ヒロシマの「かたりべ」沼田鈴子氏のマレーシアでの「謝罪発言」の背景とその後(高嶋伸欣)

 

8月15日にアップした田中利幸氏(広島市立大学平和研究所教授)の若者向けの講演ノート「核兵器、原発、戦争責任 ~沼田鈴子さんの目で見る放射能被害と戦争の非人道性~(田中利幸 講演ノート)」に呼応する形で、沼田氏が参加したマレーシアへの旅を引率してきた高嶋伸欣氏(琉球大学名誉教授)に特別寄稿をいただいた。

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さる8月15日、戦争の記憶をたどる旅の参加者にバス車内で説明をする
高嶋伸欣・道夫妻。マレーシア・クアラルンプールにて。

沼田氏のように、同じ戦争において筆舌に尽くしがたい被害を受けた人が敢えて日本人としての立場性を取り、マレーシアに加害を行った広島の日本軍に成り代わって現地の人々に謝罪するという困難な行為を成し遂げたことの意義は、これを受け取る我々一人一人がどう理解していくかということにかかっていると思う。高嶋氏が述べるように、これは沼田氏という一原爆被害者の物語としてだけではなく、全ての日本人が自らと、歴史を直視することを避けがちな自らの社会の現状を省みて態度と行動を変革させていくための共有財産として生かしていくべきである。

また、この文で高嶋氏が触れている90年代初頭の中国新聞の史実を曲げた虐殺否定記事掲載と、「その後の同紙の対処法は実に見事」であり、「日本のジャーナリズム史上、特筆されてよい出来事」だったという記述からその詳細についての補足を高嶋氏にお願いし、補足していただいたものを文末に掲載した。誤報を修正するだけではなく、その史実について責任感とともに独自調査を行い本質に迫る新シリーズを掲載の上、単行本を発行するという徹底ぶりである。歴史への責任を立派に果たした例であり現在の日本中のメディアが見習うべきである。 長い文章であるがぜひ最後まで読んでほしい。@PeacePhilosophy

★この高嶋氏の寄稿の転載、引用の際は必ず初出として本投稿のURLを明記してください。
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2014/09/blog-post_8.html

ヒロシマの「かたりべ」沼田鈴子氏のマレーシアでの「謝罪発言」(1988年3月30日)に至る経過と当時の状況

 

侵略国日本の民衆とアジアの被害者の交流の軌跡  -戦争から和解に向けて-

 

 

高嶋伸欣

 

 

 

1 はじめに

 

広島の沼田鈴子氏は、自らの被爆の被害体験だけでなく、日本側による加害行為についても広島の住民の視点から語る「かたりべ」として、修学旅行生などに話しかけていたことで、知られています。沼田さんは、戦時中の広島市が明治時代以来の軍都であって、軍隊と共存共栄の街だったことや、広島の部隊である陸軍第5師団歩兵第11連隊(主に広島に本籍のある兵士で構成)が、中国と東南アジアの戦線で侵略の最前線に配置されて加害行為を重ねていたという事実などを知ることで、戦争を多角的、構造的に認識する必要性を感じ、日本では戦争になれば誰もが被害者になったけれども、それよりも前に加害者になっていたということに気づくべきだと、語っていました。

 

そのような戦争観を沼田さんが抱くようになった契機の一つが、東南アジア特にマレー戦線での日本軍による加害行為の事実、とりわけ住民虐殺の事実を知ったことだと、ご本人が語られています。しかも沼田さんは、1988年夏に日本に招かれたそれらの事件の幸存者(重傷を負いながら虐殺を免れた人)や遺族たちの証言でそうした事実を知ると、今度は自分自身が現地に出かけてさらにその実態を確認したのです。松葉づえをついての不自由なお体にも拘わらずです。

 

そして1989年3月、マレーシア現地の被害者たちとの交流会の場で、「みなさん、私は皆さんの何も罪のないご家族を次々と虫けらのように殺した日本軍の根拠地広島の人間です。私は広島の部隊がマレーシアで残虐な行為をしていたことを知りませんでした。そのことを昨年知って、どうしてもマレーシアに来たいと思うようになりました。それは皆さんに、直接おわびを言いたかったからです。皆さん本当に申し訳ありませんでした。どうか許してください」(高嶋の記憶による大意の再現)という謝罪発言をしたのでした。

 

この率直な発言は現地の人々にただちに受け入れられ、謝罪のために現地に出向いてきた沼田さんの誠意が高く評価されました。結果として、沼田さんの謝罪行動が侵略による被害者と軍国主義を支えてしまった日本人との和解を一歩進めることになったのでした。

 

また同時に、被爆者たちによる反核平和追求の運動のありかたをめぐる議論にも大きな影響を与えることになりました。

 

謝罪発言にこうした重要な意味があることは、沼田さんの軌跡をたどっている人の多くが認め、沼田さんの功績として高く評価されているところです。けれども、そうした功績は沼田さん一人で達成できたものではなく、そこに至るまでの過程で、多くの人々が日本による加害行為の事実の掘り起しや加害責任について正面から向き合う取り組みを積み重ねてきたことがあったからこそ、沼田さんの出番が生まれ、沼田さんの謝罪発言を被害者たちが冷静に受け入れてくれたのではないでしょうか。それは、侵略行為を黙認したりあるいは積極的に支えていた当時の日本の民衆やその戦後世代とアジアの被害者たちとが、心に傷を抱きながら歩み寄ることが可能であることを示してくれたものであるように思います。けれども、沼田さんの軌跡をまとめられた方々の文献等においては、そうした観点からの経過や発言のポイントが必ずしも明確には示されていないように思われます。

 

そこで今回、沼田さんとマレーシアからの幸存者たちとの交流や、広島の歩兵第11連隊が住民虐殺を実施した事実を知るに至った経過、さらには沼田さんから私(高嶋)が企画し実行していたマレーシアへのツアー参加申し込みを受け、現地での「謝罪発言」をされた場に立ち会っていた時の様子、帰国後のことなどを含めて、私が関わった事柄を中心に、こうした観点からの経過を時系列順に整理してみることにしました。

 

ちなみにこれらの内容は部分ごとに分けた形で、私が広島その他の集会などですでに何度も語ったり、文字にして明らかにしてきたものが大半ですが、これだけまとめたのは初めてです。さらに、沼田さんの軌跡をたどってこられた方々からもこのことについての取材を何度か受けましたが、その後に取材者がまとめられたものでは、簡略化されていました。その意味でもこれだけ詳細に文字化するのは、初めてということになります。具体的な経過や様子を書き留めておく機会と考えています。

 

そのため、どうしても長文になります。この点については、ご容赦ください。

 

 

 

2 マレーシアからの幸存者たちとの出会いの機会を作った「心に刻む集会」の由来と特色

 

沼田鈴子さんが大きな衝撃を受けたとされているマレーシアからの幸存者との出会いの場になった「心に刻む集会」については、大阪に幸存者を招くまでの、加害責任を問い続けていた市民運動の取り組みがありました。幸存者を1988年8月に大阪へ招いたのは第3回「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会です。この組織は純然たる民間団体、それも常設ではなく同趣旨の集会の開催をめざす全国各地の市民グループのとりまとめのために毎年結成されていた組織です。活動は全くの手弁当で行われました。

 

同会の発足のいきさつは次のようなことです。1985年8月15日に強行された中曽根康弘首相による靖国神社公式参拝に対し、国内外の人々から一斉に批判や抗議の声が沸き起こります。その中に、『朝日新聞』(9月26日)の「論壇」に掲載された、当時、関西大学の講師だった上杉聡氏の論考がありました。「アジア規模の慰霊祭開け」と題したその投書の趣旨は、追悼の意を表明すべき第1の対象は日本軍の侵略によって犠牲となったアジアの人々であり、日本軍戦死者を祀る靖国神社参拝は明らかに戦争責任の自覚を欠いた行為で容認できないというものでした。同時に上杉氏は、政府に批判や要求を提示するだけでなく、主権者国民自身が、自主的にアジアの被害の実態を確認することで戦争責任の認識を深め、アジアの戦争被害者への追悼の意を表明する取り組みをすべきだ、と指摘していました。

 

この投稿に対して、すぐに賛同の声が広まり、上杉氏の住む関西地区で、自主的な活動への取り組みが始まります。様々な市民運動でのつながりなどを通じて呼びかけがされました。86年2月と3月の呼びかけ人会議を経て、5月24日と7月19日に準備会を開催し、8月15日には、第1回の「心に刻む集会」を大阪で開催しています。この時の経過や集会の内容は『アジアの声』(東方出版、1987年)に、詳しく記録されています(以後『アジアの声』は第11集まで毎年の集会の記録を収録)。

 

この「心に刻む集会」の特色の一つは、政府の追悼式と同時刻に黙祷(沈黙の時間)を設定していることです。それは、8月15日の政府主催の「全国戦没者追悼式」では、原爆や空襲による日本の民間人も対象にしながらアジア・太平洋地域の犠牲者を除外していることへの批判の意味を込めた集会としているためです。このことは、後に触れるアジア各地の現地集会でも日本時間の12時に合わせて黙祷をするということが確認事項になって、今も引き継がれています。

 

さらに、同集会は8月15日の大阪集会に向けて、国内外から招いた人たちによる各地での証言集会を、各地域の実行委員会によってリレー式に開催することにしていました。海外と日本との往復費用は大阪集会の実行委員会で負担し、国内各地の分はそれぞれに負担することで、小さな実行委員会でも開催が可能となりました。しかも、大阪集会も含め、すべての集会は賛同金の募集と当日の参加費で賄われました。第1回の大阪集会では総額570万円でした。86年の第1回目では、大阪以外の8か所で関連集会を開催していますが、各地とも財政事情は同様でしたし、その手法で87年以後も多くの地域で証言集会を開催しています。大阪以外での集会の数は年によって変化がありますが、1995年の10回目の年は大阪以外の15か所で開催しています。「戦後50年」の節目という意味もあってのことでした。

 

*「心に刻む集会」は2008年の第22回集会まで開催されています。その後は、日本に招く幸存者たちの高齢化に伴う滞在中の健康問題などが懸念されることなどから、開催を見合わせています。一方で、後述の「東南アジアの戦争の傷跡に学ぶ旅」の参加者たちが組織した「アジア・フォーラム・横浜」による証言集会は、1994年から毎年12月8日直前の土曜日に開催し、2014年12月6日の集会が21回目になります。

 

 

 

3 「心に刻む集会」の海外現地集会

 

「心に刻む集会」のもう一つの特色が、第1回から現地集会を開催したことです。これは最初の呼びかけ人会議で「被害者を日本に招くだけではなく、こちらから現地へ出かけて追悼をすべきではないのか」という意見が出たのを受けてのことでした。そのために、1983年8月から「東南アジアの戦争の傷跡に学ぶ旅」を企画し案内をしていた高嶋に呼びかけ人会議への参加が求められ、現地集会開催の要請がされました。当時、「傷跡に学ぶ旅」はタイのバンコクからシンガポールまでのマレー半島2000キロの陸上を20日程費やして移動して行くものでした。第1回の東南アジア現地集会は、映画『戦場にかける橋』のモデルで知られるタイのカンチャナブリ・メクロン鉄橋のたもとで1986年8月15日に開催できることになりました。「傷跡に学ぶ旅」で協力していただいていた永瀬隆氏を通じて地元側からの参加が可能という見通しが得られたためです。永瀬氏は、「死の鉄道」として知られる泰緬連接軍用鉄道の建設に従事させられた連合軍捕虜兵士とアジア人ロームシャの取り締まりに当たった憲兵隊の通訳であったことから、その償いの行動を続けていた方です。

 

*永瀬さんによる償いと和解の取り組みについても、1982年以来、行動を共にした部分がいろいろありますが、それらについての報告は別の機会にします。

 

なお第1回「心に刻む集会」の1986年8月には、ソウルと南京でも現地集会を開催しています。

 

こうして、この時から「心に刻む集会」実行委員会と高嶋との結びつきが始まり、現地集会はタイ国内からシンガポール、さらにはマレーシア各地へと場所を移しながら各地の地域組織の協賛・共催あるいは後援などの協力を得て、94年8月のクアラルンプール集会まで私たちの主催という形で、続くことになります。それが95年8月の戦後50年の節目の時からは地元の華人団体の主催に変更され、日本からはゲストとして参加する形で今日に至っています。日本時間の正午に合わせて黙とうすることが、現在も継承されているというのは、このことです。

 

*「傷跡に学ぶ旅」自体、アジアからの戦争責任を問う声に誘発されて始まったもので、今年2014年8月で40回目になりました。始まりのいきさつなどについても、

 

話が長くなるので別の機会に報告をいたします。なお、ツアーの名称は何度か変更しています。

 

 

 

4 沼田さんと幸存者との出会いに向けて――『陣中日誌』の発見

 

1986年からスタートした「心に刻む集会」は、第1回が「シンガポール,韓国、中国、フィリピン」、第2回が「フイリピン、グァム、イギリス、在日韓国人」などからの証言者を招いていたもので、幾分か総花式の観がありました。そこで、第3回の1988年の集会以後は特集方式にすることになりました。その最初の特集を何にするかが検討されているところで相次いだのが、マレーシアでの住民虐殺に関する史料、証言の急浮上でした。

 

最初は、第11連隊第1大隊の『陣中日誌』の発見でした。防衛庁(当時)研修所図書館の収蔵資料の中からこの公式記録を見つけ出したのは、関東学院大学講師(当時)の林博史氏です。87年8月の第5回「傷跡に学ぶ旅」に参加した林氏は、帰国後に日本側の記録探しに取り掛かります。そして、防衛庁研修所で日本軍の公式記録である『陣中日誌』を発見したのです。閲覧した中の第7中隊の1942年3月の分には、なんと「本日不逞分子刺殺数五五名」(3月4日)などと、住民虐殺の様子が具体的に明記してありました。

 

林氏は、図書館のコピーサービスを申し込み、そのコピーが届く間にその他の部隊のものも閲覧するために、」私に連絡をしてくれました。そうした作業をしながら林氏と相談し、年末の冬休みにこのコピーを持って現地に行き、これらの記述通りであるかどうかを幸存者などに尋ねることにしました。そのような確認作業をした上で、記者会見などで公表しようというつもりでした。

 

ところが、この予定に変更が生じます。11月下旬、林氏がこの資料を見つけたと聞きつけた共同通信社横浜支局の宗森行生記者が、是非とも12月8日向けの話題として記事にしたいと、言い出したのです。結局、宗森記者が藤原彰一橋大学名誉教授などに取材して「第一級の具体的資料」で「大変貴重だ」という評価を聞きだし、同記者により全国の共同通信加盟社に記事が発信されました。その記事は1987年12月8日のほぼ全国の地方紙とブロック紙42紙、約1400万部の朝刊に掲載されました。『産経新聞』も載せました。第11連隊の地元である広島の『中国新聞』にも大きく掲載されました。

 

この記事で沼田さんは、広島の部隊が開戦から間もない時期にマレー半島で住民虐殺を実行していたことを知り、強い衝撃を受けたとのことです。その結果、マレー戦線での加害問題に強い関心を示されることになったのだと、ご本人が説明されています。

 

その後、林氏と高嶋、それに休暇を取って自主参加の宗森記者の3人は予定通りに12月下旬の冬休みに、マレーシアに出かけ、第7中隊が担当していたネグリセンビラン州の各地で、『陣中日誌』の記録通りであったかどうかを、尋ね歩きました。その結果、当時を知る人々が記憶する日時や部隊が来た時と去った時の方向などすべて一致し、「そこに記載されている殺害(刺殺)人数が少な過ぎる」という異論があるだけで、その他は「ほぼ正確」ということになりました。これで、『陣中日誌』の1級史料としての評価は確定できたことになります。

 

 

 

5 犠牲者数の論争が未決着であることの問題点

なお、この犠牲者数の論争は発見当時だけでなく現在も未決着のままです。戦友会の関係者は「当時の認識では命令通りに実行していることを誇示したいという気分が強くあったので、どちらかと言えば実際よりも水増しした数字だ」と主張しています。一方の地元側では、「事件直後に仮埋葬していた遺骨を戦後しばらくしてから掘り起して墓や追悼碑を建立する時に、頭がい骨の数で人数を確認している」という根拠を挙げているケースもあります。

いずれにしても、日本側が氏名どころかそれぞれの虐殺場所での人数さえ正確に記録していなかったために、未決着になっているものです。当時の戦時国際法はもちろん日本陸軍の刑法でも、戦闘中以外の場で敵側の人物を処刑するには、軍事法廷による死刑判決が出されてからでなければならないことになっていました。日本軍はそうした規定を平然と無視して、人々を「虫けら」のように殺害していたのでした。

犠牲者数が未決着であることには、このような日本軍の恥ずべき責任問題が含まれているのです。

ちなみに、「南京大虐殺」の犠牲者数をめぐる論争も、今なお延々と続いています。その論争の決着が着かない最大の原因も、同様です。南京に攻め込んだ日本軍が、法規通りの裁判の手続きなしで次々と殺害したからです。もし裁判をしていれば、人数だけでなく氏名の記録も残っていることになります。そうした記録に基づく数字を日本側が提示すれば、犠牲者数の論争はとっくに終結しているはずなのです。

なお、犠牲者数の論争が半世紀以上も続いているのは、日本軍のこうした恥ずべき無法性に由来しているのだと、最初に明確に指摘したのは秦郁彦氏です。しかもその秦氏の指摘を紙面で紹介したのが『産経新聞』なのです。同紙が1994年7月1日から連載した秦氏へのインタビュー記事の中で、詳しく語られています。ただし、同記事の見出しには「『数』を語るのは不毛の論争」とあって、日本軍の責任を曖昧にする表現になっています。記事の内容からすれば「最初から日本側の“負け”が決まっている『数』の論争」とでもすべきものです。その「負け」を「不毛」と言い換えているところが、いかにも『産経』らしいやり方です。何しろこの連載のタイトルが「南京事件の真実・検証断罪史観」なのです。同紙としては当然のすり替え表現と思えます。

 

6 第11連隊『陣中日誌』の存在のもう一つの意味

 

ところで、さらに話題が逸れますが、この『陣中日誌』の発見によってマレー戦線での住民虐殺の事実が確認されたことの意味について、もう少し補足説明をしておきます。

 

それは、別の中隊の記録綴りの中に、次のような内容の「第1大隊命令・第147号」が保存されていたということについてです。「一、鉄道線路及道路ノ両側五百米以外(以上)ノ支那人及英国人ハ老若男女ヲ問ハズ徹底的ニ掃蕩(皆殺し)ス」。幹線道路や鉄道線路から奥まったところにいる英国人と中国系住民は人目を避けているのだから、抗日ゲリラかその協力者に違いない。とりわけ中国系住民(華僑)は商売人で街に住んでいるのが普通なのに一軒家などにいるのは怪しいに決まっている。見つけ次第、子どもも含めてすべて殺せ、というものです。

 

けれども、当時のマレー半島はゴムの世界的な主要産地になっていて、幹線道路から奥まったところにもゴム園が広く作られていました。赤道に近い熱帯のゴム園で安く働かせられる労働者を確保するために英国政府が採った政策が、出稼ぎ中国人(華僑)の導入だったのです。こうした歴史的経過を認識していれば、「華僑は街に住んでいるはず」という思い込みの間違いに気づいたはずですが、日本軍の兵士にはそうした知識がありませんでした。

 

実際に第7中隊が担当したネグリセンビラン州の場合、州内の中国系住民の7割は農業従事者でした。州内には水田や畑作地はほとんどありませんから、大半はゴム園労働者だったことになります。しかも、労賃が安くすむように、各ゴム園は子どもも働かせる形での家族単位でゴム液の採取ができる範囲の規模にされ、それらの家族がゴム園内の一軒家で生活しているのが普通でした。

 

そうした当たり前の状態が、第1大隊の命令書では、すべてゲリラかゲリラの協力者であることの証拠を示しているもの、とされたのです。この命令書の内容がいかに不当なものだったか、このことからだけでも明白なのです。

 

加えて、この命令書の発見によって、日本兵による住民虐殺が日本軍の組織的な公式の行動として実行されたものであると、証明されたということになります。これまで、日本軍による住民虐殺について主に議論されていた中国戦線での事件では、このような公式の命令が出されたという証拠は見つかっていません。「南京大虐殺」をめぐる議論が半世紀以上も続いている理由の一つに、日本軍側の公式記録が見つかっていないことがあります。日本軍の不都合な記録の大半は、敗戦時に一斉に焼却などで廃棄するようにとの指示が全軍に出され、実行されたことが分かっています。他の虐殺事件の公式文書が出てこないのはこのためです。それだけに、この第1大隊の『陣中日誌』の発見、とりわけ命令書の発見は重い意味を持っていることになります。

*なぜ第1大隊の『陣中日誌』が破棄されずに残ったのか。それは、「病院船偽装事件」で第11連隊の第1・2大隊と山口の第42連隊の1個中隊、合計1562人全員が乗船中の船ごとアメリカ軍に拿捕されてしまい、記録の破棄ができなかったためです。敗戦間際の1945年8月3日のことです。マレー半島からインドネシアの島々に分散させられていた部隊がシンガポールへの再結集を命じられ、兵士全員を傷病兵に見せかけて乗船させた病院船の偽計を、海上の臨検でアメリカ軍に見破られたのです。病院船ごと拿捕された、日本陸軍史上最大の国際法違反事件とされています。しかもその責任をめぐって部隊内では醜い争いがあったとのことです。詳細は、恩田重宝著『偽装病院船事件―「橘丸」と戦犯裁判』(1977年、徳間書店)で明らかにされています。

 

さらに、第11連隊の『陣中日誌』が証明しているのは、マレー戦線での住民虐殺が命令書に基づく軍の組織的な行動だった、ということだけではありません。それは、前出の秦氏の指摘にあるように、当時の戦時国際法はもちろん日本陸軍刑法さえも無視した「不法殺害」に当たる訳ですから、山下奉文指揮下の日本軍には、ことアジアの住民に対しての法令順守の姿勢が決定的に欠けていたことを示している証拠でもあるのです。東京大空襲や日本全土への空襲による非戦闘員殺害や原爆投下での住民殺害の非人道性の責任追及は当然です。けれども同時に、というよりはそれらの殺害以前に日本軍がこうした「不法殺害」を公然と実行していた事実を、現在の日本の社会がどれだけ認識できているのか、疑問です。

 

こうした問題点が浮上してきた中で沼田さんはいち早く、被爆者であってもアジア侵略の責任問題を正面から受け止めるべきだと認識されたのでした。

 

 

 

7 準ブロック紙『中国新聞』の虐殺否定企画記事--訂正とその後の対応
こうして、マレー戦線での住民虐殺の事実は、現地の人々の証言だけでなく日本側の公式記録によっても裏付けられ、明確なものと認識されるようになりました。けれども、林氏と高嶋の住民虐殺に関する究明活動はでたらめであるとの異論を唱えた例外的なケースが、あります。

広島の『中国新聞』が1990年8月16日から1991年5月26日まで245回(毎回90行)連載した『B・C級戦犯』の記事です。70万部(当時)の部数を持つ創刊100年(当時)の準ブロック紙の記事でしたが、その内実は引用史料の改変や改ざんが多数あるもので、同紙にとっても汚点そのものでしかないという始末でした。林氏と高嶋による抗議と数度の話し合いを経て、同紙編集部も問題点を認識し、社内に総点検体制が組まれました。その後、91年の新聞週間初日の91年10月16日朝刊に2ページ見開きの点検結果報告と謝罪記事が掲載されました。連載245回で訂正約1150か所、削除行数は数知れず。「改ざんがあると言われてもやむをえない」という惨状でした。そうなった原因は、筆者の恩田重宝記者が広島の戦友会などと癒着していたことに気づかず、彼のワンマン企画として一任して原稿のチェックをしていなかったためとのことでした。

こうして準ブロック紙『中国新聞』と林・高嶋という個人2人との対決は、新聞社側の全面的な謝罪という形で終わり、『陣中日誌』などで明らかにされた虐殺の事実認識は、今日まで揺らいではいません。ちなみに、その証の一つとして、90年代以後の中学と高校の歴史教科書に次々とマレー戦線での虐殺事件の追悼碑の写真や記述が登場するようになっている、ということがあります。歴史修正主義に影響されがちと言われている検定官たちも、虐殺の事実を認めるようになっているのです。

 

なお『中国新聞』の名誉のために、その後の同紙の対処法は実に見事であったことも紹介しておきます。そうした点を含めて、日本のジャーナリズム史上、特筆されてよい出来事だったと思われますが、ほとんど無視されているのは残念です(詳細については、文末の補足説明をご覧下さい)。この件の一連の経過については『マスコミ市民』1992年12月から11回の連載の拙稿ご覧下さい。また『週刊金曜日』2008年10月17日号の拙稿でも概略をまとめてあります。ちなみに、この時に接触した『中国新聞』の関係者の内の何人かとは、今も年賀状の交換をしたり、広島で会食をしたりのお付き合いをしています。

 

ともあれこのように、マレー戦線での住民虐殺を第11連隊の兵士が実行したことに疑いの余地はない、ということを沼田さんも12月8日朝刊の記事から読み取り、深く考えられたのではないでしょうか。

 

 

8 沼田さんと幸存者との出会いに向けて――『日治時期森州華族蒙難史料』の出版

 

沼田さんとマレーシアの幸存者の出会いの場となった1988年8月15日、大阪での第3回「心に刻む集会」をマレーシア特集とすることになったもう一つの要因は、『日治時期森州華族蒙難史料』の出版だった、と集会実行委員会事務局長の上杉聡氏が語っています。「森州」とはネグりセンビラン州の中国語表記「森美蘭州」を略したものです。同書は州内各地での住民虐殺事件の幸存者や目撃者の体験談、それに追悼碑の建立経過などの記録を収録したものです。州内の各新聞の記事が土台になっています。

 

森州では日本軍による住民虐殺事件が多発していました。それにもかかわらず、マレーシア政府はマレー系優先政策を採り、シンガポールのリー・クアン・ユー首相と同様に「ルックイースト(日本を見習え)」とのスローガンを掲げ、日本の企業を誘致することで工業化を推進したいとしていて、日本政府に責任を問うことには消極的でした。そうした姿勢に不満が高まっていた折の1982年、教科書検定で日本軍のアジア「侵略」を「進出」に書き換えさせていたという事実が発覚し、一斉に対日批判の声が挙がりました。けれども、正式に抗議したのは中国と韓国だけで、マレーシア政府はしていません。そこで、森州の華人団体総元締めの「中華大会堂」が州内各地の組織に対して「改めて日本軍占領中の住民虐殺事件などについての証言収集や墓地の整備、追悼碑の建立などを実施するように」との呼びかけをしていました。その結果、忘れられていた事件直後の仮埋葬地からの遺骨の掘り出しと墓・追悼碑の建立や体験者の証言収集が次々と実行され、その都度、新聞の地方版などで紹介されていました。1983年8月から高嶋が案内役になって始めた「傷跡に学ぶ旅」では、そうした最新の情報を現地で得て、急遽予定外の場所を訪問することもしばしばでした。さらに、その時のガイド(華人)が私たちのツアーの趣旨に共鳴してくれて、帰国後も関連の記事を送ってくれたりしていました。また、ツアーの打ち合わせのために私(高嶋)も年に数回は一人で現地に出かけ、そのたびに新聞記事を入手するように心がけていました。

 

そのような状況下で『史料』集の編纂委員会が発足し、掲載された新聞記事を中心にした編集作業が、1988年半ばには完了していました。そのことを、私たちはまた新聞記事で知りました。当時はそうしたまとまった出版物がありませんでしたので、同書の出版を私たちは心待ちにしていました。けれどもその後、印刷・発行されたという記事がありませんでした。

 

そこで、88年末に前出の『陣中日誌』の内容確認に同州へ出かけた際、その後の状況を尋ねてみました。「編集は終わって、いつでも印刷できる状態になっている。けれども、その印刷費用が用意できないので、そのままになっている。内容から考えて、有料頒布にはできないし、被害者・遺族も州外にいるケースが多いので、大会堂の資金で印刷するのも難しい」とのことでした。当面、発行の見込みはないという訳です。

 

それはとても残念なことと思えました。念のために「印刷代はいくらぐらい?」と尋ねたところ「1000部を予定していて(当時の日本円で)30万円」とのことでした。そこで林博史氏と高嶋がその場で相談して、「とりあえずその30万円を私たちに出させて欲しい。発行部数を日本向け分として300部加算することにして、それを日本国内で1冊1000円の協力費として広げれば30万円は回収が可能で、私たちの個人負担ではなく、多くの日本人の協力の証明にもなると考えられるから」と申し出ることにしました。但し、「その内容が日本軍によって殺害された人々のことなので、その出版費用を日本人の協力で賄うのは許せないという意見もあると思われます。そうした意見が強い場合には、撤回します。検討してみてもらえませんか」とも言い添えました。森州の奥まったティテイでの聞き取りの時でした。

 

急にそうした提案をされたティティの世話役たちは戸惑っていました。やがて、「我々だけでは決められないので、セレンバンの中華大会堂本部に伝えて決めてもらう。夜には返事が来ると思うが、今晩はどこに泊まるのか」と言いました。「東端のバハウの予定です。」「それでは宿に夜の8時には電話をする。」「その時間には宿に居るようにします」ということになりました。

 

夜8時、部屋で待っているとフロントから「お客さんです」と呼ばれ、ロビーに降りると、10人程が待ち構えていました。ティティの世話役から「昼間の話を伝えたら、直接聞きたいということで、中華大会堂の幹部たちがセレンバンからやってきた。もう一度説明して欲しい」と言われ驚きましたが、同じ説明を繰り返しました。説明が終わってからの僅かながらの沈黙の時間には緊張しました。けれども、最初の一声は「ノープロブレム!」でした。肩の力が抜けました。

 

それからは一気に話が進み、その場で林氏と高嶋の持ち合わせで30万円を一行に手渡しました。会計担当者も来ていて、領収証を渡されるという手際の良さでした。30分程で一行は引き上げていきました。西の端に近いセレンバンから東端のバハウまで峠を2つ越えて来て、また夜道を戻られたのでした。

 

一か月後の翌年の1988年1月末に、印刷された同書が航空便で林氏と高嶋に送られてきました。日本向けの300部については、3月の春休みに「傷跡に学ぶ旅」を実施して、参加者たちに分担して持ち帰ってもらうことにしました。そうした見通しを得たところで、口コミによる同書の宣伝を国内で始めました。この時点で同書に強い関心を示した内の一人が、上杉聡氏でした。

 

やがて上杉氏は3月の「傷跡に学ぶ旅」に参加して、幸存者たちに直接会うことになります。そしてその時に、森州の各地で出会った幸存者とその家族6人に、8月の「心に刻む集会」への出席の同意を取り付けるに至りました。

 

 

 

こうして、1988年8月の「第3回 心に刻む集会―マレーシア特集」でマレーシアからの幸存者と沼田さんが出会う状況が整ったのでした。

 

 

 

*日本分の『史料』300冊については、何回かに分けて持ち帰り、マスコミでの紹介もあって短期間でさばけ、30万円の回収もできました。一方でやはり翻訳本が欲しいとの要望が強く、青木書店の協力で『マラヤの日本軍』(1989年6月)を出版しました。同書には林氏と高嶋が解説を載せましたが、それらの稿料などをすべて著作権料に算入してもらい、その著作権料約17万円は、90年8月に森州の中華大会堂に届けました。森州中華大会堂では、90年9月が各州持ち回りの華人文化祭全国大会の開催州に当たっていて、全国からの数千人の参加者へのおみやげの準備に苦労していたところだったので、「このお金で『史料』の増補版を印刷して賄える」と喜んでもらえました。そのようにして全国からの参加者の持ち帰った『増補版 史料』が、各地の華人たちに地元での証言者探しや追悼碑整備などに取り組む新たな刺激にもなったとのことです。

 

『増補版 史料』(1989年)も現在ではすでに在庫切れになっていますが、陸倍春氏(第1・2回「大阪集会」の証言者)たちによる「マレーシア紀念日据時期殉難同胞工委会歴史叢書 第4巻」として、2009年8月15日にクアラルンプールで復刻版が出版されています。

 

 

 

9 沼田さんとマレーシアの幸存者との出会いからマレーシア行きの決意まで

 

以上のような前置きに当たる経過があって、沼田さんとマレーシアからの幸存者たちとの1988年8月の出会いが生まれたことになります。実は、この時の6人に顔ぶれが定まるまでには曲折があったりしたのですが、それらのことについては省きます。

 

6人が参加した大阪集会やその夜の交流会でのやりとり、さらには6人を広島に招いてからの11連隊の石碑の碑文をめぐる議論、原爆資料館での原爆についてのぶつかり合いの様子について、高嶋は現地集会のこともあって8月15日前後に国内にはいない身でしたので、伝聞で知るしかありません。手がかりとしては、広岩近広著『被爆アオギリと生きる 語り部・沼田鈴子の伝言』(岩波ジュニア新書#740 2013年)に、時系列順に要領よくまとめられています。

 

同書でもわかりますが、『朝日新聞』1988年8月21日朝刊社会面に掲載された松井やより記者による長文の記事でもおおよその様子が読み取れます。同記事の終わりに近い部分には次のようにあります。

 

「一行は平和記念公園で原爆犠牲者に花輪をささげた。しかし、このあと一行が出会った被爆者の一人が『なぜ米国は原爆を投下したのか』と米国を非難すると、『日本が侵略戦   争を始めなかったら、原爆も落ちなかっただろう』と蕭文虎さんが気色ばんだ」と。

 

これらからでも、かなり厳しい議論があったことが分かります。ただし、幸存者の側も被爆についての認識を深めたことも確かです。そうしたことが、後に東南アジアで初めての原爆展をクアラルンプールで開催できることにも繋がっていったのです。その折には私が地元側との仲介を依頼され、やはりいろいろなことがありました。この件については、長くなりますので別の機会に報告することにします。

 

ともあれ、この時の大阪と広島での出会いで、沼田さんはそれまで以上に加害問題を正面から受け止める必要性を感じられたのではないか、と思われます。その結果としてマレーシアの現地へ行く決意を固めたということになります。

 

*1988年8月の「第3回 心に刻む集会」の様子は『アジアの声 第3集 日本軍のマレーシア住民虐殺』(東方出版 1989年)にも、詳しく収録されています。

 

 

 

10 沼田さんにマレーシア訪問を決意させたもう一つの要因

 

以上の経過の後に、沼田さんはマレーシアに自分で行くという意思を固めたと、ご自分でも説明しています。その通りなのだと思われます。けれども私はもう一つの要因があったのではないかと考えています。それは、マレーシアを含めた日本軍の占領地や植民地だった東アジアの人々の間では「原爆は神の救け」「原爆によって暗黒の世界から解放された」「よくぞ米国は原爆を投下してくれた」あるいは「原爆投下は当然の報い」などという原爆観が幅広く存在しているという事実が、1980年代になってから次々に明らかにされたという事柄に関してです。

 

被爆者としてはこうした原爆観を受け入れることは到底できないと思われますが、かつて日本の支配下にあった地域の人々の間で根強く広がり、今も語り継がれているのも事実なのです。それならば、被爆者である沼田さんたちにとっては、そこまでアジアの人々が思い込む原因になっている日本軍や日本政府の加害の実態について眼を向けないわけにはいかない、という思いが次第に浮かんできていたのではないかという気がするのです。

 

 

 

11 「原爆投下は神の救い」という原爆観の存在認識の始まり――1982年の教科書外交問題からシンガポールの歴史教科書記述へ

 

そうした原爆観の存在が知られるようになったきっかけは、歴史教科書の検定で「侵略」を「進出」に書き換えさせていたことが露見し、外交問題にもなった1982年夏の教科書問題でした。日本軍による加害の事実を歴史教育から消し去ろうとしたことに対するアジアからの怒りの声の中に、「原爆投下は神の救い」という表現が登場したのです。

 

韓国の新聞に掲載された投書でした。投稿者自身が1945年8月下旬の処刑予定者リストに記載されていたことを戦後に知って、原爆のおかげで日本が降伏し、自分は救われたという思いを抱いたという意味でした。そうしたハングルの記事や投書を、「神戸青少年・学生センター」のハングル講座の教師・受講生たちがボランチィア活動で翻訳し自費出版した(『教科書検定と朝鮮』同センター出版部、1982年9月)ことで、この投書が知られるようになりました。当時はまだマスコミが扱うまでにはなっていませんでしたが、あちこちで話題になっていました。82年11月には、東京のお茶の水女子大学の学園祭で、在日韓国人の作家の講演後の質疑で、学生が「この原爆観の人が韓国では多いのですか?」と尋ねたところ、講師は「原爆が落ちて良かったという考え方は多いのです」と答えています。このやりとりを含め、発端の韓国紙の投書のことを、私(高嶋)は「地理教育研究会」の『会報』(1983年5月)で紹介しました。

 

ついで1986年8月の「東南アジアの戦争の傷跡に学ぶ旅」で、私たちはシンガポールの中学2年生用の歴史教科書の改定版「Social and Economic History of Modern Singapore 2」(1985年11月発行)を入手して持ち帰りました。同書は1982年夏の「侵略・進出」書き換え検定問題の最中に改定作業がされていたもので、日本軍による侵攻と占領中の「昭南島時代」の記述が旧版の17ページから77ページに増やされていました。なぜこれほど増やしたのかについて、同国教育省の担当者は「公式のコメントはできない」としていましたが、「日本で侵略の事実を教科書から消す動きがあるのを意識してではないですか?」という問いに「まあそうですね」と答えています。

 

増えた記述では「昭南島時代」の過酷な占領政策が詳しく語られ、住民虐殺のことも触れられています。さらに「The End of the War」のページにはキノコ雲の大きな写真があり、本文では2つの原爆の投下とソ連の参戦で日本は降伏に追い込まれた、と書かれています。この教科書は国定のものです。シンガポールの中学生はこうした原爆観を1986年1月の新年度から学校で一斉に学ぶことになったのです。

 

私たちはこの教科書を日本に持ち帰り、研究会などで紹介して教員仲間に広めました。

 

*そうする内に「易しい英語版でもあるから英語科にも協力してもらいながら、高校  生たちにこの77ページ分を訳させながら学習する教材にできるのではないか」というアイデアが出され、東京の私立正則高校の生徒たちによって実行されました。その出来上がり具合が予想以上であったことから、出版の話に発展し、1998年3月に『外国の教科書の中の日本と日本人』(一光社) という書名で出版されました。当時は、外国の歴史教科書の翻訳出版は珍しく、まして高校生が翻訳したものという点に話題性があって、テレビや新聞で一斉に紹介されました。出版元はミニ出版社でしたが、こうした報道のおかげで増刷を繰り返して、10万部に達したとのことでした。この時の報道でも、主たる話題扱いではありませんでしたが、原爆観のことが触れられていました。

 

こうして、日本国内の従来の原爆観とは全く異なる原爆観が近隣諸国に存在していることが、1982年頃から少しずつ日本国内でも知られるようになってきていたのでした。それにしても、そのようになった原因が日本の教科書検定問題だったというわけですから、何とも皮肉なことです。

 

 

 

12 「原爆投下は神の救い」という原爆観の存在認識の広がり――セントサ島戦争博物館の展示の衝撃

 

日本国内で「原爆投下は神の救い」という原爆観の存在認識が急速に広がったのは、シ

ンガポールのセントサ島戦争博物館の展示の紹介が、1987年以後にされるようになってからでした。同博物館の展示は1985年までは古臭く退屈なものでした。それが約1年間の休館後の展示は実物資料も豊富になって、日本軍占領時代の苦難の様子が要領よく示されていました。ところが、日本軍降伏の段階になる直前の部分では、床から天井までの壁一面に引き伸ばされた広島市街地の焼野原の写真とキノコ雲の写真が並べられ、爆弾投下の音が流されていたのです。87年8月の「傷跡に学ぶ旅」の際、ガイドの人に「なぜここでヒロシマなのか?」と尋ねたところ、「原爆のおかげで日本軍支配の暗黒の時代から解放された、という意味です」との説明でした。「それはこの博物館だけの考え?」「いえ、シンガポール中がそう考えています。何しろ学校でそのように教えているのですから」というやりとりになりました。1970年代までの歴史教科書ですでにそのように教えていたと、いうのです。

 

その通りでした。そのことは、70年代の『小学歴史 6下』教科書で確認できました。その内容が80年代は中学校歴史教科書に移されていたのでした。

 

*中学校で「3年8か月」を初めて学ばせることにしたのは、当時のシンガポール政府が「ルックイースト」政策で日本との友好関係を強調しているので、歴史と現在を冷静に識別するのが難しい小学校段階は避けたのだ、ということでした。けれども1991年のペルシャ湾への掃海艇派遣やその後の日本国内での歴史修正主義の台頭などの動きを受けて2000年からは、小学校4年生のSocial Studiesでは半年をかけて日本占領時代を詳細に学ぶ教科書『The Dark Years』が登場します。それが最近ではまた80年代前半の状況に戻されています。こうしためまぐるしい変遷についても、詳しくは別の機会に報告することにします。

 

なお、この間も原爆投下によって日本が降伏に追い込まれたという観点は、一貫しています。

 

この展示に私たち「傷跡に学ぶ旅」の参加者たちは衝撃を受け、帰国後に「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ヒバクシャ」というスローガンでは理解してもらえない原爆観が東南アジアに広汎に存在していることを、機会あるごとに報告することにしました。この時のツアーの報告書『侵略・マレー半島“87』には、前出の70年代のシンガポールの教科書『小学歴史 6上』(華語版)の日本語訳を収録しました。

 

その頃、私たちの活動に岩波書店のブックレット担当者が関心を示してくれていて、それまでの活動について私が原稿を書くことになっていました。そこで出版できたのが拙著『旅しよう東南アジアへ――戦争の傷跡から学ぶ』(岩波ブックレット#99,1987年9月)です。書名には、海外旅行ブームではあるけれど、欧米ばかりではなく身近な東南アジアにもっと関心を向けて欲しい、という気持ちを込めました。さらに書店で手にしたときに「えっ!」という印象付けをすることも意図して、冒頭部分で「原爆投下は神の救い」という原爆観が広く存在していることを説明しました。幸いにして同書は増刷が繰り返され、

 

多くの方たちに読まれていることがわかりました。

 

さらに翌88年8月15日の『朝日新聞』文化欄で、同書のこの部分の指摘のことが詳しく紹介されました。私は「傷跡に学ぶ旅」で国外にいて、帰国後にこの記事のことを知りました。事前に取材を受けてはいたのですが、これほど大きな扱いは予想していなかったので、驚かされました。

 

さらに驚かされたのは、この記事でこうした原爆観の存在を初めて知った、と立花隆氏が『週刊現代』(88年9月17日号)の長文コラムで率直に吐露されていたことです。同コラムで立花氏は『朝日』の「記事にはショックを受けた」とし、「原爆は神の救い」となぜアジアの人々が考えるのかについて虐殺の事実などを具体的に挙げ、最後を次のように結んでいました。

 

「その実行部隊の中心となったのが、第5師団、すなわち、広島に本拠を置く師団だったのである。ヒロシマは原爆では被害者だったが、シンガポールでは加害者だったのでる。ヒロシマだけではない。日本全体がヒロシマと同じ立場なのである」と。

 

博識で知られる立花氏でさえ「ショックを受けた」ということでしたから、広島の被爆者たちのショックはその数倍のものになるだろうと、私は想像していました。それだけに、こうした原爆観の存在を広く知らせて良いのか、迷いがありました。ツアーの参加者たちとも話合いました。結論としては、現実に目をつぶるのではなく事実を伝えることで、それを乗り越える道を被爆者と共に探そう、ということになったのでした。

 

当初、東京での研究会などの席上で報告した段階でも、同席していた被爆者やその身内の方などから、強い反発があったりしました。心に傷を残すことになったのではと思いながら、誰かがやらなければならないことなのだからと、自分に言い聞かせていました。

 

『陣中日誌』の掘り起しによってヒロシマの部隊の責任であることを明らかにし、さらにアジアの原爆観の実態を示すことで原爆投下の認識の問い直しを求めたことになります。私にとっては気の重くなる取り組みでした。それだけに、こうした新しい史料や証言、状況分析に対して正面から事実を受け止めて直視し、被爆者にもそれなりの責任認識が必要ではないのか、という議論を重ねていた沼田さんたちの被爆者グループの取り組みに、どれだけ救われる思いになれたかしれません。

 

今回、このまとめを書きながら、手が何度も止まりましたが、沼田さんたちの心の葛藤の方がはるかに重かったはずと思い、作業を進めました。改めて沼田さんたちの行動の意味に学びたい、と思っています。

 

 

 

13 沼田さんのマレーシア訪問と現地での「謝罪発言」(1989年3~4月)

 

「東南アジアの戦争の傷跡に学ぶ旅」は、原則として夏休みに実施していましたが、「現場教員は夏休みよりも春休みの方が参加しやすい」との意見があって、89年も春休みに企画・実行することにしていました。

 

その参加者募集を始めて間もなく、沼田さん自身から私に電話がありました。「ツアーに画家の吉野誠さん夫妻と参加したいけれど、松葉つえをついてでも大丈夫ですか?」ということでした。「基本的には専用のバスで移動します。バスの乗り降りが少し負担になるかも知れませんが、その点はどうですか?」「日本国内でも経験しているので大丈夫です」「それならば、あまり心配はありません。もしバスが入れない細い道になっている場合があれば、その時だけバスの中で待っていてもらえますか?」「それでいいです」などというやりとりを経て、沼田さんと吉野さん夫妻の広島からの参加が決まりました。

 

正直、当時の私は、被爆者自身のツアー参加を想定していませんでした。でも沼田さんたちの参加で、新たな局面がうまれることになるので、ありがたいことと思っていました。

 

さらに私たちのこれまでの取り組みに、被爆者たちがそれなりに注目してくれていることの表れとも、思えたのでした。

 

マレーシアの現地では、虐殺事件の現場に案内すると言われ、畑の間の細い道を数百メートル歩くことになったりしました。沼田さんはそれでも一緒に行くと言われてバスから降りたところ、地元の人がバイクの後ろ座席に沼田さんを横向きに座らせて、現場まで楽々と乗せてくれました。結局、沼田さんは全コースで私たちと同一行動をやり通しました。

 

春休み中の短い日程にする必要性から、この時はクアラルンプール市内外と森州内を中心としたコースにしてありました。地元の華字紙の地域版の紙面では連日、一行の動向を詳しく伝え、とりわけ沼田さんの様子を写真つきで紹介していました。そこには、沼田さんに付き添う蕭文虎さんとのツーショットが大きく載っていました。

 

その沼田さんが特に注目されたのは、ティティでの交流会で「謝罪発言」をした時です。

 

ティティの町から丘を一つはさんだイロンロンでは1942年3月18日に日本軍によって村民1474人が殺害され、家屋は焼き払われて、村が地図から抹消されたと『史料』集にはあります。犠牲者の墓と追悼碑は姉妹村であるティティの義山(墓地)に1979年8月に建立されています。私たちツアーの一行は、この追悼碑と墓に参拝した後、地元の群英学校の体育館に用意された交流会の会場に移動しました。マイクも用意され、地元の人百人以上がすでに待っていてくれました。

 

そこで、地元の世話役とあわただしく打ち合わせをして、日本側と地元側と交互に3分毎を目安としてスピーチをすることにしました。そうした展開は事前に聞かされていませんでしたので、私たちの側での打ち合わせは何もなくぶっつけ本番の状態でした。こうしたことは、それまでにもままあったことなので、成り行きにまかせる、というのがその時の私の考えでした。日本からのメンバーには「一人3分以内という原則で地元側と交互にスピーチをすることになりました。何について言うかは全く皆さんの自由です。最初に発言したい方、いますか?」との問いかけに、すかさず「はい」と名乗り出たのが沼田さんでした。

 

「ではどうぞ」ということで、沼田さんが双方の最初の発言者として通訳のガイドと共にマイクの前にたちました。この時、私は沼田さんの前年夏の大阪と広島での蕭文虎さんたちとの議論の様子などを詳しくは知らされていなかったので、気軽に考えていました。ところが沼田さんは予想もしていなかった「謝罪発言」をしたのです。こうした問題の責任については、被爆者個人が最初に謝罪する事柄ではないと、私は思っていました(今も同様です)から、驚きました。沼田さんの発言を聞きながら、今夜のミーティングではこのことで意見交換が必要になりそうだけれど、どのように進めようかなどと考えたりしていました。

 

けれども、沼田さんのスピーチが終わった途端に、そのようなことを考えていられなくなりました。会場の人々が総立ちになり、前の方の人々が沼田さんに殺到してきたのです。

 

危険なことになるのではないかと思い、割って入ろうかと少し近づきましたが、そうした様子ではないのでしばらく落ち着くのを待つことにしました。

 

一段落してから通訳をしていたガイドが戻ってきて、説明をしてくれました。地元の人たちは沼田さんのスピーチに感激して駆け寄ってきていたのだということでした。「原爆で片足を失った不自由な体で、ここまでよく来てくれた」「日本人からいつか聞きたいと思っていた言葉が聞けてうれしい」「あなたこそ被害者なのに、よくぞ言ってくれた。感激している」などと口ぐちに叫んでいたのだそうです。

 

まずは沼田さんが無事であったので一安心でした。沼田さんもマレーシアに来てどこかで伝えたかったことを、明確に表明できて気持ちが落ち着いているようでした。謝罪を表明した場合に地元側からどんな反応が返ってくるか、多少の不安もあっただろうと想像されましたが、実際の反応が予想以上に好意的でしたので、安心して緊張が一気に解けているようでした。

 

 

 

14 沼田さんの「謝罪発言」の別の意味

 

一方で、私は複雑でした。やはり地元の人たちは、私たち日本人からの謝罪の言葉を待っていたのか、と思わずにはいられませんでした。それまでにも、虐殺事件のあった地元に初めて一人で入った時には「日本人が何しに来たのか」と冷たい視線に晒され、石を投げられたり、数時間の吊るし上げも何度か経験しました。殴りかかられそうになったこともありますますが、こういう日本人もいるのだからと、周りの人がなだめてくれて事なきをえました。私は、殺されるのでなければ多少のことは仕方がないと、自分に言い聞かせていました。そうされても不思議ではないという戦時中の事実を、私自身が掘り起していたのですから。それでも、そうした感情を抑えられない人は少数派ではないかという思いがありました。それが沼田さんへの反応で、甘い判断だったと思い知らされたのでした。

 

これではますます、これからの取り組みの姿勢が問われる。これまでの調査や追悼の取り組みなどで、そろそろ区切りにしてもいいのではないかなどとは、口が裂けても言えない。可能な限りマレー戦線での日本軍の戦争責任についての取り組みを続けるという覚悟を決めるしかない。自分はそのようなテーマを1975年のマレー半島旅行以来自分に課してきていたのだった、と改めて思わされた場面でした。

 

 

 

15 その後の沼田さんと広島の平和運動

 

沼田さんはこの時のツアーから広島に戻って以後、大忙しだったそうです。帰国後数日して「疲れていませんか」と電話をしたところ、「大忙しよ。語り部の仲間への報告は数日先にすることになっていたのに、家に戻った日の夜にみんなが『どうだった?』と次々電話してきて待っていられないというので、急に翌日に集まってもらうことにしたの。向こうでのことを話したら、みんなとても喜んでいるのよ。やっぱり被害のことばかりではアジアの人と気持ちを通じあうのは無理だねって言っているわ」ということでした。

 

被爆者仲間にも理解されたということで、安堵しました。

 

さらに、多くの人たちからの情報で沼田さんが修学旅行生などへの語りの中で、アジアへの視点を必ず織り込んでいると知りました。やがて全国の地方紙が89年7月28日に掲載した共同通信配信の連載記事『89ヒロシマ・ナガサキ 真実の検証』<第1回>で「問われ始めたヒロシマ 語り部たちに微妙な変化」という見出しの下、沼田さんの認識の深化の過程が紹介されていました。さらに、その連載を受けて『沖縄タイムス』の8月5日朝刊の第1面コラムではその深化の過程に注目し、沖縄戦認識の議論にも生かしたいものであるとしていました。広島や長崎だけでなくその他の地域でも注目され始めていたようです。

 

 

 

16 まとめとして

 

沼田さんの認識の深化、それは沼田さん自身の感性と知性の豊かさによると同時に、国内外の多くの人々の長年の取り組みに支えられたものであったのだと、思います。そうした総合的な共同作業の成果であるだけに、沼田さんの残したものが共有財産として注目され引き継がれていくようにすることが大切だ、と考えています。沼田さんの心の軌跡に幾分かでも寄り添えたのだと今振り返り、多くの仲間と共に様々な取り組みを長年続けてきたことの意義を改めてかみしめています。

 

けれども、1989年から早くも25年になる現在、まだまだ沼田さんが期待した変化が日本の社会全体に及んでいるとは、到底言えない状況です。これからも粘り強く取り組みを続けなければという思いも、新たにしています。

 

(2014年9月4日 記)

 

 

 

 

<補足説明 『中国新聞』が訂正・謝罪後に実行した責任ある行動について>

 

 

高嶋伸欣

 

 

 

『中国新聞』は長期連載『B・C級戦犯』で、引用資料の改変が多数に及び、改ざんさえあったとの事実を社内の点検活動によって確認し、それらの事実を紙面で明らかにした上で、読者や関係者にきちんと謝罪しました(1991年10月16日・朝刊)。

これだけであれば、誤報をした時の訂正と謝罪という前例と比較しても、それほど特筆に値することではないと、思われました。けれどもその後の同紙が採った行動は、前例のない特筆に値するものでした。

 

『中国新聞』はまず、全国の主要図書館に対して、同紙の購入と保存の状況を照会しました。その上で、購入と保存・閲覧対象としているとの回答があった図書館に対しては、同連載が掲載されている90年8月から91年5月までの『中国新聞』閲覧の申し出があった場合には、社内点検結果をまとめた正誤一覧表を必ず添えて、書庫から出すようにと依頼したのです。送付された正誤一覧表は『中国新聞連載「B・C級戦犯」異動一覧』と題され、A4版164ページに及ぶ詳細な内容のものでした。

私の知る限り、新聞だけでなく雑誌でも重大な誤報が明らかになっても、読者などに対してはその後の紙誌面で訂正と謝罪をすれば、それで“一件落着”としているものが大半です。

『中国新聞』も、同様に紙面で訂正と謝罪をしていました。それも1ページ分15段ぶち抜きで、史料改変や改ざんの事実を明らかにし、隣のページで経過説明や謝罪の意を表明をしたものでした。他紙の事例と比較しても充分と思えます。にもかかわらず、図書館などに対してこのような手配をしたのです。社会的責任を可能な限り果たそうとしている姿勢が、明白に読み取れます。

この資料は、国会図書館や新聞博物館図書室(横浜地方裁判所の向い側)などで、現在も閲覧可能なはずです。

 

『中国新聞』の次の事後対応は、一般読者に対する責任を果たすためのものでした。社内の中堅記者たちを日本が支配した軍事占領地・植民地の各地へそれぞれ派遣して、侵略の実態について取材させたのです。記者たちからは、担当する地域についての情報や取材先についての協力要請が、私たちにありました。その時点で得ていた情報は、提供しました。そうした取材の成果が、1992年10月28日から93年6月29日まで、地域別の断続的シリーズとして同紙に掲載されました。通しのタイトルは『亜細亜からアジア 共生への道』でした。最初のシンガポール編「『改名の島』は今」の1回目では「『終戦早めた』キノコ雲」と題して、「原爆投下は神の救い」という原爆観が広汎にあることを、明らかにしていました。その後の連載の内容も、侵略の事実を正面から指摘するもので埋められていました。

当然のこととして読者からは、賛否の声が寄せられたそうです。その読者の声も一つのシリーズが区切りになる毎に特集として紹介されました。マレーシア、韓国、台湾、インドネシア、タイ、フィリピン、中国とシリーズは続きました。

やがてこれら連載記事に関連資料を加えて単行本が編纂され、93年秋に同名の書として出版されました。けれども、中国新聞社からの出版であったために全国の一般書店への供給ルートには載りませんでした。そのためあまり広く知られることなく、数回の増し刷りの後に絶版となりました。

それでもなお、これだけ具体的にアジア全域での侵略の事実をまとめた文献は、その後も

出現していないと、私は思っています。幸存者など体験者からの聞き取りを原則にしたこのシリーズに登場した人たちで、すでに故人となった証言者も少なくありません。今なお貴重な文献であることに変わりありません。

 

ともあれ、こうした連載記事の掲載を実行したことで、『中国新聞』には報道人としての社会的責任の意識が明確に息づいている事実が証明された、と言えます。創刊100年の記念すべき時に起きた連載『B・C級戦犯』の不祥事にもかかわらず、同紙の伝統に揺らぎがないことが証明されたのでした。

ちなみに『中国新聞』の伝統として報道人の間で語り継がれているのは、市内での暴力団抗争の激化を受けて「暴力団追放キャンペーン」を全力で展開し、脅迫に屈することなくやり抜いて、広島市を平穏な街に変える先導的な役割を果たしたことです。その時、報道部で中心となっていた人物としての今中亘氏の名は、同キャンペーンのことと共に、それ以後、報道界では広く語り継がれていました。

その今中氏が、『B・C級戦犯』掲載時の同紙の編集局長でした。資料改変・改ざんの多数の事例を示す資料を添えた、林氏と私からの抗議文を受けて事態の深刻さを認識した今中氏は、ただちに上京して私たちに謝罪し、社内できちんと責任を明白にしてけじめをつけると表明されたので、私たちも一任することにしました。名前だけは知っていた今中氏と気付いたのは、名刺を交換した時でした。何というめぐりあわせと驚きながら、私たちはその後の様子を見守り続けました。その結果が、これまで明らかにした通りです。語り継がれてきた通りの気概が示されたものだと、私は受け止めています。

* ただ残念なことに、こうした今中氏たちによる対応は日本のジャーナリズムの歴史上でも大いに注目されて良いはずのことですが、そうした様子がこれまでのところほとんどみられません。研究者の間でも無視されているように思えます。最近の『朝日新聞』によるいわゆる「従軍慰安婦」報道総点検をめぐる議論でも、報道を訂正した後の『朝日』の不手際ぶりは明らかです。『朝日』社内には『中国新聞』の優れた先例を知る人がいないのでしょうか。さらに『朝日』以外の人たちからもこの先例の存在を指摘する声が挙がっていません。立派すぎて、他紙ではとても実行できないということでしょうか。これでは、日本の加害責任を正面から追及するジャーナリズムの気概を求めることなど、到底無理です。残念の一語です。   (2014年9月5日記)

初出:「ピースフィロソフィー」2014.9.8より許可を得て転載

http://peacephilosophy.blogspot.jp/2014/09/blog-post_8.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye2758:140908〕