フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(10)

6.結語 ヘルダーの「ナショナリズム」の展望

 「ヘルダーが始めは18世紀啓蒙思潮の諸理想を擁護する典型的な、ほとんど型にはまった一人、つまり人道主義者、四海同胞主義者、平和主義者であったことは、誰もが認めているようだ。」(1)引用文中、「人道主義者、四海同胞主義者、平和主義者」について、順不同だが、考えてみる。

 ヘルダーの革命前の著作――主として『構想』において、彼が専制主義国家を擁護したその第一の理由は、その革新が戦争にあったと捉えていたことである。ヘルダーは徹底的に戦争を拒み、この意味で平和主義者であったといえる。この点は本節において改めてみることになるだろう。次に、「四海同胞主義」についてみると、『構想』において、各民族には優劣の区別がなく、それぞれ独自性をもち、平等に捉えられていたことがわかる。最後の「人道主義」についてみると、『構想』ではこう捉えられていた。「人間は過ちにおいても、真実においても、転倒においても、再起においても人間であり、実にか弱い幼児であるが、しかし実際自由の人間として生まれたのである。仮に尚、理性に欠如していても実によりよき理性に適するのである。仮に尚、形成が人間性に進んでいなくても、実に人間性へと形成され得る。」(2) 〈人間性〉への視座という観点で、ヘルダーは紛れもなく人文主義者であったのであり、この意味で、アリスがヘルダーを「啓蒙主義の子」(3)と位置づけていることはもっともなことだ。

 フランス革命後、ヘルダーは「より反動的な立場、理性と理知とを抑えて、それらをナショナリズム、フランス嫌い、直観、伝統の無批判な信仰に従属させる立場へと変わっていった、と想定されているようである」(4)とバーリンは述べている。この際、誤解を与えないためにいっておきたいが、バーリンはそのような見解に与していなかった。むしろここでバーリンの念頭にあったのは、ヘルダーを除いてその同時時代人たち、フィヒテ(5)、ゲレス、ノヴァーリス、シュレーゲル兄弟、シュライエルマッハ、ティーク、ゲンツ、シェリングらが「反動化・ロマン派的非合理主義者に変わっていった」(6)という事実にあったのだ。つまりバーリンが訴えたかったのは、ヘルダーの思想は生涯を通じて不変であったということだ。「始めに抱いていた特殊な(ユニヴァーサリズム、これとナショナリズムとが矛盾するか否かについて、彼は殆ど関心がなかった)を、あの長期にわたる厖大な知的活動の間を通じて放棄したり、修正したりすることはなかった」(7)ということである。私の考えによれば、ちょうどフィヒテにおいて、『フランス革命にかんする公衆の判断を是正するための寄与』(1793年)と『ドイツ国民に告ぐ』(1808年)とがコスモポリタニズムとナショナリズムという両輪として分かち難く結びついていたように、ヘルダーの場合も同様のことがいえるのである。このことは以下の本節で明らかにされる。

 本節で中心となるのは、ヘルダーのナショナリズムの諸性格とその展望を考察することである。そこでまず第一に考えられることは、ヘルダーが理想としていた国家がであったということである。

 ヘルダーは30歳の著作『異説』において、理想ともいえる国家をスケッチしている。「わずかばかりの人間たちの共和国のこともあった。人々は何でもじかに知っており、何でもこの身に感じ、だから人にも感じさせることができた。」(8) ヘルダーのスケッチは、古代史、特に古代ギリシヤのことが念頭にあったと推測される。ヘルダーがここで述べている国家は、身分制度を認め人民を搾取するような専制主義国家ではない。国家に関係する問題は全国民に関係する問題であり、全国民に関係する問題は国家の存亡にかかわる問題である。国家と全国民との関係は、親密的、家族的なものとして捉えられていたといえよう。後年の著作『構想』においても、このような見解が採られている。すなわち、「自然は家族を教育する。それ故に、最も自然的な国家とはまた唯一の国民的性格をもつ唯一の民族である。」(9) あるいは、「唯一の民族の統一国家は、家庭であり、秩序正しい世帯である。これは自己自身の基礎の上に立っている。なぜなら、それは自然によって建設され、存在し、ただ時とともに没落するにすぎない。」(10) ヘルダーのこのような見解によって明らかな彼の視座は次のものである。まず第一に、〈最も自然的な国家とはまた唯一の国民的性格をもつ唯一の民族である〉ということ、すなわち〈一民族一国家〉である。第二に、ヘルダーの望む国家は作為的な、上からの押しつけがましい国家でなく、家族のような自然的な国家である。後者についてバーリンは次のように述べている。「およそ人を支配するということは自然に反している。父と子、夫と妻、息子同士、兄弟、友人同士、人間同士、これらのものこそ真に人間らしい関係である。こういう関係こそ人びとを幸福にする。」(11) バーリンが主張していることは正しい。まぜなら、ヘルダーの視座の根底にあったのは、既に明らかにしておいたように、「人間性の理念(Humanitätsideal)」(12)があったからである。

 ところで、ヘルダーの視座で肝要なことは、現実および未来に期待した国家は、過去の時代や伝統的、復帰的なものに対する願望でなかったことである。「われわれがギリシャのポリスに戻ることは不可能である。実にあのポリスこそ、後世、侵略的ナショナリズム、盲目的愛国心に至るべき発展の第一段階であったかもしれない。それが歴史学、社会学から見て正しいかどうかは別として、のは明らかである。」(13、傍点引用者)  この意味で、この時代、伝統的・復帰的方向を目差したメーザー、現状維持を唱えたレーベルク、過去の時代への郷愁を感じ始めたノヴァーリスらの視座とは、根本的に異なっていたことを強調しておきたい。つまり、「彼(ヘルダー―引用者)の願うところは、人びとがどのような身分であれ、充実した生活を営み、自由に自己を表現し、『何者かになる』ことができるような社会を創造すること」(14)にあったといえよう。

 「何者かになる」ために自己を形成するという視座は、フランス革命後の著作『人間性を促進するための手紙』で、ナショナリズムのかたちではっきり読みとることができる。すなわち、「一民族のもっともよき文化は早急なものではない。そして私はいってもよい。それはもっぱら国民の独自的な地盤の上でのみ栄えるものだということを。」(15) この文脈において、ヘルダーのナショナリズムを支えていたのは、一民族一国家の視座とならんで、一民族の文化はその民族の独自的で固有な地盤の上でのみ形成される、という視座である。この際見過ごしてならないことは、後者つまり〈文化の形成〉の背後にあった背景である。第一に、一民族の文化が仮に緩慢であったにせよ、ヘルダーの視座では啓蒙主義の一つの特徴でもあった〈進歩〉の観念を「真の進歩や前進はさまざまな文化があって互いに同一尺度では比べられず、独自のやり方で発展する」(16)という仕方で捉えていたことである。第二には、そのような〈文化の形成〉の担い手は市民層であり、その〈下から〉の〈文化の形成〉こそが、ヘルダーのナショナリズムの背景をなしていたのだ。この意味において、一民族の文化の形成を、「上からの革命」(17)に期待したものでなかったといえるのである。また一民族の文化の形成というヘルダーのナショナリズムを、「文化的ナショナリズム」(18)と捉えることができる。このような意味において、ヘルダーが理想とした国家は文化国家であったことがわかるのである。

 ヘルダーのナショナリズムの第二の特徴は、平和的な性格を帯びていたことである。ヘルダーはある著作でこう叫んでいる。「ドイツ国民よ、目覚めよ。君らの神殿を汚しむるな」(19)と。この文書を読む者は、ヘルダーをウルトラ・ナショナリストと捉えるかもしれない。確かにヘルダーは「血族関係、社会的連帯、国民というまとまり(Volkstum)を認め」(20)はしたが、彼の視座では、「ドイツの使命は征服することではない。思想家と教育家より成る国民になることである。ここにドイツ人の真の栄光がある」(21)と捉えていたことを見過ごすべきではない。確かにヘルダーは、祖国ドイツの将来を真剣に考えていた。しかし、ヘルダーがこういっていることを見過ごすべきではない。「自分の国を自慢することは、自慢のなかで最も愚かなものである」(22)と。ここで強調しておきたいことは、ヘルダーのナショナリズムは政治的なものでなかったことだ。「仮に政治的ナショナリズムを唱えたところで、当時の世襲専制君主に支配された弱体の分裂国家ではあまりにも非現実的な考えで、そんなものを期待することさえ、歴史感覚欠如を示すもの」(23)という解釈も成り立つが、実際、ヘルダーは『ドイツ国民の栄光』のなかで、「ドイツの支配者たちがお互いに略奪したり強奪したりすることを嘆いて」(24)いたのであった。このような視座の貫徹こそ、ヘルダーの社会思想《ナショナリズム》の核心をなしているものであり、そのような視座を欠如してヘルダーの社会思想《ナショナリズム》を論じることは、それこそというものだ。

 「真の祖国はお互いに対抗し合うことはない。おのおのの祖国はお互いに平安に並存しお互いに家族として助け合うものである。血の戦いにおいて祖国が他の祖国に対することは、人間の言葉のかなで最も悪しき野蛮な語法である」(25)と、ヘルダーは『人間性を促進するためにの手紙』で述べている。各国家はお互いに憎み合い、侵略や強奪や戦争のごとき敵対関係にあるのではなく、平和的で友好的、家族的なものとして捉えられていた。「ヘルダーのナショナリズムは一つの強力な中央集権的な近代国家の観念とは関係をもたなかったという事実によって近代ナショナリズムとは根本的に区別される。この(ヘルダーの―引用者)ナショナリズムは、政治的なものであるというより、むしろ、いわば、精神的な倫理的なものであった。」(26) ここにいう近代ナショナリズムとは、ナポレオン台頭以後の国家権力の上層部と深く結びついた保守的・復古的ナショナリズム(27)、ドイツ歴史法学派ナショナリズム(28)のことをいうのであり、ヘルダーのそれとは根本的に異なっていた。それはアリスの述べるとおり、精神的、倫理的なものと捉えてよい(29)。また、ヘルダーのナショナリズムは、ドイツにだけ向けられたものでなく、各国家間に対等な、あるいは平等な関係を認めたものであった。ここでヘルダーのナショナリズムはユニヴァーサリズムと深くかかわっていたのである(30)。

 こうしたことから、ヘルダーの視座には他国を脅かすという視点は少しもなかった。「近代的な国民国家の理念の最初の道標にヘルダーの名を記す場合、この理想が彼においては、(中略)平和主義的な性格を帯びていたことを忘れてはならない。略奪によって成立した国家は、すべて彼の嫌悪の的であった。なぜなら、このような国家は、(中略)初期の門族の成長した国民文化を破壊したからである」(31)と指摘したマイネッケの主張は正しい。

 ヘルダーは、ドイツは一つの国民であるのかどうかという問題を提起した。すなわち、「ドイツの統一の問題はヘルダーの眼には政治的な問題ではなくて文化的な問題だった。私たちはこの信念を純真だと呼んでよいだろう。しかし私たちは国民国家のためのドイツ人の知的な準備が統一へと向かって第一歩がしるされたこと、そしてヘルダーが統一の問題の解決のために一つの考慮に値する貢献をなしたことを忘れてはならない。」(32) アリスはこのように述べて、ヘルダーを「最初のドイツのナショナリスト」(33)と捉えていた。その最初のドイツのナショナリストは、『人間性を促進するための手紙』後、個人雑誌『アドラステア』において、ある民族が強奪され略奪されながら、「虐げられている人びとが反撃に起ち、われわれの合言葉、われわれの手法、われわれの理想を用いて、われわれを押潰すであろう」(34)とも述べていた。

 ヘルダーのこのような一貫した社会思想は、フランス革命前の『構想』にも、次のように表現されていた。「われわれは野蛮人と呼ぶものについて多くの飾りなき記事を読むのであるが、(中略)人間のありさまもまたその状態において、(中略)形成されえるだけ十分に形成される」(35)と。ヘルダーは各民族の詩歌のなかに、各民族の個性、長所、美しさを等しくみていた。まことに、「あらゆる民族に、それだけの特殊形態にそれざおれ、というのが彼の思想の特徴」(36)だった。換言するならば、各民族間に対する徹底した平等観念が働いていたのである。したがって、あえて政治的にいうならば、「政治的にはヘルダーは一人の啓蒙主義的人文主義者そして平和主義者にとどまった」(37)といってよいだろう。

 その観点をふまえて、本節を締め括るにあたり、ヘルダーの社会思想《ナショナリズム》の展望をマイネッケに語ってもらおう。「独自な国民性の理想から人間性の理想へ飛躍し、同時に将来の平和なヨーロッパ民族の連盟と人道主義的なヨーロッパの普遍的精神に期待した。」(38)

1.バーリン、前掲書、299ページ。

2.Herder, Sämtliche Werke, XIII, S.147.

3.Aris, ibid., p33.

4.バーリン、前掲書、300ページ。

5.私は、本書第5節註9において、バーリンを引用したなかで、「ナポレオンのドイツ侵略戦争後のフィヒテのことをいっているのであろうか」とし、疑問の余地のあることを書いておいた。実際のところバーリンがどの程度フィヒテを認識していたかは定かではないが、フィヒテをゲレス、ノヴァーリス、シュレーゲル兄弟、シュライエルマッハ、ゲンツ、シェリングと同列に扱っていたかどうかは疑問の余地がある。なぜなら、フィヒテがナポレオンとプロイセンとの戦争において、「プロシャに対する愛国心」にもえ、また「フィヒテにおいて、国民は単に地上的な結合にとどまらずして、愛国心は永遠の神的愛、それ自ら神的像であり、(中略)それ自体、神的理念の永遠性のうちに保持されてある」としても、「フィヒテが最後の宗教的形而上学の展開によっても、なお且つ、ロマン主義のごとき神秘的『静寂主義』と、ひいて歴史的保守主義の傾向とは異なり、理想的『行動主義』の特質の維持せられる点である」からである。南原繁、前掲書、297~311ページ。

6.バーリン、前掲書、362ページ。

7.バーリン、前掲書、、301ページ。

8.Herder, Sämtliche Werke, V, S.554.

9.Herder, Sämtliche Werke, XIII, S.384.

10.Herder, Sämtliche Werke, XIV, S.52.

11.バーリン、前掲書、304ページ。

12.Friedrich Meinecke, Weltbürgertum und Nationalstaat. 矢田俊隆訳、39ページ。ここでマイネッケは、ヘルダーと啓蒙主義との関係がいかに緊密であったかを述べている。

13.バーリン、前掲書、343ページ。

14.バーリン、前掲書、343ページ。

15.Herder, Sämtliche Werke, XVII, S.59.

16.Berlin, ibid. 小池訳、362ページ。

17.植田敏郎「ヘルダーとフランス革命」、91ページ。なお、本論第5節註9において展開した私見を参照。

18.Hayes, ibid., p.29.

19.Herder, Sämtliche Werke, XVII, S.210. バーリン、前掲書、305ページ。

20.バーリン、前掲書、303ページ。

21.Herder, Sämtliche Werke, XVIII, SS.214-216. バーリン、前掲書、309ページ。

22.Herder, Sämtliche Werke, XVII, S.211. バーリン、前掲書、302ページ。

23.バーリン、前掲書、302ページ。

24.Zeydel, ibid., S.95.  Herder, Sämtliche Werke, XXIII, S.540. ツイデルは巻数を誤記している。なお、バーリンがヘルダーの視座をして「ヘルダーは権力を求めもしないし、自分の属する階級や文化や国民の優越を主張しようとも願わない」と述べたのは、まったく正しい。バーリン、前掲書、343ページ。

25.Herder, Sämtliche Werke, XIII, S.319.

26.Aris, ibid., p243. 

27.例えば、その典型的な例としてアダム・ミュラーをあげることができよう。カール・シュミット、大久保和郎訳『政治的ロマン主義』みすず書房、1975年、154ページ以下。カール・マンハイム、石川康子訳『ドイツにおける政治・歴史思想の生成に関する社会学的研究』、樺俊雄監修『マンハイム全集』第3巻、潮出版社、1976年、82ページ。

28.例えばザヴィニーである。シュミット、前掲書、217ページ。

 このような意味で、「プロシヤを中心として成立したドイツのナショナリズムの主流は、ヘルダーの流れを汲んだものではない」といえる。桑原武夫「近代ナショナリズム理解の試み」、『思想』第421号、1959年7月号、岩波書店、87ページ。

29.アリスはこうも述べている。「ヘルダーのナショナリズムは政治的なものよりも倫理的なものに価値をおき、国家に何らの信頼をもっていなかった(中略)形態であった」と。こうしたアリスの見解は、先に紹介したバーリン、マイネッケのみならずコーンも同じで、こう述べている。「ヘルダーにとって国民性とは、政治的なあるいは生物学的な概念ではなく、精神的な道徳的な概念であった。」Hans Kohn, Nationalism. Its meaning and History, published by Van Nostrand, 1955, p.31.

30.アリスによれば、「ヘルダーのナショナリズムは啓蒙主義のコスモポリタニズムと近代ナショナリズムとの連鎖である。」Aris, ibid., p244.

31.マイネッケ、菊盛英雄・麻生建訳、前掲書、131ページ。

32.Aris, ibid., p245.

33.Aris, ibid., p249.

34.Herder, Sämtliche Werke, XIII, SS.76-79.  バーリン、前掲書、308ページ。ここでバーリンは、ヘルダーの視座をマルクスに引きつけて読んでいる。同上、308ページ。

 なお、これと関連して、テーラーのいっていることも注目に値する。「ヘルダーが述べている民族(Volk)は、構成員ささえとなるある一定の文化の担い手である。構成員たちは、はなはだしい窮乏化という代償を払ってのみ孤立することができる。われわれはここで近代ナショナリズムの原点に立ち合おう。ヘルダーは各民族はそれ自身の特別な指導的主題、もしくは独得でかけがえのない表現様式をもっており、これは決して他の人々の様式をまねるどんな企てによっても簡単には置きかえられない(多くの教養のあるドイツ人がフランス人の哲学者たちをまねようと努力したように)、と考えた」と。テーラー、渡辺義雄訳『ヘーゲルと近代社会』岩波書店、1981年、3~4ページ。

 ヘルダーのこのような視座の影響は、「ヘルダーをスラブ人の運動の精神的父の一人として呼んだという事実によって説明されると、アリスは述べている。」Aris, ibid., p242. 植田敏郎「ヘルダーの国家観」666~7ページ。

35.Herder, Sämtliche Werke, XIII, S.325.

36.和辻哲郎、前掲論文、408ページ。

37.Kohn, ibid., p.31.

38.マイネッケ、前掲書、147ページ。植田氏の次のような観点を無視するべきではない。「ヘルダーは、ヨーロッパは、国民の独自の生長で、平和に一つの『国民連合』になると思っていた。ヘルダーはいわば今日のヨーロッパを予見していた、ともいえよう。」植田敏郎「ヘルダーの国家観」、668ページ。

 バーリンは、ヘルダーの社会思想を「ソローやプルードン、クロポトキンのアナーキズムに、ゲーテやフンボルトなど自由主義者が提唱した文化Bildung概念に近く、フィヒテ、ヘーゲルや政治的社会主義者の理想像から遠い」と述べている。バーリン、前掲書、344ページ。しかし、ヘルダーの社会思想をアナーキズムに近づけて読むことが可能であるかは疑問の余地がある。ただし、バーリンの次の主張は肯定できる。「ヘルダーの立場はラスキンやラムネーあるいはウイリアム・モリスの民衆重視の人びとやキリスト教社会主義者たちの、更に今日でいえば階級構造や権力やいかなる種類の民衆操作の影響力にも反対する人びとの見方により近い。彼は機械化や俗悪化に抗議する人びとと共に立ち、過去百年のナショナリストたち、穏健なものも過激なものも含めて、とは立場を異にする。自主自導をよしとする。」バーリン、前掲書、344ページ。バーリンの述べる「自主自導」こそが、今日でいう、民族の自主独立性のことである。この観点は、ヘルダーのナショナリズムの核心を成していたということを改めて確認しておきたい。

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