5.国家体制の変更とその可能性
国家はやがて消失していくものだと説かれていたが、当時、フィヒテの視座では、これまでの国家制度はどう捉えられていたのだろうか。フィヒテはいう。「人は実際、今日の諸国家の体制とこれまでの歴史が知っているすべての国家体制のあり方から、それらの国家体制の形成は、ある知的な冷静な協議としたことではなく、偶然あるいは暴力的な抑圧の投げやりな仕事であったことを知っている。それらの国家体制はすべて、それらを憎ませるために、ある不敬の言をまねることが許されているとするなら、強者の権利に基づいている。」(1) これまでの国家体制の形成はなんら理性的な仕方ではなく、偶然的・暴力的な仕方で、強者が一方的に弱者を略奪し自分の欲しいままに支配してきた、とフィヒテに理解されていた、といってよい。これまでの国家は、人々の期待にそうものではなく、反対に裏切り続けてきた。このような強者の権利に由来する国家は、フィヒテの視座では、嫌悪され否定されるのも当然のことだ。かかる権利に由来する国家とは、ヘルダーも忌み嫌った「世襲的統治」(2)、すなわち専制主義国家であったといってよい。かかる人民を抑圧し搾取する国家は、決定的に拒否される。というのも「持続的なものと解かされるわれわれの意志、われわれの意志が立法者なのであってどんな他のものでもない。他の立法者はありえない。どんな他の人の意志もわれわれにとって法ではない。」(3)という個人の強い意志を前提にして国家が?まえられていたからである。ここでいう「われわれ(・・・・)の意志」が、具体的にいかなる階層を意味していたかは、追って明らかにされるであろう。
ここでは取り敢えず、フィヒテの視座における次の点を確認したい。すなわち、立法者が各個人であり、また立法が「われわれの意志」に基づいているということ、国家体制の変更となるその可能性もまた「われわれの意志」のなかにあるということ。この立論を支えていた思想こそ、フィヒテが近代自然法から継承してきた契約理論であった。フィヒテはいう。「人間は、その人が欲するや否や、直ちに、自分の諸契約のいずれも、たとえ一方的であろうとも、破棄するということは、人間の譲り渡すわけにはいかない権利である。いずれかの契約が取り消し不可能であり、また永久に有効であることは、人間性そのものの権利に対する最もひどい違反である。」(4)ここでも、フィヒテはルソーの忠実な後継者(5)として、いかなる契約も永久に有効ではなく、破棄することができる、としている。したがって、国家との契約も、国家が権利主体としての個人の《人間性》を束縛しふみにじるものであるなら、この国家との契約を破棄できる権利を、人間各自は持っていることになる。(6)
このようなフィヒテの視座では、国家体制の変更とその可能性は必然であった。「いかなる国家体制も変更を許さないものではなく、国家体制がすべて変化するということは、その本性のうちに存在するからである。あらゆる国家結合の必然的な究極的目的に逆らうところの悪い国家体制は変更されねばならない。その究極目的を促進するところのよい国家体制は自ら変更する。前者は、光も暖かさも与えないで朽ちた切株のなかの火であり、それは水をかけて消されねばならない。後者は、それが光を放つ程に、それ自身によって自らを食いつくす蝋燭であって、夜があけたら燃えつきて消えるであろう。」(7) ここでいっている「あらゆる国家結合の必然的な究極目的に逆らうところの悪い国家体制」とは、例えばフィヒテの考えるところでは、「すべての君主国家において、富の不平な分配や、また、何も持たない人間大衆のそばに存在するわずかな少数者の巨大な富に対して苦情があるとするならば、この徴候は君たちにとってこの国家の現憲法を怪しいとみていい」(8)という、国家体制のことだ。かかる国家体制は、フィヒテの考えるところでは、決して容認されるべき国家ではなく、変更されなければならない国家であったのである。
現代のフィヒテ研究者ブールは、フィヒテのかかる視座をこう述べている。「革命の権利はフィヒテにあっては、彼によって確定された国家の諸目標及び諸目的から理論的に結論として生じる。もう一つの国家が、個人を人間性(フマニテート)と自由へ促進するという国家の目標及び目的に矛盾するならば、そのことによってその国家は同時に道徳的法則にも対立するのであって、その場合には国家体制の変革が必然的である」(9)と。
ブールのこのような見解を、フィヒテに即して「個人を人間性と自由へ促進する」ためには、どういうことが要求されるかを、ここで考えてみよう。
第一、人間が生まれながらにしてもっている権利いわゆる自然権、つまり「人間の身体に適合する滋養の諸力回復に必要な量、気候に適合する衣類、及び健康に適する一定の住宅」(10)を必要とする、人間各自にとって最も最低限の、今日でいう生存権の問題。
第二、かかる生存権を基盤として、生存権を貫徹するためにも「働かざる者は食うべからず」(11)という、労働権の問題。
第三、「各自は必要不可欠のものを持たねばならない」(12)という所有権=財産権の問題。この所有権の問題については、ルソーは成程『社会契約論』で次のように述べていた。「各構成員の身体と財産を、共同の力ですべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」(13)、また、「社会契約によって、各人が譲り渡す能力、財産、自由はすべて、ただ、その使用が共同体にとって不可欠な全体の部分にかぎられる、ということは認められている。けれども、それだけが不可欠を決定するのは主権者のみである、ということもまた認めねばならぬ」(14)こと。ルソーのかかる思想に感激し、晩年のルソーとその邂逅により急展開をとげたロベスピェールは、1792年、こう述べた。「我々は権利の平等を望んでいる。この平等がないならば、自由も社会的幸福も存在しないからである。財産については、ひとたび社会が労働によって、構成員に必要品と食料を確保する義務を果たしたならば、富福が腐敗させなかった市民はなく、また富裕を望むのは自由の友ではない。(中略)かくもおびただしい腐敗に導く富は、それを持つものにとって、それをうばわれたものにとってよりもはるかに有害である」(15)と。このロベスピェールの主張を念頭に入れてフィヒテの文章に注目してみよう。「財産権に干渉することをしないで、財のよい平等な分配をおこなうことで、困難な問題の解決を君たちはみい出すことができえないのではなかろうか。」(16) かかる主張を読む時、フィヒテの立場がロベスピェールの立場に近かったことがわかる。(17)
国家体制を変革する権利に関するフィヒテの立論を支えていたのは、ルソー、ロベスピェールらによって主張された、人間の自由と平等の諸権利、すなわち「自然権」「生存権」「労働権」「所有権」等であった。これらの諸権利を無視している国家体制は、変更されなければならなかった。この際、忘れてはならない重要なことは、かかる国家体制は明白に「われわれの意志」によって<下から>変革されなければならない、ということである(18)。ここで、次のような問題が生じる。つまり、「われわれ(・・・・)の意志」の<われわれ>はどの階層を指すのか、という問題だ。この問いに対し、こう答えることができるだろう。フィヒテにおいてはロベスピェールの視座と同じく、「民主主義的小市民層の利害を、さらにはそれを超えて、彼の出身階層であった平民的―農民的諸階層」(19)のことであると。この意味で、レーベルクが土地所有者=貴族、富裕な商人層のなかにしか「市民」をみい出しえなかったことと、鋭く対決していたのだ。
この意味で、フィヒテの『フランス革命論』は「革命一般の、したがってまた、あらゆる個々の革命の正当性についての研究」でもあり、その正当性を「一国民がその国家体制を変革する権利は譲り渡すわけにはいかない、失うわけにはいかない人間の権利」(20)においていることを論証するものであった。いうまでもなく、フィヒテは『フランス革命論』を通じて、フランスの民衆=市民=国民の<下から>の政治的行為を正当に評価するものであったのである。
註
1.Fichte, ibid., S.45
2.本論第3章第2節。フィヒテのいう「強者の権利」は、ヘルダーにおいても捉えられていた。このような視座をルソーはいち早く見ぬいていた。Rousseau, ibid., p.55. 桑原武夫・前川貞次郎訳、15ページ。
3.Fichte, ibid., S.47.
4.Fichte. ibid., S.121. このようなフィヒテの視座は無政府状態に通じる、とブールはいう。「もし各個人が個人としてすでに国家転覆の権利を自然権として彼自身のものとよびうるとすれば、当然の結論として、どの反革命者もまたそういう権利を所有しているからである。そうなれば、革命的ブルジョアジーが封建的―教権的諸制度に反対する彼らの闘争において、こういう自然権を引き合いに出したのと同様に、地下コーブレンツ(の亡命貴族ども)も国民会議および総じてフランスにおける革命的運動に反対するその諸策勤において、この自然権を引き合いに出すことができることになりかねまい。」Buhr, ibid., 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、66-7ページ。もっともな意見だ。かかるフィヒテの捉え方は、後述のロベスピェールの視座と同様な帰結をもたらすことになるであろう。註19参照。
5.「ここでも」と、本文でいったのは、権利主体としての自我の形成は、おそらくルソーを抜きにしては考えられないからだ。次のルソーの主張に注目せよ。「自分の自由の放棄、それは人間たる資格、人類の権利ならびに義務をさえ放棄することである。何びとにせよ、すべてを放棄する人には、どんなつぐないも与えられない。こうした放棄は、人間の本性と相いれない。そして、意志から自由をまったくうばい去ることは、おこないから道徳性を全くうばい去るこのである。」Rousseau, ibid., p.61. 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、31ページ。
6.このことを裏返しにいえば、ルソーのいっている通りのものになる。「もし人民が服従することを簡単に約束すれば、この行為によって〔主権者としての〕人民は解消し、人民としての資格をうしなうのである。」Rousseau, ibid., p.79.藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、43ページ。
7.Fichte, ibid., S.68.
8.Ficte, ibid., S.144.
9.Buhr, ibid. 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、65ページ。
10.Fichte, ibid., S.149.
11.Fichte, ibid., S.150.
12.Fichte, ibid., S.151.
13.Rousseau, ibid., p.66. 桑原武夫・前川貞次郎訳、28ページ。
14.Rousseau, ibid., p.86. 桑原武夫・前川貞次郎訳、49ページ。
15.井上幸治『ロベスピェールとフランス革命』誠文堂新光社、1981年、84ページ。尚、J.M.Thompson, Robespierre and the French Revolution. the English Universities Press Ltd. London. 1952. 樋口謹一訳『ロベスピェールとフランス革命』岩波新書、1981年、に次のように記されている。「王権をくつがえしただけでは充分ではない。我々の関心事は、その廃墟の上に神聖な平等、そしておかすことのできぬ人権をきずくことである。共和国を構成するのは、空虚な名ではなく、その市民の性格である。共和国の魂は徳――すなわち祖国への愛、すべての個人的な利害さ、社会全体としての利害のうちに解消する高潔な献身――である。」(62ページ) また、河野健二『フランス革命小史』岩波新書、1982年、には以下のように記されている。「王権は絶滅され、貴族と僧侶は消滅し、平等の支配がはじまる。」「共通の敵が倒された今日、愛国者の名のもとに混同されていた人々は、必然的に二つのクラスにわかれる。今日まで、かれらの革命的熱意をかりたててきた動機の性質に応じて、一方は自分たち自身のために共和国を作ろうとし、他方は人民のためにそれをなそうとしている。」(131ページ) ロベスピェールが選択したのは、いうまでもなく、ルソーの忠実な後継者として後者であった。
16.Fichte, ibid., S.144.
17.ブールは、フィヒテの革命権はロベスピェールの近くにたっていたとみている。「恩?を受けた人々(貴族と僧侶)が諸契約の正当な解約予告に反対するとしたらどうなるのか? ここでフィヒテは、革命という現象を取り扱うあらゆる理論の最も決定的な問題、すなわち革命的強力の使用はどうかという問題に解答することになる。フィヒテはその解答でもって、彼とロベスピェールの両者に共通の精神的祖先であるルソーに対してよりも、ロベスピェールのほうに近くたっているのである。」Buhr, ibid. 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、72-3ページ。
18.カントの立場は、フィヒテとは全く逆であった。詳しくは、次章で検討するが、カントの立場とはこうであった。「従属者たる国民が、彼らの不満を行動によって表示するために、最高の立法権力に対して起こすところのいっさいの暴動は、公共体において最高の刑罰に値する犯罪である。」Kant, Ueber den Gemeinspruch. Das mag in der Theorie richtig, taught aber nicht fuer die Praxis, in Kleine Schriften zur Geschichte, 1964. S.97. 篠田英雄訳「理論と実践」、『啓蒙とは何か』岩波文庫、1974年、159ページ。
19.Buhr, ibid. 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、4ページ。この点でも、フィヒテはロベスピェールの立場に立っていたといえよう。したがって、ロベスピェールの観念性、ユートピア性は、そのままフィヒテにも当てはまることになるだろう。ここで、ロベスピェールの観念性、ユートピア性について、井上孝治氏の前掲書においてみることにしよう。「ロベスピェールにおいて、(中略)貧しいものとは、なにものも人に負うことなく、自己の労働で生活するものである。この考え方は、一方において小生産者の独立自営という社会的基準であると同時に、(中略)公徳は清貧者とともにあるという論理的基準をなしていた。富の過剰こそ悪徳、専制の源であり、自由と平等の敵である。ここにおいて、富の巨大集中は道徳的に否定される。それならば所有を政治権力をもって平等化すべきであるか。いな、土地均分法はばかげたかかしで、所有の平等などは不可能であり、それは空想的な共同社会の構想にすぎない。私的所有はあくまで確立されなければならない。」(85ページ)「師(ルソー―引用者)も弟子(ロベスピェール―引用者)もひとつの社会理想を描きだす。――だれも家族を養うに足りる土地を持ち、あるいは小作業場、店舗を持って、自由に生産し、対等者と自由に生産物を交換しながら、独立自営の生活を営むことである。そこにおいて、人間は勤労を愛し、禁欲的・道徳的である。なにびとにも搾取・支配されず、なにびとをも搾取・支配しない。そこにおいてありあまる富の集中と悪徳はない。ここにはじめて小生産者の家父長制幸福が実現されるのであろう。師と弟子はこのようなユートピアを念頭においていた。それでは、このような小生産者の社会を実現することは、可能であったのだろうか。」(86ページ)「ルソーとロベスピェールの思想は、民衆の胸に訴え、彼らの夢(資本主義の発展法則によって、都市・農村には近代的分解が深化していく過程で小手工業者・農民らが独立自営の生活を営むことは困難であり、したがって、大生産と大資本との競争、封建的束縛によって、日一日と没落してゆく小生産者は自由な生産と交換の行われる社会を夢に描くこと―引用者)をのせるのだった。――しかし、ここで反省しておかなければならない。師と弟子の社会思想は、封建的な社会関係の支配するアンシャン・レジームに対する、もっとも強力な武器だったが、この社会理想は自由な生産と交換という法則だけでは行われても、資本主義のさらに多くの法則をしめだしていたのである。師も弟子も、未熟な市民社会に身をおき(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、資本主義発展の非常な論理をつかみえなかったし(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、市民社会というものの完成した姿をとらえ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、そこから思惟の材料をとりだすこともできなかっ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)た。彼らの観念性、ユートピア性を銘記しなければならない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」(傍点は引用者、88ページ) 尚、トムソンによれば、「何故ロベスピェールのプランは失敗したか」と問い、その理由の一つとしてロベスピェールが早く生まれすぎたこと、第二に1789年の革命が小資本家、小地主の新階級を創設しながらも、彼らの利害は革命前の貴族やブルジョアジーの利害と全く同じ保守的であったことを述べている。Thompson, ibid. 樋口謹一訳、196-7ページ。トムソンの見解はロベスピェールに好意的であり、ロベスピェールに責めを帰すよりも小生産者の革命的深化のなかで保守的性格を強めていったことをあげているが、この見解と同時に井上幸治氏の見解をも忘れてはならない。
ブールは、フィヒテの『フランス革命論』後、1800年の『封鎖商業国家論』を通してフィヒテとロベスピェールとの共通点と分離点とを指摘している。ブールによれば、フィヒテとロベスピェールとの分離点、つまり区別されるべき点として、「ロベスピェールとジャコバン派にあっては、実際の政治であったところのもの、すなわち、部分的には論理からきているが(共和主義的市民道徳の貫徹)、圧倒的部分においては現実政治的必要であったところのもの(国民の救済、最高価格)が、フィヒテにあってはもっぱら理論、つまり道徳的理論(・・・・・)(道徳法則の邪魔ものを取り払うこと)である。――これが区別点である」と述べ、「共通点のほうはといえば、フィヒテとロベスピェールの両者とも挫折した――彼らの時代においては市民社会の諸矛盾は止揚不可能であったために挫折した、という点である。両者は、成立しつつある市民社会において、『恥しらずな儲け』(マルクス)を自由に解き放つことではなくて、社会的共同生活の理想形態(・・・・)を追求した。しかしながら、そうすることによって、両者は彼らの歴史的時間の諸可能性を飛び越えたのである。歴史がその判決を下さねばならなかった。そして、歴史はその判決をつぎのように下したのである。すなわち、ロベスピェールは、彼とその仲間の戦士たちが止揚する能力をもっていなかったし、事実はまた止揚することができなかった社会的実践の諸矛盾にぶつかって砕けたのであり、そしてフィヒテは、彼の理論が彼の時代の社会においては、またおよそどんな社会においても実行不可能――社会の発展諸傾向は彼の理論と矛盾していたし、またつねに矛盾するであろう――なために敗れたのである、と。」(105ページ)
ブールの言っているフィヒテとロベスピェールとの共通点は、先に紹介した井上氏のロベスピェールの観念性、ユートピア性と変わるものではない。つまり二人とも、成立しつつある市民社会において、その理想形態(・・・・)―観念性、ユートピア性を追及し、ロベスピェールは社会的実践によって立ちはだかる諸矛盾の前に砕け、フィヒテは社会の発展諸傾向(井上氏のいうところの、資本主義発展の非常な理論)が自分の理論と矛盾することによって敗北した、と。成程もっともな意見であり、いかんともし難い意見でもある。そうであるにもかかわらず、1792-3年の歴史的・社会的状況において、ブールの言っているフィヒテとロベスピェールとの共通点が敗北に終わった、という点ばかりでなく、ブール自身が認めているように「フィヒテもロベスピェールも、市民社会の内側で市民たちすべての釣り合いのとれた資産平等が樹立されるという想定から出発する。いやそれどころか二人はその点にこそまさしく新しい社会の意義を見ている」(Buhr, ibid. 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、85ページ)ことが重要であり、ロベスピェールと同じように、「フィヒテは小市民階層のイデオロギーとして当然、労働の権利の実現を始めて可能にするところの前提を財産のうちに見ている」(Buhr, ibid. 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、93ページ)のである。仮にブールのいっているように、資産の比例的平等―理想形態、観念性、ユートピア性が《幼想》であったにせよ(Buhr, ibid. 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、85ページ)、両者とも、早くも1792-3年にかかる地平にまで達していたことこそ、特筆されなければならぬ。この意味で、フィヒテのユートピアについて語ったフィルムスの意見は傾聴に値する。「フィヒテの思想では、ユートピアは偶然のものではない。それはフィヒテが、自分の出発点で描きながら調停できなかった根本的分裂(資産の比例的平等と資本家的生産―引用者)を、せめてユートピアという形ででもふたたび一致させようと、組み入れずにはおれなかったものだったのである。しかし市民社会では自由の現実のあり方はその分裂と結びついている。フィヒテは、自分の自由の原点に分裂をおいた点では、きわめて積極的な意味で、革命的上昇をとげる近代市民社会の理想化として立ち現われる。非弁証法的止揚を試み、分裂を一致にまとめようとする点(ヴィルムスはフィヒテの理論を<ねばならない、はずである。だろう…それはそうなるはずである。そうなろう、そうならねばならない>という未来への抽象的な歴史理論と規定している―引用者)では、フィヒテは消極的な意味で市民社会の理論家となる。市民社会を超え出るこの試みがユートピアになり、そこではその内容であり要求であるあの自由が失われるからである。」Willms, ibid. 青山政雄・田村一郎訳、58-9ページ。ヴィルムスはまた、こうもいっている。「フィヒテの出発点は、現にある諸状況への反抗であり、したがって一定の社会的利害との一致である。ここに歴史的資格があるのであり、フィヒテのこの革命的反抗は、まさに発展する社会と、具体的歴史的に位置づけられたものとしての社会についての自覚との一致という形で描かれてきた。」Willms, ibid. 青山政雄・田村一郎訳、63ページ。この限りで、ヴィルムスは正しい。続けて、ヴィルムスはいう。「彼はある状況の変革をめざしているのだから、なんらかの実定法から出発するわけにはいかない。さしあたり彼は、社会の権利を抽象的に主張できるだけである。」Willms, ibid. 青山政雄・田村一郎訳、63ページ。フィヒテの主張が、仮に抽象的であったにせよ、そのために非弁証法的試みに終わったにもかかわらず、1792-3年にはそれなりの意義を持ちえていたのである。尚、ブールがフィヒテとロベスピェールを区別していた点、前者を道徳的理論、後者を現実的政治的必要と区別していたが、これには大きな意義がないように思われる。
20.Fichte, ibid. S.70.
(Copyright©2012 ISHIZUKA Masahide All Rights Reserved.)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study554:120904〕