パリにおける不幸:民衆による民衆殺し

無差別テロが「流行」している。不謹慎な言い方だが、そう感じる。世の識者は、自称イスラム国と関連付けて論じる。イスラム国もそう公言している。

私の実感では、あくまできちんとした分析をふまえた判断ではないが、無差別テロの「流行」を、東西冷戦が社会主義の敗北で終わり、資本主義市場原理の一人勝ちによる高圧的競争社会が支配的となった現代社会の特性と見る。競争だけが生きる道であるような経済社会では負け組、あるいは負け組予定者は、悲鳴を上げざるを得ない。

アメリカの大学キャンパス内で時々起る銃乱射による無差別大量殺人。日本ではサリン無差別大量殺人や秋葉原通り魔大量殺人。ヨーロッパではノルウェイの銃乱射77人無差別殺人や今回のパリ129人無差別殺人。実行者は、学生であり、新宗教教団であり、元派遣工であり、インテリ右翼であり、フランス生まれのアラブ系イスラム教徒であって、様々である。殺される側は、殺す側と同じレベルの社会層に属する人々であって、決して、国家権力の要路者ではない。

これは、市場メカニズムだけが支配的経済システムとなった社会における社会的病理の噴出形態であるかも知れない。市場メカニズムは、人々を競争における勝者と敗者、富者と貧者に分別する無人称メカニズムである。ヒットラーやスターリンがいる訳ではない。すべてが自己責任の結果であるとされる。敗者や貧者が自己責任に納得している限りは、市場社会は無風安定であり続ける。しかしながら、心の底からかかる自己責任に納得できなくなった中数者は、だからと言って、自己の不幸を決定した特定の他者を指定できない。それ故にその一部が不特定多数に向けて銃を乱射する。

 

あな憎し 自爆テロにそ散り急ぐ

己がひとみに巴里のともしび

 

乱射者の心情を和歌にすると、上記のようになろうか。

ここで世の識者は、市場過剰の現代資本主義の再解剖に向うべき所、イスラム国なる了解不能なる反現代の登場を奇貨として、対イスラム国宣戦によって真の問題から目をそらす。

平成27年11月18日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5775:151118〕