ヒチコックからマルクスへ ― 関係態では相手[2]があって自己[1]がある。さらに、自己が相手[2]に吸収されて[0]になる。―

[1] 関係態に飲み込まれる個人
[恋は憑きもの] あるとき、喫茶店で本を読んでいると、近くの広い席で、大人たちが話し込んでいる。その中のひとりが「なんでこうなってしまったのかねぇ」と嘆息をもらす。別のひとが、「とくかく二人とも、絶対に相手以外の人じゃだめだって、思い詰めているのよ」という。さらに別人が「何かが取り憑いている。二人とも結婚した相手がいるし、子供もいるのに」と嘆く。
[寂聴と金子文子] 「恋って、招いて訪れるものじゃないのよ。突然、雷みたいに落ちてくるものなの」と瀬戸内寂聴が述懐している。今年は、1919年3月1日の「三一運動」の百周年記念の年である。寂聴の小説『余白の春』が岩波現代文庫から再刊された。映画「金子文子と朴烈」が東京渋谷の「イメージ・フォーラム」で上映中である。東京の道端で、金子文子がいきなり朴烈(パクヨル)に求愛する場面からこの映画は始まる。金子文子の『何が私をこうさせたか』は岩波文庫に入っている。
 この映画と、韓国の大統領や国会代表が日帝朝鮮支配(1910年韓国併合-1945年敗戦)について天皇に謝罪を求めていることとは無関係ではない。戦後日本の日帝支配に関する無作為がいま、問われているのである。「九条の会」はその要求に、どのように応えるのであろうか。それとも黙過するのであろうか。本稿筆者は昨年5月上海滞在中、豫園の喫茶店で隣席の韓国の或る若いカップルに、日帝の朝鮮支配についてどう考えているのか、問われた。筆者は彼らに謝罪した。
[単なる権力移動] 寂聴の描く金子文子は行動的で批判的な人間である。社会主義革命のあとも、プロレタリア国家権力を独裁的に握る人間たちが人々を支配するだけで、ただの権力移動ではないか、と寂聴は金子に語らせている(『余白の春』222-223頁)。歴史的経験は金子=寂聴の正しさを証明している。このような反省のない革命論は空論である。
 今日の日本では、いうところの「社会主義」も前提にするはずの「社会形成自体の基礎」が破壊されているのではないかと思われる事態への対応が必須である。今日の恋愛は、そのような社会のひび割れに影響を受けていないだろうか。
[関係態独自の順序] 関係態が純化した場合に、人間の関係態としての本性が如実に顕現する。関係態では、まず相手[2]が存在して、そのあとに自己[1]が存在する順序が形成される([2]→[1])。さらに、相手[2]が自己[1]を飲み込んで、[2]は存在するが[1]は存在しない事態、[0]になる事態もある([2]→[0])。
[売り手は買い手と対等である] 「消費者は王様です」が喧伝される場合、消費者のなかには、その気になって、逸脱した苦情を申し立てる者がでてくる。販売員は平身低頭して、その消費者クレイマーに応対せざるをえない。クレイマーは、その低姿勢に刺激されて、ますます自己の役割演技に没頭する。この関係でも、([2]→[1])が([2]→[0])に収斂する衝動が働く。マルクスが「商品の貨幣への転化(販売)」は「命がけの飛躍(salto mortale)」であると指摘した事態の今日の悲劇的な姿である。
 「人間はポリスをなす動物(zoon politikon)(社会的存在)である」とアリストテレスがいうとき、人間の関係態の、このような動態([2]→[1])→([2]→[0])は指摘しなかった。しかし、人間の社会関係は、自然数列(1,2,3,…)の順序でなく、その逆の順序([2]→[1])→([2]→[0])で考えなければならない。シュティルナーの『唯一者とその所有』は、その転倒する順序への私有する自我の反撥である。

[2] 関係態分析としてのヒチコックの名画『めまい』
[人間の関係態分析のヒチコック『めまい』] 本稿の読者は、いわゆるサスペンス映画作家、アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock 1899-1980)の作品『めまい(Vertigo [ヴェルティゴ])』(1958年)を観たことがあるだろうか。いま、ヒチコックを「サスペンス映画作家」と規定したけれども、その規定は通俗的である。
ヒチコック映画の本性を正確に規定するものではない。彼が表現しようとしたことは、もっと奥深い。人間本性の表現を目標とするものである。ヒチコック映画のその本質を最も的確に表現した作品が『めまい』である。
[最高傑作映画の評価を受けた『めまい』] 『めまい』は、英国映画協会による10年ごとのThe Sight and Sound Poll of the Greatest Films of All Time、すなわち、世界映画史の最高傑作を尋ねるアンケート調査(2012年)でトップに選ばれた作品である。したがって少なくとも2022年までは、『めまい』が映画史上第1位の映画作品である。以前は、オーソン・ウエルズの『市民ケーン(Citizen Kane)』(1941年)であった。『めまい』は最初の公開のときには、あまり評判にならなかったけれども、次第に評価が高まってきた作品である。なぜだろうか。以下は、その解明の試みである。

[3] ヒチコック『めまい』のあらすじ
 最初に、簡単に『めまい』のあらすじを記す。「あらすじ」は「作品の構造分析」でもなければならない。
[『めまい』の前半] 高層ビルの屋根の上を走って犯人を追いかけているとき、同僚の警官を事故で落下させてしまった、この映画の主人公である刑事(スコティ:ジェイムズ・スチュアートの役)はその責任をとって退職した。その事故で高所恐怖症を病んでいる。あるとき、旧友の造船業経営者・エルスターから、彼の妻マデリーン(キム・ノバック:ジュディとの二役)の何かに取り憑かれたような放心癖・放浪癖を追跡調査して欲しいと依頼される。
 サンフランシスコの坂道を定めなくドライブするマデリーンを、スコティが車で追跡調査していると、マデリーンはサンフランシスコ湾の掛かる「金門橋」近くに降りた。しばらくすると突然、海に(偽装)身投げする。それを見ていたスコティは飛び込み、(偽装で)気を失っているマデリーンを救い、車で自宅に運び、濡れた衣服を脱がせ、自分のベッドに寝かせる。スコティがエルスターからの電話に出ている間に、マデリーンは素早くスコティ宅から帰宅する。

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+++++++++++[マデリーン(ジュディ)を救い出したスコティ]++++++++++++

 或る日、マデリーンは、車でスコティをサンフランシスコ郊外のスペイン風の尖塔のある教会に連れて行く。そこで、「私が死んだ後、あなたはわたしを本当に愛するようになるわ」と予言めいた言葉を残して、スコティから離れ、小走りで教会の尖塔を昇り、その頂上から身を投げて自殺する。スコティは高所恐怖症のため、マデリーンに追いつけず、マデリーンを引き止められなかったのである。
[『めまい』の後半] スコティはマデリーン自死を防げなかったために、激しい自責の念に取り憑かれる。その思いからは、見るものすべてがマデリーンの色調を帯びて見える。世界はすべて、マデリーンになっている(スコティのこの状態は、関係する相手にすべてが吸収される[2]→[0]である)。マデリーンの預言通り、スコティはマデリーンの死後、マデリーンを心底、愛するようになった。
 あるとき、サンフランシスコの街路で、どこかマデリーンに似ている女・ジュディを見つける。彼女の食泊先の「エンパイア・ホテル」の部屋まで追いかけ、交際を申し込む。
[ヒチコックのサスペンス仕掛け] この場面の直後、ヒチコックは、スコティが知るマデリーンは、実はジュディの変装[マデリーン(ジュディ)]であり、マデリーンの投身自殺とスコティに見えたものは、エルスターが殺した本物の妻マデリーンの死体を尖塔から投げたフェイクであったことが、ジュディの回想というかたちで種明かしする。その種明かしによって、そのすり替えの真相を知らないスコティが、その真相を何時・如何にして知ることになるか、観客が不安と期待で「続き」をみるように、サスペンスを仕掛けたのである。
[スコティのマデリーン再現] スコティはジュディにマデリーンの面影を観る[ジュディ(マデリーン)]。その面影を顕在化するため、スコティはジュディをマデリーンに変身させる。ジュディの野暮ったい服装をマデリーンが愛着したグレイのツーピースに変える。髪の色も茶色から、かすかに青みがかったブロンドに染め変える。言葉遣いも、ジュディの出身地のカンサス訛りでなく、上品な英語を話すように教える。最後に、髪の毛を「眩暈」を連想させる「渦巻き状態」に束ねさせる。こうしてジュディはマデリーンに完全に変身した。死んだはずのマデリーン(ジュディ)の黄泉帰りした身体を、いまやっと引き寄せ、あいいだく。
[ごまかしの一切がばれる] 愛の交歓が終わったあと、マデリーン(ジュディ)は「夕食には厚いビフテキを食べたいわ」といいながら、死んだはずのマデリーンが身につけていたネックレースを自分の胸につけていることに、スコティは気がつく。いまや、直観で一切が分かったのである。
[二重の虚構に嵌まっていたスコティ] 死んだはずのマデリーンはジュディの変装であった。自分が愛したと思ったマデリーンは実はジュディの偽装であった(第1の虚構)。「後半」で、マデリーンの幻に取り憑かれたスコティが、ジュディをマデリーンに変身させた行為も、すでに「前半」で、スコティに隠れてエルスターが行ったことの繰り返し=模倣にすぎない(第2の虚構)。スコティはいまや、自分がこの二重の虚構に、それとは知らずに囚われてきた人間であることを知ったのである。
 この真相を直観したスコティは夜道を車で、ジュディ(マデリーン)をサンフランシスコ郊外の、あの教会の尖塔の頂上まで、強引に連れて行く。ジュディ(マデリーン)を尖塔に引き揚げながら、「おや、僕は高所が怖くなくなっている」と気づく。スコティは尖塔の頂上に登りながら、知るにいたった真相の総てをジュディ(マデリーン)に暴露する。
[唯一の実在者ジュディも失う] 《尖塔の頂上で何事か》と思って登ってきた尼僧を「本者のマデリーン」の亡霊と勘違いしたジュディは足を踏み外し、尖塔の頂上から落下して死んでしまう。こうしてスコティは、「偽のマデリーン」を演じた実在者ジュディも失ってしまったのである。
 それを代償に得たものは、高所恐怖症からの治癒である。スコティはマデリーンへの愛が虚構の中での出来事であることを知って、マデリーンへの愛は消え失せる。「愛の消滅」と同時に「高所恐怖症」も治癒する。つまり、「恋の別名」が「高所恐怖症」である。[2]→[0]は消滅し、[1]が復活し、[1]→[2]となる。この自然な順序は、愛という関係態の消滅の結果である。

[4] 『めまい』を編成する並進対称
 以上の「あらすじ」をもとに、『めまい』が、基本的にどのように編成されているかを分析しよう。
 「前半」では、スコティは、エルスターがジュディに偽装させたマデリーンをそれとは知らずに、あたかも実在する女性として愛する[M←J]。しかし、そのマデリーンはエルスターが実在するジュディに演じさせた虚構・不存在のマデリーンである[J→M]。この関係を図式で表現するとつぎのようになる。

・・・・・【前半】・・・・・
[スコティ]  [M←J]
[エルスター] [J→M]

上の図式で、JとMとが「反転する関係」、すなわち「反転対称(inverse symmetry)」になっていることに注意したい。
「前半」ではジュディは一切姿を見せない。マデリーンの陰に隠れている[マデリーン(ジュディ)]。
「後半」で、スコティは、実在するジュディをマデリーンに変身させる[J→M]。その変身したマデリーン、[マデリーン(ジュディ)]をスコティ自身が実在する女性であるかのように愛する[M←J]。しかし、その変身操作は、すでにエルスターがジュディに対して行ったことである。その反復=コピーにすぎない。このことを知ったスコティは、自らジュディに偽装させたマデリーン、[マデリーン(ジュディ)]も愛せなくなる。

・・・・【後半】・・・・
[スコティ] [M←J]
[スコティ] [J→M]

【前半】と【後半】を一括表示すれば、つぎのようになる。
・・・・・・・・・・・・・【後半】
・・・・・・・・・[スコティ] [M←J]
・・・・・・・・・[スコティ] [J→M]
[スコティ]  [M←J]
[エルスター] [J→M]
     【前半】

 注目すべきことに、【前半】と【後半】は、「後半」では主体が二人ともスコティであることを除けば、[M←J][J→M]のペアとして全く同型である。つまり、『めまい』の前半と後半は同型反復=相似形である。射影幾何学では、このような相似形の反復を「並進対称(translational symmetry)」という。すなわち、『めまい』は、「前半」と「後半」の各々の「反転対称」の連鎖、すなわち「並進対称」で編成されている。

[5] 『資本論』も「並進対称」で編成されている
 すでに本稿筆者は、『資本論』(第1部)が「並進対称」の重層的な展開であることを自著『《資本論》のシンメトリー』(社会評論社、2015年)で論証した。念のために付言すれば、『資本論』第2部および第3部は、マルクスが確定稿を執筆していないので、『資本論』が並進対称で編成されている論証は、第1部に限定せざるを得ない。ただし、その自著の注などで指摘しているように、第2部「第1草稿」、第3部「主要草稿」も未完成ながら、並進対称で編成されている。すなわち、『資本論』全三部は「並進対称」の体系である。
 その『資本論』第1部は、《資本主義的生産様式は、商品が集合かつ要素であるような生産様式である。したがって、我々の研究は商品の分析から始まる》という意味の冒頭文節の命題から始まる。冒頭文節以後は、これすべて、その命題《商品=集合かつ要素》の論証である。したがって、『資本論』第1部の理論研究では「集合および要素」は不可欠の用語である。それらの用語を一切もちいない『資本論』研究は、肝心なその命題論証から反れたものであることに気づかなければならない。
 『資本論』の批判的再編成を行うばあいも、肝心の『資本論』が「集合と要素」の二つの用語を基軸概念にして編成されていることを批判する作業となるほかない。したがって、その批判的再編成は、なぜ資本主義の基礎概念である商品が「集合かつ要素」ではないのかを論証しなければならない。その論証を欠いた批判的再編成も、肝心な核心からそれた「批判ならぬ批判」であるほかない。
[マルクスとゲーデル] ヒチコックの『めまい』はただ1回の並進対称であり、その1回で自壊してしまう。『めまい』におけるジュディのマデリーンへの偽装のように、あるいは「マルクスの研究パラダイム」である、近代天文学史における天動説と地動説の相互反転のように、
【Ⅰ】『資本論』の「並進対称」は、真理と虚偽の反転の根拠である冒頭商品文節を、不可欠な否定できない命題文として前提している。
【Ⅱ】『資本論』は「並進対称」があたかも永遠に展開し続けるかのような、目標に到達不可能なシステムであるかのような、したがって、ゲーデルの不完全性定理(Ⅰ・Ⅱ)を連想させるような論証になっている。
 しかも、『資本論』も「ゲーデル不完全性定理(Ⅰ・Ⅱ)」も「原始的再帰関数」を基礎にしている。このことを本稿筆者は、英文論文Marx’s Capital in Primitive Recursive Function, 『専修経済学論集』2018年12月で指摘した。その論文で「並進対称」が『資本論』に限られず、多様な形態で遍在することを論証した。本稿で、ヒチコックの『めまい』をその遍在に付け加えることができたのである。(以上)

[参考文献]

四方田犬彦「眩暈・反復・主体」『cinéaste(1)』青土社、1985年。

Dan Auiler, Vertigo: The Making of Alfred Hitchcock Classic, First St. Martin’s Griffin Edition, 2000.

Charles Barr, Vertigo, BFI Film Classics, 2002.

[付記:『めまい』は、今日の[# Me Too]の観点からすれば、か弱い女性を操る「自由な」男性の身勝手な錯覚の物語であると規定できよう。しかし、スコティの全面的喪失という結末は、その錯覚を示唆していないだろうか。]

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

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