フランス共和国<理念>の孤立と栄光

 フランス革命200周年記念行事が終わって3カ月ほど経った1989年10月、新学期が始まったばかりのパリ郊外のクレイユの町の公立中学校で、3人の女子生徒がイスラム教のスカーフを被ったまま登校し、教室でスカーフを外すことを拒否したために、校長が図書室での自習を命じるという出来事が起こった。これが、その後10年以上にわたってフランスの世論・論壇を二分することになる「スカーフ事件」の発端だった。このような事件が起こり、それがまた世論と論壇を二分する大論争に発展するということ自体、フランスという国の特殊性を表しているのだが、世界的に有名になったこの事件の持つ思想的意味について、フランス以外ではほとんど理解されなかったのではないだろうか。

 そもそもなぜ公立中学の校長がイスラム教のスカーフを着用したまま生徒が教室に入ることを拒否したのかといえば、フランス共和国には「ライシテ(非宗教性)」と呼ばれる原則があり、それは憲法、学校教育法、政教分離法などによって規定されており、フランス流の政教分離、すなわち、公的空間における「非宗教性」の原理を定めているからである。したがって、フランス共和国の理念に忠実に従う限り、公立学校という公的空間に宗教的信仰を表示するシンボルを持ち込むことは、それがキリスト教の十字架であれ、イスラム教のスカーフであれ、許されないことになる。

 しかるに、この事件においてイスラム教徒の女子生徒を支持する論者は、学校当局の態度はあまりにも硬直的で、多文化社会の現実と文化的多様性を認めない不寛容な態度であると非難した。スカーフを着用したまま教室で授業を受けたからといって、公教育の公共性が損なわれるわけではない、というわけである。おそらく、この論争を「対岸の火事」として眺めていた世界の人々の大半も、そうした批判に同調的であっただろう。あるいは、人によっては、学校当局の態度はあまりにも権威主義的・フランス文化中心主義的で、イスラム教徒に対して差別的ではないかと思った人もいるかもしれない。反対に、学校当局の決定を支持した一部のフェミニストの中には、スカーフを女性抑圧的なイスラム文化の象徴と見て、それを取るよう指示した学校当局を支持した者もいたが、これは学校当局の決定を支えている「フランス共和国」理念に対する理解を全く欠いていたと言わざるを得ない。

 それに対して、フランス革命における「共和国」理念を断固として支持する立場から、学校当局の決定を支持したのがレジス・ドゥブレやアラン・フィンケルクロートらの共和主義派の知識人であった。しかし、「共和国」理念とは一体なのか? 一般的な政治学の教科書によれば、「共和国」とは「君主のいない民主主義国」のことであると思われており、そのような国はフランスのみならずアメリカをはじめとして世界中にたくさん存在しており、『現代政治学小辞典』(有斐閣)にも「共和制か否かは実際上それほど大きな意味をもたない」と記されているくらいで、そこに何か特別な理念を読み取ることは困難であり、ましてや「スカーフ事件」に対して特別な示唆を読み取ることは不可能だろう。

 ところが、フランス共和国の理念とはそのような一般的で無内容なものではなく18世紀啓蒙思想とフランス革命に由来するフランス独特の理念である、ということを雄弁に弁証したのが、89年11月の「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌に発表されたレジス・ドゥブレの「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」という論考であった。そこにおいてフランス独自の「共和制/共和主義者」と対比して、「デモクラシー/デモクラット」と呼ばれているのは、アメリカを典型とする経済的自由主義(現在なら「新自由主義」という方がわかりやすいかもしれない)に基づく政治体制・理念のことであって、単なる「民主主義/民主主義者」のことではない。したがって、以下の記述においては、ドゥブレに敬意を表して「デモクラシー」と表記した箇所は、「経済的自由主義」(または「新自由主義」)などと読み替えて欲しい。もう一点注意しておきたいのは、ドゥブレはフランス国内においても、最近ではアメリカ流の「デモクラシー」(=経済的自由主義)が猖獗を極めており、「共和国」理念はともすれば時代遅れの思想と見なされ、劣勢に立たされつつあることに危機感を抱いていることである。それでは以下、ドゥブレの所論を手掛かりに、共和国理念の輪郭を描いてみることにしよう。

 共和国(republic)においては、公的なものと私的なものとを厳密に区別する。そして、公的領域(res publica:公的なもの)に属する政治は、私的領域に属する経済よりも優位を占める。これは、公的なものと私的なものとを厳密には区別せず、私的領域に属する経済が公的領域に属する政治を支配している「デモクラシー」とは対照的である。それゆえ、政教分離の解釈も、共和国においては、公的領域(国家)が宗教的影響力から自由であることを強調するのに対して、「デモクラシー」においては、私的領域たる教会(宗教)が国家の影響力から自由であることを強調する。「デモクラシー」の想定する人間像は、経済的動物、すなわち市場経済における生産者であると同時に消費者であるような利己的個人である。それに対して、共和国においては、公的領域を支えるのは理性と市民精神に満たされた「市民」であって、公的領域においては、理性に基づく普遍性のある討論が指導原理となる。それゆえ、そのような理性と市民精神を備えた「市民」を育成する場として、共和国においては、「学校」に特別な重要性が付与される。すなわち、共和国における学校とは、理性において平等な人間を、自分の頭で考えて判断することのできる自律的「市民」として育成する場であるから、そこにおいては、理性、平等、普遍性、自律性、公共性、非宗教性などが指導理念となる。共和国における学校は、社会的諸勢力の影響力から自由でなければならず、人間を社会的環境の影響から解放しようとする。それに対して、デモクラシーの学校は、市場社会において競争力のある個人を養成することが任務であり、市場原理は教育においても有効であるだけでなく、市場経済に適応できる人間を養成して社会に送り込むポンプとしての役割が重視されることになる。「共和国の学校は知性豊かな失業者を生み出すと皮肉られるが、デモクラシーの学校は競争力のある馬鹿者を育成すると揶揄される」とドゥブレが言うのはそのためである。

 共和国の学校がなぜ「非宗教性」の原理にあくまで拘るかと言えば、そこがあらゆる社会的影響力から自由で、根源的に平等で自律的な市民を育成するための場でなければならないからである。翻って、わが日本はどうかと言えば、言うまでもなく、圧倒的に(ドゥブレの言う意味での)アメリカ型「デモクラシー」社会である。というより、それとは根本的に理念の異なる社会モデルがあること自体知られていない。公私の混同、経済の政治に対する優位、理性より利益を重視する態度、市場経済への適用力に富んだ人間を養成するための学校と、そこでの競争原理の浸透、といった状況が蔓延する社会において、それとは根本的に異なるフランス流の共和制理念を学ぶことは大いに意味のあることであろう。

 レジス・ドゥブレは、「ある国が共和国なのかデモクラシーなのかを区別する最も確かな方法は、哲学が高等学校で、すなわち大学入学以前に教えられているかどうかを調べることである」と述べているが、ドゥブレの当該論考の訳者である水林章によれば、大学入学以前に「哲学」が哲学として教えられているのは、どうやらフランスだけのようであり、そうだとすれば、まさしくフランスは世界で唯一の「共和国」ということになる。実際、フランスではリセ(高等学校)の最終学年で、文系・理系を問わずすべての生徒が「哲学」を学習しなければならないことになっており、そこでは、「自由」「正義」「他者」「国家」「無意識」などといった根本概念について、テクスト間の討論を通じて学んでいるのである。そして、大学入学資格試験であるバカロレアにおいては、例えば、「人が同じでないことと、市民として平等であることの関係について論ぜよ」とか、「わたしたちには義務というものがあるが、それは他者に対してだけのものであろうか」などといった極めて高度で抽象的な思考を必要とする問題が出題されているのである。これは真に驚くべきことではないだろうか!

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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