フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(15)

6.結語 フィヒテの「フランス革命論」の展望

 1800年代のフィヒテは、ナポレオン台頭のもとにプロイセンを地盤として、著しい愛国主義者(・・・・・)いとしてナショナリズムを展開していくことになるが、1793年のフィヒテは、ナショナルなものを、ドイツではなくフランス革命におけるフランス「国民」のなかにみていたといえる。もっと厳密にいうと、「国民」概念は「国家」に対応するものであるから、当時のフィヒテの視座では、国家、つまり専制主義国家はやがて消失していくものと捉えられていたから、いわゆるナショナリズムはまだ形成されていなかった、といったほうが適切かも知れぬ。フィヒテは、『フランス革命論』で次のように言う。「人類はただ一つの究極目的をもつに違いなく、もつべきであり、もつであろう。そして、その究極目的を達成するために、いろいろな人びとが自分に懐くいろいろな目的は、互いに相容れるだけでなく、互いに平易しあい、支援しあいするだろう。(中略)それはたんに一つの甘い夢ではなく、たんに人を欺く希望ではない。確実な根拠は人類の必然的進歩に基づいている。――人類はこの目標にますます近づくべきであり、近づくであろうし、近づかずにはおかないのである。」(1) 同じ1793年、フィヒテの師カントはこう書いた。「人類は全体として実に我々の時代になってから、以前のあらゆる時代にくらべてみても、道徳的にいっそう大なる善に向かって格段の進歩を遂げた。」(2) この時期のフィヒテは、師カントが優れた啓蒙主義者であったように、自らもそうであったのだ。この意味で、「一人の人間として、世界の一市民として、一人のヨーロッパ人として、一人のドイツ人として、一人のフランス人として」(3)、<下からの革命>を達成すべく、マインツで蜂起したフォルスターと、基本的には性格を同じくするものであったといえるのだ。

 最後に、1793年の『フランス革命論』以降のフィヒテの手紙を2通紹介して、本節を締め括ることにしよう。

 その一つ、1795年の手紙。「私の体系は最初の自由の体系です。あの国民〔フランス国民〕が人間の政治的な枷を粉砕したように、私の体系は理論において人間をもろもろの物自体の、およびその影響の鎖から解放します。……そして人間に私の体系が伝える崇高な気分によって、――実践においてもまた自己を解放する力を与えます。私の体系はフランス国民の自由のための闘争の幾年間のあいだに、古く根を下ろしていた偏見との、初期の自分の内的な戦いを通して成立したのです。フランス国民の力の姿は、私がそのために(『フランス革命論』以降の、いわゆる『知識学』―引用者)必要としていたエネルギーを、私に伝えてくれました。そして、フランス革命がその上に打ちたてられている諸原則を探求し擁護しているあいだに、私の中で体系の最初の諸原則が明晰になる程発展したのです。私の体系は、したがって、すでに内面的に私の意識以前に、あの国民に属するべきものです。」(4) フィヒテの学の体系の成立は、革命を導いたフランス「国民」のなかに、換言するならばフランス革命の政治的原理に依拠していることを、フィヒテはためらうことなく謙虚に告白していた。

 その二つ、1799年の手紙であり、時期的にも重要な手紙である。「理性的ではなく人間ならばなんびとにあっても議論の余地はありえないように、フランス共和国と、そしてこの手本にならって形成された諸共和国とが基づいている諸原理こそ、人類の尊厳がそれで存立している唯一の諸原理であります。(中略)フランス共和国だけが正しい人間の祖国でありうるのです。そして彼、正しい人間はただフランス共和国にだけ自分の尽力をささげうるのです。(中略)私はこれによって自分を、自分ができるいっさいとともに厳粛に共和国の手中にゆだねるのであります。それは、共和国で利益を得るためにではなく、自分にできるならば共和国に役立つためであります。」(5) この手紙が書かれた1799年、27歳のノヴァーリスは、『基督教世界或は欧羅巴』を書きあげた。この著作は、「それは同人たちの支持を得られないで遺稿となってしまった」(6)が、そうであったにもかかわらず、この著作に顕われているノヴァーリスの思考は、同時代のメーザー、レーベルク、ゲンツとならんで、1800年代のドイツ保守主義思想の前ぶれをなしていた。

 これに反して、1799年のフィヒテの信念は、基本的には(・・・・・)1793年のときと変わっていなかったことに気がつく。つまり、フランス革命を正当に評価していることである(7)。保守主義思想が1800年代のドイツで一つの主流を占めていくなかで、フィヒテは1793年の政治的信念を持ち続けていたのだ。この意味で、先に掲げた手紙は重要な意味をもってくるのである。フィヒテの1800年代の思想は、かかる保守主義的ナショナリズムと対峠していくことになるのである(8)。

1.Fichte, ibid., S.67.

2.Kant, ibid., S.108. 篠田英雄訳、178ページ。

3.Gooch, ibid., p.34

4.Fichte, ibid., S.XLⅢ.

5.Buhr, ibid. 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、117ページ。

6.竹原良之「ドイツの保守主義」、半沢孝麿・三辺博之・安世舟『近代政治思想史(3)保守と伝統の政治思想』有斐閣新書、1978年、148ページ。

7.ブールはこういう。「1793年には大体において極端な自由主義的見解の代表者として現われるフィヒテが、1800年には同様に極端な――しかしながら今度は国家主義的な思想の代表者として現れるのである」と述べながらも、「フィヒテのこの『転向』は偶然ではない。この転向は、資本主義上昇期における小市民的諸階層の理論家たちの国家法論上の思考にとって――この思考だけにとってではないのだが――特徴的であるところの、一つの見解を前提にしている。根底にある問題性は、ルソーの著作を貫通しており、国民議会の論争においてひとつの重要な役割を演じ、そして最後に、フィヒテによって新たに反省の中へ引き入れられる」と。ibid. 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、90ページ。1800年代のフィヒテについては、この論文の領域外に属するので言及はさしひかえるが、一言だけ言わせてもらうと、大体のところ、ブールの言っていることは正しい。尚、ブールはこうも言っている。「1793年にはいくぶんそうだったようには、もはや革命権を一人ひとりの個人に認めようとはしない。けれどもフィヒテは、革命権は譲り渡すわけにはいかない、失うわけにいかない一個の人権である、というテーゼを固持する。このテーゼはフィヒテにとってはなんら抽象的な権利原則ではなくて、それは彼の法論において一つの最後度に実践的な意義を持っている」と。ibid.藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、97ページ。

8.南原繁、前掲書、例えば、314ページ。

著者追記 

 本章の叙述にあたり、最初ヴィルムスの前掲書、続いてブールの前掲書、特に後者から強烈な刺激を受けた。本文中のフィヒテ『フランス革命論』の引用文は、わが国のフィヒテ研究者のなかで最も頂点にいる南原繁氏、続いて青山政男、田村一郎、藤野渉、小栗嘉浩、福吉勝男の各氏によるところ大であった。ここに記して感謝したい。

編集者注記

 本シリーズは、編集者の都合により、論文の副題に記された人物中、カントとノヴァーリスの章を残して、本号(15)で分載を休止する。なお、本稿はすでに『社会思想史の窓』第137号(2004.08.20)、第138号(2004.11.20)、第139号(2005.02.20)、第141号(2005.04.20)、第149号(2006.09.20)、第150号(2006.10.20)、第151号(2006.11.20)および第152号(2006.12.20)に掲載されている。ついては以下のサイトを参照されたい。

http://www.geocities.jp/ishizukazemi/sisousia.html

Copyright©2012 ISHIZUKA Masahide All Rights Reserved.)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study556:120905〕