フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(2)

第1章 フランス革命の意味するもの――近代ドイツの知識人のフランス革命に対する反響

 

 1789年、フランスにおいて勃発した革命は、フランス国内を動揺させただけでなく、その波紋は海峡を隔てた国をも含めて、あらゆる諸国に及んだ。それと同時に、フランス革命後まもなく、その意味するところをめぐって賛否両論の見解が現れた。例えば革命の翌年、1790年には、イギリスにおいてエドモンド・バークが『フランス革命についての諸反省』を著わし、王権=貴族層の保守的階層から支持を受けた。これに反してエドモンド・バークに反駁する格好で、1791年から翌年にかけて遠くアメリカの地において、トマス・ペインが『人間の権利』を著わし、フランス革命の正当性を論じたのであった。また1793年にはフランスの隣国ドイツにおいて、フィヒテが『フランス革命にかんする公衆の判断を是正するための寄与』を著わし、フランス革命の歴史的意義を表明したのである。

 このような各国の知識人の反応もさることながら、フランス革命によって驚愕された側は、何よりもヨーロッパ諸国の王権=貴族層の支持者層であったであろう。そのなかでも、とりわけ震撼させられた国はドイツであったといわなければならない。

 本章では、次章以降の展望を与えるために、まず18世紀ヨーロッパにおけるドイツの位置づけを明らかにする。次に、フランス革命前における農民階層、市民階層の情況を通じて、同時期における知的・思想的情況を明らかにする。それに続いて、フランス革命後の、革命に対する知識人(このなかには作家、作曲家、学者、青年学徒等が含まれる)の反響を検討し、最後にフランス革命の政治的原理を概観してみることにしよう。

1.フランス革命前のドイツの社会的情況

 18世紀のドイツは、「オーストリア、ブランデンブルク・プロイセン、そして『帝国』=『第三のドイツ』」(帝国に直属する都市、いわゆる帝国都市―引用者)(1)という、三つの基軸によって構成されていた。このことからわかることは、中世末期において、イギリスやフランスでは「国王による統一が実現されたのに対して、ドイツでは皇帝=国家権力は弱体化の一途をたどり、諸侯が皇帝=国家権力から自立の度を強めつつ(・・・・・・・・・)、領内で国家的な権力を確立していっ(・・・・・・・・・・・・・・・・)た(・)。」(傍点は引用者)(2) ドイツは部分国家として、つまり、統一されないまま分裂した諸国家群として18世紀に入ってきたのであった。確かにドイツは名目上「神聖ローマ帝国」=「ドイツ帝国」ではあったが、実際、16世紀にはモザイクのような部分国家群が300余りあったとされている。「もっとも、部分国家とはいっても、その中には諸侯によって支配された領邦国家のほかに、政治的権利においては諸侯と同格で、帝国に直属する都市、いわゆる帝国都市が数十となくふくまれている。」(3) そしてこの帝国都市も、「近隣の有力な領邦国家の圧迫によって併合される運命をたどった」こともあり、ドイツは18世紀には先にみたような三つの基軸によって構成されていたのである。

 18世紀のドイツは、以上のような三つの基軸によって成り立っていたことをみてきたが、ここで問題とされなけらばならないことはその内部事情である。つまり、キリスト教徒(5)の日常生活はどう構成されていたかということである。聖書は、神の前では貴族、有力者、官吏(6)、市民、農民は同士と扱われると説いているから(7)、教会へ礼拝にやってくる者にはそれらがみな含まれていた。しかし、「教会に於ては人々の席は劃然と三つに分たれて、牧師は貴族に対してはder Gnaedige Herr, die Gnaedige Frau, Fraeulein と呼び、町の有力者官吏等に対しては Herr, Frau, Jungfer と呼び、職人や百姓に対してはその名前を呼び棄てにするのを常とした。」(8) ここで問題にしたいのは、貴族には敬語、町の有力者・官吏にはいわば「……さん」、市民や農民に至っては呼び棄てという徹底した、強硬な身分差別が日常生活のなかに貫徹していたことである。

 この際、最下層にいた農民がもっとも惨めであった。近代ドイツ社会の矛盾と皺寄が、農民層に浴びせられることになったといえる。王権=貴族層の収入源はこのような農民層からのものが最大であった。王権=貴族層はこれを確実に維持するため賦役を課し、農民は奴隷に近い状態におかれていた。「奴隷は法的な意味で完全に不自由で、権利の物権にのみなりえ、権利の主体にはけっしてなりえないが、農民は主人との関係のみにおいて不自由で、他の人々においてはそうでなかった。その点で、農民は自分たちに司法権を持っていた主人に全く依存していたのである。農民は土地を離れることは許されず、土地と一緒に売られた。(中略)農民が恐ろしい単調で骨の折れる仕事から逃れようとすれば、農民は動産のように主人によって呼び戻された。農民の娘たちは主人の許可によってのみ結婚できた。子供たちは肉体的に一人前になるとすぐ、領主の家族に奉仕しなければならなかった。」(9)

 ドイツにおける農民と領主とのこうした封建的関係は、革命前フランスにおける関係と比較すると、より明瞭に理解することができる。「フランスの農民たちが、経済的に依存していた封建領主によっては、もはや実際に支配されなかったことがフランス革命を導いた理由の一つであったことが、よく知られている。」(10)

 ドイツの農民層はこのように、いわば「農村における貴族の支配体制」(11)という強硬な身分組織のなかに組み込まれていたが(12)、そればかりでなく、例えばプロイセンにおけるように、兵士としても徴用された。すなわち、「プロイセンの将校団は、独占的・排他的に国内の貴族によって形成されていた」が、「他方、兵士の方は、マーカンティリズムの要求からして、その生業を以て奉仕すべきものとされた都市市民が原則的に兵役を免除された結果、外国人傭兵を除けば、その。」(傍点は引用者)(13) 18世紀半ばの七年戦争(1756~63年)末頃のプロイセン各地方は、惨憺たる情況に追い込まれた。家畜のみならず、多くの人々が犠牲になった。なかでも兵士=農民が最大の犠牲者であった。(14) こういうことからも、ドイツの農民層がいかに冷遇されていたかがわかる。

 ところで、一方、市民層はのような情況におかれていたであろうか。ここでいう市民層とは、大工職、馬具職、鍛冶職、織ど物職などの家内工業者、商人などである。これらは中世半ばすぎ、商工業者の同業組合として組織されたツンフトに起源を発し、利益と特権とをまもり、後継者を養成し、品質の向上、取引の公正を目的とし、領主、教会、市議会の許可=依存のもとで成長してきた層のことである。(15) これには芸術家や学者、医者等の知識人をも含めてよいだろう。

 ドイツにおけるこのような市民層が居住していた都市としては、イギリスやフランスのそれと違って、領邦国家から独立した帝国直属の自由市=帝国都市Reichsstadtと、領邦国家の直接支配下の領邦都市Landsstadtとがあった。(16) このような自由市=帝国都市と領邦都市とでは、事情が異なる。つまり、すでに中世では領邦国家の場合、「領邦君主が次第にシュテンデ(Staende 領邦議会の議席権をもつ高位聖職者と貴族、領邦都市―引用者)を圧倒し、絶対主義的体制を確立していくのに対して、前者(帝国都市―引用者)の場合はシュテンデの権利が強化され、皇帝権=王権を空洞化していった。」(17) この差異こそが、近代ドイツの市民層を同一のレベルで捉えることを困難にあいた要因である。

 このような事情のもとでは、イギリスやフランスのような統一国家において市民層が独自の地位を固めつつあったのに対して、ドイツでは、農民が領主に隷属していたように市民層もまた領主に依存していかなければならなかった。「18世紀になって、産業が活気を見せてきた地方でも、この活動は、領主の命令(décrets)にもとづくものであり、その供与する特権と独占的地位とによって可能となったのであるから、市民の階層(bourgeoise)は、全く諸侯の恩恵に依存的ならざるをえない状態だった」(18)のである。こうしたことは、当時、近代的個人=自我に目覚めた芸術家や著作家にも妥当していた(19)。まことに、こうした「諸侯の恩恵に依存的ならざる」をえなかった事態こそが、ドイツ市民層の経済的自立性の成長を妨げることにつながっていたといってよい。

 このように、経済面において近代ドイツが「後進性」を問われたことはまた同時に、市民階層が「社会のその地位に対する意識に目覚めていなかった」(20)ということにもつながっていた。イギリスやフランスの市民階層はいち早く社会的政治的意識に目覚めていったが、それに対して当のドイツ市民階層の多くはそれらの覚醒に欠如していた。その結果、フランス革命後に彼らがどういう対応を示していったか、追ってあきらかにしていきたい。

 しかし、次の点はけっして見逃してはならない。それは、フランス革命前に啓蒙思想の洗礼をうけた市民階層―その多くは知識人に属する―が文化的・社会的・政治的意識をもっていたことである。なぜなら、このような意識は、たとえ少数であっても封建的桎梏の強かった当時のドイツにあっては、貴重な存在といえるからである。このような意識をもった人々とそうでない人々とは、フランス革命に対して肯定(前者)・否定(後者)という正反対の対応を示し、革命後彼らは両極に分解していくことになる。

 その他にまた、革命前に啓蒙思想の洗礼を受けながらも、革命中にその変革についていけず、事後に革命から一定の距離をおいたり態度を180度変えたりした人々もいた。こうした人々の思想も、1790年代ドイツの社会思想の諸形態の一角を築いていったのである。ここではまず、フランス革命前に啓蒙思想の洗礼を受け、ドイツの情況を鋭く分析した人、あるいは、消極的ながらも発言をした人たちを取り上げる。その際、時期はフランス革命前までとし、地域はオーストリアを除いた部分とする。

 まずプロイセンからみていこう。フランス革命前の同地域の情況を捉える場合、フリードリヒ2世(大王)即位時、1740年まで遡ってみなければならない。「1740年、即位と同時によく訓練された軍隊と豊富な財力をえたフリードリヒ大王はシュレージェンを奪い、これを二つの戦役を通じて、全ヨーロッパの半ばの勢力に対抗して守り続けたのであった。」(21) フリードリヒ大王の文化的政策、ならびに政治的政策については後述するとして、次の点はここで指摘しておく。「戦争と課税の負担は重たく、封建制度はなんら改善を加えられずに残り、近視眼的重商主義は国を貧困状態に留め、人民の政治教育はなおざりにされていた」(22)ということだ。したがって、1769年、「思想や出版の自由についての話はやめてもらいたい。それは宗教に対して好きなだけ風刺文を書いてもよいという自由に縮小してしまった。もし誰かが声を大にして人民の権利の擁護、あるいは搾取や専制政治の反対を叫ぶなら、君はどの国がヨーロッパにおいて最も奴隷的な国であるかがわかるだろう」(23)と手紙に書き残したレッシングの洞察は、フリードリヒ大王の文化的・政治的政策のいい加減さをついたものとして卓見であったといえよう。

 また、1784年、「革命に依って、恐らく個人的な専制政治や、利欲或いは支配欲による圧制は、確かに廃棄できるであろうが、しかし人間の根本的な考え方の真の革新は、決して達成され得るものではない」(24)と主張したカントの見解も、フリードリヒ大王下のプロイセンの情況をよく物語っている。1784年のカントにとって、「国民が、自分自身についてみずから決定してはならないようなことを、君主もまた国民について決定してはならない」(25)という発言が、この当時において関の山であったといえるかもしれない。だが、フランス革命に先立つ2年前、カント自身、『純粋理性批判』第2版の序において「わたくしは、信仰に余地を求めるために知識を除去しなければならなかった」(26)と言わざるをえなかった。それは、プロイセンの政治的情況がいかに知識人の生活に重くのしかかっていたかを証明している。

 プロイセンに比べると取るに足りないヴュルテンベルグでは、カルル・オイゲンにおいて、専制政治はその頂点を極めた。「国会は、優れた弁護士で、ヴュルテンベルグのコークといわれたJ・J・モーザーにおいて、かれらを代表する闘士を発見した。かれは原始ドイツ的自由の残っている二、三のものを掲げて、専制主義の洪水を防ぐ防波堤たらしめようとしたが、5年間の禁固刑に処せられてしまった」(27)という事実もあった。この専制主義者は、詩人シラーをも追放した(28)。因みに、シラーはこの結果、1784年、「私はいかなる主君にも仕えない世界の一市民として書く。私は大なる世界と引換えにわが祖国を失った」(29)と述べた。

 ところで、モーザーの息子カルル・モーザーは、1751年フランクフルトで「主人と召使」を発表した。このなかで、こう述べている。「多くのわがドイツの支配者たちの専制政治、人民の過酷な取り扱い、国会に対する最も神聖なさまざまの約束の破棄、多くの支配者たちの自分たちの義務に対する無知、およびその他多くの悪い時世の特徴は、支配者は神に対してのみ責任を負うという観念である」(30)と。レッシングの発言と同様、このことからわかることは、フランス革命前において王権=貴族層が農民や市民階層に対していかに過酷な封建的桎梏を課していたかを、立証していたことである。

 しかしながら、このように封建的桎梏が強い専制主義、分裂国家ドイツに対して果敢な文筆活動を実践していった人たちも、少数ではあったがいる。その一人にヴュルテンベルグのヴェックルリーがいる。彼は「9年間をパリで過ごし、ヴォルテールを崇拝し、フランスを啓蒙主義の祖国として愛し、神聖ローマ帝国を激しく批評したこの男には、少しも愛国者的なところはなかったが、政治批評においては、かれは、はるかに、効果的であり、かれの痛烈な機智はかれを一大勢力たらしめた。(中略)1778年から1788年の間に3度名前を変えた一つの雑誌を編集したが、そのなかで、かれは専制主義と非開化主義とを痛烈に攻撃したのであった。」(31)

 こうした情況のなかで、1780年代に入ってくると、隣国フランスでは、徐々にではあるが政治的変化の兆しが現れてきた。ゲオルク・フォルスターをマインツ図書館長に推したヨハネス・ミュラーは、1782年、手紙にこう書き遺した。「私は今結婚するのは好ましくないと思います。どうしてかというと、すべての大政治家の意見では、ヨーロッパには革命が起ころうとしており、そのような場合に、独身でいれば自分一人の面倒をみさえすればよいからです。」(32) ミュラーの見解の背景には、フランスのみならずドイツへの考慮もあったと推定される。学識豊かな人物として知られるゲオルク・フォルスターもまた、ミュラーと同じ意味で次のように書いていた。「ヨーロッパは恐ろしい革命に瀕しています。一般民衆の腐敗は甚だしく、これを救うにはただ流血のみが効果的です。」(33)

 1788年、隣国フランスでは政治的変革への機運が醸成されつつあった。例えば、「グルノーブルでは88年6月に高等法院と王権との抗争から〈屋根瓦の日〉(王の軍隊に民衆が瓦を投げつけたことによる)と呼ばれる一揆さえ生じた。」(34)  また、「当時工業が勃興しつつあったドフィネにおいては、ブルジョワジーと貴族とが協同して88年7月にヴィルジルで会議を開き、全国三部会によるのでなければ租税を協賛しないと声明した。第三身分をも巻き込んだ貴族の反抗を前にして、王権は屈服するほかはなかった。」(35) さらに、「88年の秋に貴族と第三身分との対立が表面化したとき、第三身分の中でいち早く自己の政治的立場を自覚していたのはブルジョワジーであり、彼らは、自分たちこそが第三身分の代表であるのみならず〈国民〉の代表であり、〈愛国派〉(パトリオト)であると考え、〈開明的〉な貴族や僧侶の一部とも協力して、クラブやサロンやカフェーを拠点として活発な活動を開始した」(36)のであった。そして、このようなブルジョワジーを中核として、1789年の革命につながっていくことになる。

 しかし、当のドイツはどうであったか。革命前年におけるミュラーの発言は重要だ。ミュラーは悲痛な面持ちで、こう叫んだ。「法律も正義もなく、気まぐれな課税に対して何らの保証もなく、われわれの子女、自由、権利、あるいはわれわれの生命さえも維持する

ことはまったく不確実であり、、ももっていない、というのがわが国の現状である。」(37)さらに続けてこう叫んだ。「われわれドイツ人は、古色蒼然たる衒学者から脱して有力な帝国組織、真の帝国的結合、また『われわれは一つの国民である』といえる共通の愛国心をもつようになるだけの勇気と叡智をなぜ失ってしまったのか、理解できない。」(38)

 また、近代ドイツ史の研究家アリスは、フランス革命前年のドイツの情況をこう伝えている。「1788年のパンフレットにおいて匿名の著者は、正当にも、ドイツ人は愛国心に関する核心をいくらか欠如している、との不平をもらしている。しかしながら、ほとんでおの人々は、この著者のようには感じなかった。(中略)出版が抑制されたため、帝国の大多数の部分において党派の形成に密接である自由な世論は発達することができなかった。」(38)

 こうしてフランスとドイツを比較して理解できることは、フランスの市民階層は「」に目覚め「」に燃えていたが、ドイツは部分国家ないしは分裂国家の故に市民階層の多くが「国民意識」を欠如し、政治的無関心を引き起こしたことだ。こうしたドイツ市民階層の多くがフランス革命後に示す反応については、次章において明らかにされる。それと同時に、本節には僅かしか登場しなかったゲオルク・フォルスターやカントの反応、有名無名の知識人の反応についても、この際、として脳裏に留めておくべきだ。

1.坂井榮八郎「十八世紀のドイツ」、『岩波講座・世界歴史』17、近代4「近代世界の展開I」岩波書店、1974年、334ページ。

2.中村賢二郎「ドイツ領邦国家」、『岩波講座・世界歴史』15、近代2「近代世界の形成Ⅱ」岩波書店、1974年、270ページ。

3.中村賢二郎、前掲論文、271ページ。

4.中村賢二郎、前掲論文、272ページ。

5.辻荘一氏の次の文章に注目されたい。「おおよそ18世紀のあかごろまではドイツではキリスト教が生活の基盤であって、何ごとにも宗教が織り込まれていた。」辻荘一『J・S・バッハ』岩波新書、1982年、2ページ。

6.ここで官吏について一瞥を与えておこう。ドイツのこの時代の官吏として、まず国王に直結する官僚=上級貴族がいる。例えば文豪ゲーテは、称号のみであったが帝王顧問官の父、フランクフルト市長の娘の母のもとで育ち、30歳にしてザクセン・ヴァイマール公国の枢密顧問官に任命され、3年後には財政局長官となった。また、郡長職=退役将校などの貴族も官吏をほとんど独占した。そのほか、住民の生活に密接にかかわる下級官庁には退役軍人=下級将校といった下級貴族が登用された。彼らの職務としては、塩や煙草の専売関係、村の郵便局や学校教師、森林監督官、消費税徴収官などがあった。坂井榮八郎、前掲論文、352、365ページ。ゲーテ、大山定一・国松孝二・高橋健二・前田和美訳『ゲーテ―ファウスト・若きヴェルテルの悩み・ヘルマンとドロテア・ノヴェレ・詩』中の、関楠生編ゲーテ年譜参照。世界文学大系19、筑摩書房、1960年、465-7ページ。

 ここで言いたいことは次の点である。このような官吏職は、一応は貴族に属していたが、家柄や家門によって上下の格差があり、世襲される格式の故に各地域ごとにもっとも古い家柄の貴族が階層的に一番高い地位を独占し、次に中・下の貴族がその地方の官吏職に位置していた。なお、本文中にある「町の有力者」とは、例えば市議会議員(前出の貴族も属していた)、重商主義的政策のもとでの特権的で富裕な商人層、ツンフト親方層を表象すればよい。

7.本文で「神の前では、(中略)同じく扱われる」と書いたが、その前提となっている背景を聖書から一、二拾ってみよう。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3-16)、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のもとに行くことはできない。」(ヨハネ14-6)

8.林健太郎「ドイツ市民精神」、同『人間と思想の歴史』國立書院、」1948年、85-6ページ。

9.Reinhold Aris, History of Politicalthought in Germany from 1789 to 1815. Frank-Case, 1965, p.236.

10. Aris, ibid., p.236.

11. 坂井榮八郎、前掲論文、361ページ。

12. 林氏の次の文章に注目されたい。「ドイツに於ては農奴制度は未だ少しもその力を失っていなかったばかりではなく、場所によってはかえって近世以降に於て強化されさえもした。もっとも農民の状態は西部ドイツと東部ドイツとの間には大きな差があり、西部ドイツに於ては西ヨーロッパに於けると同様な農奴関係の消滅が進行していた。然し當時のドイツ最強の國家であったプロイセンの支配するエルベ。ザーレ両河以東の東部ドイツに於ては農民は完全な農奴身分に止まっていた。」林健太郎、前掲書、86-7ページ。

 なお林氏は前掲書で、ゲーテのクネーベル宛書簡(1782年4月17日付)を紹介している。「斯くて僕は農民がわずかに口を糊すに足るだけを大地から収穫する様を見る。若し農民がわが身だけのために汗を流しているのだとするなら、確かに之だけでも楽に煙を立ててゆかれよう。ところが君も知る様に、木虱(きじらみ)が薔薇の枝にとまって、汁を吸って丸々と太り緑色を呈してくると、そこへ蟻がやって来て濾してとった汁をその體躯から吸いとって了う。斯んなことがどんどん續けられ、下々で一日のうちにやっと生産され得る以上のものが、上にあっては必ず一日のうちに喰い盡されるという程に迄なって了う有様だ。」林、前掲書、89-90ページ。ゲーテの書いている蟻が何を譬喩したのかは、説明するまでもないであろう。

13. 坂井榮八郎、前掲論文、362ページ。

14. 本書第3章「ヘルダーの『ナショナリズム』論――18世紀後期のドイツの社会思想の一形態」、第2節「ヘルダーの専制政治への批判」を参照。

15. 辻荘一、前掲書、15-6ページ参照。

16. 坂田太郎「『疾風怒濤』時代のドイツ――市民層についての覚書」、『一橋論叢』54-4、1965年、604ページ以下。この論文は18世紀におけるドイツ市民層の内部事情を知るうえで格好の資料を提供してくれている。

17. 中村賢二郎、前掲論文、273ページ。

18. 坂田太郎、前掲論文、605ページ。

19. ここではまず、典型的な例としてJ・S・バッハからみていこう。解説にあたっては辻荘一の前掲論文に依拠する。( )内の数字は同書のページ数である。バッハは1685年アイゼナッハに生まれた。父はこの町の町楽士の親方であった(27-8)。このことからわかるように、音楽という仕事もこの時代にはツンフトに入っていたのである。バッハの音楽家としての天分は早い頃からひらけ、作曲もした。22歳の時にはミュールハウゼン市当局から優遇され、オルガニストに就任した(34)。翌年には「ヴァイマルの領主宮廷の楽士となった。しあkし実際は宮廷礼拝堂のオルガニストを兼職した。」(42) その後バッハはケーテンに移り住み、領主と懇意を結んだが、次第に疎んぜられた(57-61)。38歳の時ライプツィヒに移り、ここでバッハは「音楽監督としてライプツィヒの諸教会の音楽を取りはからわなくてはならないが、一方トーマス学校の教員のひとりとして生徒の指導、監督のために、寄宿寮の世話までもせねばならぬという二重の職責が課せられた」(74)のであった。この地でバッハはマタイ受難曲とヨハネ受難曲など幾つかの曲をつくったが、バッハの職務権限から教会・市当局との衝突に発展した。市議会の非難に立腹したバッハは、町を離れようと思ったらしい(99-109)。この間、バッハは「クラヴィア練習曲(Klavieruebung)第一部を出版した」(117)ものの、ライプツィヒ「市当局、聖職会議、大学と非友交的であるため、自分の地位があやういことを知っていたバッハは、この機会に自分の地歩を固めるため(中略)、ザクセン侯の宮廷作曲家の称号をたまわりたいと願い出た。この願いがききとどけられなかった」(120)バッハは、しかし1783年頃、つまり53歳頃になってようやく、「強力なザクセン侯の宮廷作曲家の肩書きを与えられたので、ライプツィヒ市当局や、その他今までかれと角突き合いをしていた人たちから、すっかり敬遠さ

れてしまい、その結果バッハはように」なった(134-5)。1747年プロイセン王フリードリヒ2世(大王)から招かれた時、バッハはすでに62歳になっていたが、ピアノを演奏し、「大王はバッハの妙技にすっかり感心し、ほめことばをつくしたとのことである」(141)。そして「バッハは帰郷後(中略)『音楽の捧げもの』(Musikalisches Opfer, BWV1079)」として大王に献呈した」(141)。その後3年後バッハは死んだが、その生涯からは次のことが言える。かれの音楽は宗教音楽であったため、宮廷との結びつきを強めたが、バッハの良心=近代的自我から、常に、幾度か、自己の良心に従って、適当な場所を探し求めていたことに、近代人としてのバッハを認識することができるだろう。

 次にモォツアルトを例にとる。解説にあたっては主としてフェリシアン・マルソー、マルセル・ブリュヴァル、石井宏訳『モーツアルト――音楽と旅の生涯』福武書店、1982年、および小林秀雄『モォツアルト・無情という事』新潮文庫、1967年、を参照し、年譜は同書の320~323ページを参照する。(石井- )(小林- )内の数字は同書のページ数である。モォツアルトは35歳の若さで死んだが、かれの生涯ほど栄光と悲惨さを兼ね備えた例はあるまい。モォツアルトは1756年ザルツブルクに生まれ、6歳の頃より作曲を始めたとされる(石井-320)。父親はさほど裕福でなかったらしく、幼少のモォツアルトにピアノの手ほどきをしつつ、息子を著名にしたいのと経済的な動機とから、各地を遍歴した。幼少の頃にモォツアルトは神童として謳われもした。1778年(22歳)にはマンハイムで楽人の知遇を得たものの、神童としての名は消え、就職運動も思うようにはいかず、家庭教師で日々をしのいだとされる(石井-321)。翌年、宮廷オルガニストになり、1784年には演奏活動を活発に行って大成功を収めた(石井-324)。これでモォツアルトの生活は安定したかにみえたが、「彼にとって生活の独立とは、気紛れな註文を、次から次へと凡そ無造作に引受けては、あらゆる日常生活の偶然事に殆ど無抵抗に屈服し、その日暮らしをする事であった」(小林-25ページ)。モォツアルト、32歳の時、「当時の風潮に従い、音楽家としての最大の成功を歌劇に賭けた」(小林-46)ものとして、ウィーンで「ドン・ジョヴァンニ」を上演したものの、たいして評判にはならなかった(石井-322)。音楽家として経済的自立を望めば望むほど、モォツアルトは窮乏を味わなければならなかった。翌年、ヴィルヘルム2世より弦楽四重奏曲とピアノソナタの注文を受け、またヨーゼフ2世の注文で「コシ・ファン・トウッテ」の作曲にとりかかった。因みに、この年には、隣国フランスで革命が勃発した。こうした作品は、小林氏によれば、「世間の愚劣な偶然な或は不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったものだ」(小林-52)。本当にそうかもしれぬ。

 フランス革命の翌年、オーストリアではレオポルト2世が即位した。モォツアルトは経済的安定を図るため、第二宮廷楽長と皇族たちのピアノ教師就任を望んだが、果たされず、生活はますます困難となった。そして1791年、経済的困窮が甚だしいなかで、「レクイエム」作曲の途中に死んだ(石井-323)。本来であるならば、モォツアルトはフランス革命後にも属することになるが、バッハとあまりにも生涯が好対照であるため、掲げることにした。モォツアルトの音楽は、他人の御機嫌を窺ったり他人におべっかを使ったりするものではない。あくまで自分の捉えどころのない良心に従った。それがために、モォツアルトにはみえなかったかもしれないが、実際には「音楽家中の最大のリアリスト」(小林-49)と呼んでも、」何ら不思議ではないのである。こういう片鱗があったため、モォツアルトは意に反して窮乏に陥ったといえるのだ。

 この際、忘れてはならない特筆するべきこととして、「諸侯の恩恵」に浴さなかった人々、あるいはそれを拒んだ人々の問題がある。ここではレッシングとヴィンケルマンを考えてみよう。上山安敏氏によれば、ドイツの著作家のなかで「長い間の著作の印税で食っていけた最初の著作家はレッシングである。」同『法社会史』みすず書房、1973年、268ページ。吹田順助氏によれば、このようなレッシングこそ「ドイツ近代精神の不滅の導師」と位置づけられる。同『啓蒙思潮――ヒューマニズムの一形態としての』玄理社、1946年、147ページ。さらに吹田氏によれば、レッシングは「社会意識、階級意識に覚醒し、市民階級、小市民階級の要求と権利とを代弁し」、「反教会的態度のために、彼は幾多の迫害と困難とに遭遇っしなければならなかった。」同、前掲書、149-50ページ。

 またフランツ・メーリング(Franz Mehring, Die Ressing-Legende, Gesammelte Schriften, Bd., 9, Dietz Verlag, Berlin, 1963. 小森潔・戸谷修・富田弘訳『レッシング伝説 第1部』風媒社、1968年、298ページ)によれば、ヴィンケルマンは知人に「プロイセンの専制主義と民衆の収奪者」とを語り、レッシングと同様の道を歩むことになった。

20. Aris, ibid., p.36.

21. G.P.Gooch, Germany And The French Revolution, Frank Cass, 1965, p.4.

22. Gooch, ibid., p.5.

23. Gooch, ibid., p.5.

24. I. Kant, Beantwortung der Frage ‘Was ist Aufkraerung’, 篠田英雄訳『啓蒙とは何か 他四編』岩波文庫、1974年、10ページ。

25. Kant, ibid., 篠田英雄訳、15ページ。

26. I.Kant, Kritik der reinen Vernunft 1781,(2aufl.1787) 高峯一愚訳『純粋理性批判』、『世界の大思想10』河出書房新社、1970年、36ページ。

27. Gooch, ibid., p.11.

28. Gooch, ibid., p.10.

29..Gooch, ibid., p.34.  この発言に先立つ3年前、シラーは『群盗』を著し、そのなかでカァル・フォン・モォルの口を借りて、こう言っている。「ドイツの国は共和国となれ、ローマもスパルタも、その前に出ては尼寺同然の姿となれ。」 シラー、久保栄訳『群盗』岩波文庫、1972年、20ページ。

30. Gooch, ibid., p.22.

31. Gooch, ibid., p.28. このようなヴェックルリとならんで、その前に活躍したシューバルトを揚げておいた方がいいかも知れぬ。グーチ(Gooch, ibid., p.27.) によれば、シューバルトの名声は「彼の論評や詩作と同様にかれの15年間の牢獄生活に負うところが多い」と述べ、「かれの雑誌『ドイツ年代記(Deutsche Chronik)』の主要な目的は強烈な国家主義を説くことであったが、かれはまた、同様の熱意をもって内政改革の要求をも喚起しようと努めたのであった」。このためシューバルトは監禁されたのであった。(Gooch, ibid., p.28.)そのほか、以下の文献を参照。上山安敏、前掲書、257ページ、望田幸男「18世紀ドイツの思想」、『岩波講座・世界歴史』17、近代4「近代世界の展開I」所収。

32. Gooch, ibid., p.38.

33. Gooch, ibid., p.38.

34. 遅塚忠躬、「市民社会の成立」、井上幸治編『世界各国史2 フランス史(新版)』山川出版、1966年、268ページ。

35. 遅塚忠躬、前掲論文、268ページ。

36. 遅塚忠躬、前掲論文、269-70ページ。

37. Gooch, ibid., p.17-8.

38. Gooch, ibid., p.18.

39. Aris, ibid., p.48.

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