記念館も見学したことから、フランスでも関連するところはないかと調べたところ、パリ近郊のドランシー市にユダヤ人収容所の記念施設があるとのことで訪れることにしたのである。
ナチスドイツは1940年5月電撃的にフランスへ侵攻し、たちまちパリを占領、休戦後パリを含む北部はドイツ軍占領地に、南部はペタン元帥のヴィシー政権が対独協力政権として統治した。その年の10月にはドイツ国内と同様の反ユダヤ法が導入され、あらゆる市民権の剥奪、不当な迫害が始まり、翌年に入るとユダヤ人を市民社会から隔離するためのユダヤ人狩りと収容施設への連行が始まった。ドランシー収容所には1941年8月にパリ市内で行われた一斉検挙で拘束した4,232人のユダヤ人が送り込まれたのが最初である。そしてナチスがユダヤ人絶滅計画を実行に移した1942年春以降は、収容者を近くの駅から貨車でポーランドのアウシュヴィッツなどに向けて送り出したのである。ドイツ敗戦までにドランシー収容所に入れられた後、ポーランドに送られたユダヤ人は6万3千人、そのうち生き残ったのは5%程度とされる。
ドランシーの収容施設は1930年代半ばに建てられた近代的な労働者住宅が使われた。当時としては斬新なデザインの高層階を含むU字型の集合住宅が5棟と、コの字型をした大型集合住宅の1棟で構成されていた。戦後U字型の棟は解体されたが、収容所として主に使われたコの字型の建物は今でも住宅として使用されており、その敷地の一角に移送に使われた貨車1両とモニュメントが置かれ、道路を隔てたところに2012年に開設された記念資料館があり、研修教育センターとして機能していた。テロを警戒してか資料館の入る際のセキュリティーがきわめて厳重だった。二階の展示室では主に当時の状況を写真とナレーション、模型などで説明していた。
戦勝国としての対面を保つためかヴィシー政権の対独協力の実態や責任については戦後あまり触れられなかった。とくにユダヤ人迫害はドイツ軍だけではできず、フランスの官憲、行政当局あるいは密告など一般市民の協力によるところが大きかったことから、戦後のフランス社会にとっては困惑をもたらすものと受け取られた。しかしドランシーでは左翼の市長の協力もあって、戦後30年後に貨車の展示とモニメュントの設置を実現した。その後、フランス全体としても根深い反ユダヤ主義、人種主義の克服に向けて占領期の再評価や資料の集積がすすんでいる。5年前のドランシー資料館開設式典にはオランド大統領が出席しており、指導者自ら恥ずべき歴史を直視して未来に伝えようとしている。これに比べて、いまだに歴史修正主義者が首相の座に居座っている日本の現状には暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
移送用の貨車と線路。背景はコの字型の住宅。
モニュメントと三色旗。
資料館のパンフレット。
「パリから12㎞。アウシュヴィッツまで1220㎞」
(参考)
① Fredj ,Jacques 『Drancy-An internment camp at the gates of Paris』Privat, 2015
②宮川裕章『フランス現代史 隠された記憶-戦争のタブーを追跡する』ちくま新書,2017,
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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