第4章 1793年のフィヒテ――フィヒテの「フランス革命論」
第1章、第2章において明らかにし、また、みてきたように、1790年代初頭のドイツの知的情況を展望するということは、とりもなおさず、ライン河を隔てた隣国フランスでの革命と呼応させて展開することと同じことだ、といっても差支えない。第2章において、ゲオルク・フォルスターがフランス革命の政治的原理に呼応し、政治的実践をしていった有様をみたが、ここでは、再び、1790年代初頭のドイツの知的情況を、アリスによって代弁してもらうことから始めていこう。おそらく、第1章でフランス革命後のドイツの知識人、青年層の反響を概観し、また、第2章ではフォルスターが政治的実践をしたときの周りの人たちの反応をみてきた関係上、しつこく、あるいは、くどく思われるかも知れないが、1790年代のドイツ社会思想をみるとき、前半期と後半期において、フランス革命に対応する仕方が違ってくる。この際、特に、いっておきたいことは、1790年代の末期において、フランス革命に対する見解が、消極的となり、1800年代に顕著になってくる「保守主義的思考」が胎動してくるが、この前兆をなしている思想が、実は、1790年代の初頭に、既に、現れてきていることだ。その意味において、再び、フランス革命後のドイツ人の反応をみることは、けっして意義のないことではないであろう。
アリスは次のように述べている。「多くの人々は、フランス革命が悪くなるかもしれないかも知れないが、少なくとも、フランス革命は全体的な政治組織がこの一つの変化をもたらすであろうという感情でフランス革命を歓迎した。革命は啓蒙主義の観念を満たしているように思われ、この観念をこれまで伝統的社会的秩序をあまり問題にしてこなかった多くの集団にまで拡げた。」(1) アリスのこの主張を、このまま文字通りに受け取ってよいのだろうか。第1章、および第2章で明らかにしたことだが、フランス革命を歓迎した層は、概していうと、まず第一に、新しい時代を渇望する青年層―その内訳は、まだ身分・地位が安定していなかった、血気にはやった学徒層(このなかには、フランス革命の理念を一生の問題として持ち続けた者もいれば、時期が来てこれから離脱していった者もいた)。第二に、作家・学識者を含めた知識人、思想的には、政治主義を信奉していった知識人層、および、政治的に、急進主義者たちであった。その反面、小市民、農民層に至っては、出版の干渉から来る世論の育成の未熟さ、そうした不活発さの故に、たいした見識をもっていなかったであろう、と思われる。
こうしたフランス革命を歓迎した層とは反対に、ここで問題になってくるのは、フランス革命を危険視した層だ。つまり、王室、貴族、およびそれに近い吏員層。なぜなら、この層こそ国家権力の中枢を握っていたのだがら。現にフランス革命の翌年、1790年、イギリスでエドモント・バークが『フランス革命についての諸反省』を著すや否や、その反フランス革命論の故に、つまり、人間の平等権を排撃し、身分上、あるいは、地位上の差別には、元元、必然性があると主張し、また、これまでの特権階級の財産は、神聖で、社会の福祉にとって不可欠の制度であることを主張し、また、現制度は、過去との連続を維持する必要と、変革にあたっては、徐々に、そして秩序の混乱を最小限にとめることを主張したために(2)、ドイツの王権=貴族層、また、それに近い吏員層から圧倒的に支持を受けることとなった。したがって、この層はフランス革命の動向を危惧しながら、自分たちの特権的地盤の維持に最大限の努力を払っていたのだ。その端的な例は、ドイツそのものはこの当時“分裂国家“としてあり、そのなかでもプロイセンが郡を抜いていたが、とはいうものの、神聖ローマ帝国の一員であり、神聖ローマ帝国の盟主はオーストリア皇帝であり、そのオーストリア皇帝レオポルド2世は1791年、「プロイセンと協定し、相共に協力してフランスの革命的勢力を威圧することによって、君主権の確立を計ろうと決心するに至った(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)(傍点部は引用者)(3)」ことだ。この結果、オーストリア・プロイセンのフランス革命政府への干渉へとつながっていく。(4)このことから、この当時における封建的、特権的身分階層が、頑固なまでに当時の封建的、特権的基盤をそのまま維持し強硬なものにしていたことがわかる。
本章では検討するフィヒテは次のようである。1793年には、革命の熱狂的な共鳴者となるが、1791年にはドイツの封建的、特権的身分階層の影響の下に止まっていた。「フィヒテは1791年にはまだフランス革命の中に、広範な人民大衆には殆ど益をもたらさない、したがってあまり目的にかなったものではない、一つの運動を見ていたのであって、彼の全期待を上からの改革による人民の状態の改善―人民の状態の改善こそは彼がその政治的緒努力において結局のところつねに念願においていたものであった―へ向けた。(中略)フィヒテがフリードヒリ・ヴィルヘルム二世治下の宗教勅令を擁護するところまでいったのである。」(5) しかし、フィヒテが1793年には、フランス革命を肯定的に評価していたことを、後でみるであろう。
その前に、もう少し、ドイツ社会思想史における1792-3年の情況を検討に入れておこう。というのも、1792-3年のドイツ社会思想こそは、1790年代の後期および1800年代の社会思想を見定めていく上で、重要な年代になってくると思われるからである。
註
1.Rein Aris. Hhistory of Political Thought in Germany from 1789 to 1815. Frank Cass & Co. 1965. p.108
2.Load from 1789 to 1815. Frank Cass & Germany Co 1965. p.108
3.十河佑貞著『フランス革命思想の研究―パーク・ゲンツ・ゲルレスをめぐって』東海大学出版会、1976年、111ページ。
4.前章 第3節 註3を参照せよ。
5.Manfred Buhr Revolution und Philosophie―Die urspruengliche Philosophie Johann Gottlieb Fichtes und die Franzoesischi Revolution.Veb Deutscher Verlag der Wissenschaften Berlin 1965. 藤野渉、小栗喜浩、福吉勝男訳『革命と哲学 フランス革命とフィヒテの本源的哲学』法政大学出版局、1976年、49ページ。
1.ドイツ社会思想史における1792~3年の位置づけ
こうしたドイツにおける封建的・特権的身分階層、総じて、国家権力の圧政とその影響は、1792年には、次のような結果をもたらした。
第一に、若きフンボルトは、フランス革命さなかのパリを見聞しながらも、フランス革命の意義を公的に宣言することなく、人間の自由と必要悪としての国家論を展開した著作、『国家活動の限界を定めんとする試論的考察』を私的にしか(・・・・・)書き遺せなかった情況を生んだ。(1) 実際、フンボルトがフランス革命さなかのパリを見聞しながらも、そこで感じとったものは、ドイツにおける封建的社会の強固さと同時に、「国家があまりにも強大なものになれば、諸個人はおどかされているという底知れぬ危険さ」(2)であり、フンボルトを含めて古典主義者(例えば、ゲーテ)は、「国家が主として、個人の知的で道徳的な福利に関係するとき、個人は国家の面への不干渉という方針と政治的事柄への市民的生活の面での無関心」(3)という、現実の情況に対して、きわめて消極的な態度を取ることであった。
第二に、前章で検討したように、フランスに接したライン川流域・マインツ地方でこの地域を共和国にするために、蜂起した「マインツ革命」をも生んだ。尤も、この政治的行動は多くのドイツ人の人たちから支持を受けぬまま、1793年の春に失敗に帰し、指導者の一人でもあったゲオルク・フォルスターは、売国奴として国外追放の処分を受けることになった。
こうした情況の中で、1792年から1793年のドイツ社会思想は、1790年代の後期のみならず、1800年代のドイツ社会思想を見定めていく上で重要な年代となってくるのである。とはいっても、フンボルトのように、現実の情況に対しての消極的態度、また、これとは反して、フォルスターのように、現実の情況に対しての積極的態度のことばかりを指しているわけではない。これから明らかにするように、フォルスターの政治的実践とは別にしても、フランス革命の政治的原理を積極的に、肯定的に著した諸著作もこの年代に顕われ、またこれとはまったく反対に、フランス革命の政治的原理を否定的に著した著作―この意味で、フンボルトの思想よりも交代した社会思想もこの年代に顕われているからである。
とろで、カール・シュミットは、フランス革命後の1790年代の社会思想の重要な年代として、1796年をあげている。シュミットのいうところはこうだ。「1796年という年は、1789年のフランス革命に反対するいろいろな議論の概観をおこなうのに好都合な年」(4)だと述べ、その理由として、「この年には重要な保守的思想が全体としてすでに表明されているからである」(5)と、述べている。シュミットのこの見解と私の見解では、多くのズレがある。私が1792-3年を採るには、それなりの理由があってのことだが、ここで二つあげることができると思う。
その一つ。アリスはこう書いている。「バーク・レーベルクやゲンツのようなフランス人の理想とは全く違った反対派が表面(ドイツ社会思想―引用者)に顕われてきたことは忘れられてはならない。」(6) まず、これらのことから述べることにしよう。
バークについては、既に、触れておいたが、その次のアウグスト・ヴィルヘルム・レーベルクからみてみよう。「ハノーヴァートレーベルクは1790年から1793年まで、イギリスのウィッグ党とまったく同じの精神に立ってフランス革命についての批判をイェーナ一般文学新聞Jenaische Allgemeine Literaturzeitungに発表した。」(7) そして、『フランス革命についての諸研究、付録、フランス革命に関してフランスにおいて出版された最も注目に値する諸著作についての批判的報告』二部本(ハノーヴァーおよびオスナブリュック、1792年)を著わした。レーベルクのこの書物では、人権宣言における自然法に基づいた平等権も、キリスト教会や神の前でのみ人間は平等であるにすぎず、市民権は人間性の普遍的性質から生じないとして退けられ(8)、また、市民の憲法を変える権利も、どんな憲法もゆるやかな発展に基づいており、今ある世代は次の代が遂行するための道を切り拓いてやり、後の代は前の代が成し遂げたものの上に作られるから、したがって、憲法は先祖によってもたらされたものであるから、人民はこれを変更する権利はもたないとして否定された(9)。レーベルクの視座では、国家の人民への配慮は、漸次的な改善であり、国家にとって最も重大な関心事は、これまでの伝統と秩序との調和にあったのである。その担い手は土地所有者の貴族、裕福な商人層に限られた。というのも、レーベルクの視座では、人間の唯一の権利は財産=所有権であり、所有権を持っているもののみが唯一の市民とみなされ、こういう所有権は、当為のドイツでは土地所有者=貴族・裕福な商人層に限られていたからである。こうして、現状維持をといたレーベルクは、これらの層の代弁者となったのである(10)。
レーベルクとならんで、バークの影響を受けたフリードリヒ・ゲンツについて、今度はみてみよう。十河氏はこう述べておられる。「フランス革命の勃発と同時にこれに感激したゲンツは、第三階級の国家建設の努力に希望をかけた。間との学風に心酔していた彼の精神は、抽象的で光彩のあるフランス人の定理に感灸することができた。彼は哲学的原理による大国家の創設を、大規模な人類改善の最初の試みとして歓迎し、ただ訳もなくそれに陶酔した。ところがフランスにおいては、平等が却って無制限な専制政治と化し、自由の精神の堕落を見るに至ったので、ゲンツの革命に対する情熱は冷却し、これとともに英国議員エドマント・バークのフランス革命に対する烈しい論難の著作が、ついにゲンツの転回を完成させた。」(11) ここで、十河氏が述べておられる「平等が却って無制限な専制政治と化し、自由の精神の堕落」についてのゲンツの認識は、1789年の人権宣言が「完全な不従順と無秩序(アナーキー)の一体系」とみたレーベルクの立場と一致していたといえる(12)。しかし、実際のところ、レーベルクやゲンツがフランス革命の中にみていたものは、フランス革命の政治的原理ではなく、フランス革命にともなう政情の混乱という点であったといえよう。このようなもとで、ゲンツがバークの影響を受け、思想の転回を完成させたのち、1793年、バークの『フランス革命についての諸反省』のドイツ語訳を出版した。ゲンツのこのような思想の転回の背景を考えるならば、ゲンツがもともとプロイセン官吏の家で成長し、カントのいたケーニヒスベルク大学に入学し、カントの学風に傾倒しながらも、卒業後直ちにプロイセンの官界に入ったこととも無関係ではなかったであろう(13)。因みに、ゲンツのバークの著作のドイツ語訳の出版と、その後のフランス革命に反対する執筆活動を1790年代の後期においてみるとき、見過ごすことのできない影響力をもっていたことがわかる。すなわち、詩人ノヴァーリスがゲンツの影響を深くうけ、保守主義的思想の代弁者のひとりとなったことは、その端的な現れであった(14)。
アリスの見解に基づいて、これまで、レーベルクやゲンツの社会思想を見てきたが、こうしたレーベルクやゲンツの思想的動向と対蹠的な社会思想も、この年代に現れてきていることを忘れてはならない。ここで、1793年に著された著作を、三つ、最も早く刊行された著作から追ってみることにしよう。
まず第一に、ヘルダーの『人間性を促進するための手紙』が、1793年の1月に刊行された。ヘルダーは、フランス革命勃発当時、革命を積極的に肯定し、ロベスピェールが政治の舞台に登場し、所謂、恐怖政治が断行されるに至って革命に対して消極的になったと伝えられている。(15) とはいうものの、1793年のこの書物のなかで、ヘルダーは、消極的で、控目ながら、フランス革命について賛意を隠さなかった。この書物のなかで、フランス革命によって、革命以前から考察の対象としてきた自己のナショナリズム論をフランス人の「国民的意識」の中において一層、ヘルダーが確信していたことがわかる。因みにいっておけば、ヘルダーのナショナリズム論は、1808年の愛国者フィヒテのナショナリズムと重なり合う部分を持っていたといえよう。つまりヘルダーにおいても、またフィヒテにおいても、ナショナリズムの担い手は王権=貴族層ではなく、またその内容も排他的で偏狭的なものではなく、その意味で押し付けがましいものではなかった、という点においてである。
第二に、1793年3月、レーベルクの思想とは根本的に異にしレーベルクの思想とは根本的に対決するフィヒテの著作『フランス革命にかんする公衆の判断を是正するための寄与』第一部(第二部冊は9月)が、ダンチッヒで匿名出版された。
第三に、カントは「理論では正しいかもしれないが、しかし実践には役に立たない、という通説について」という大変な長たらしい題目を持つ論文を、1793年9月に『ベルリン月刊(Die Berlinische Monatsschrift)』誌に寄稿した。この論文においてカントは、フランス革命の人間の自由・平等・独立の権利をドイツの国情に合わせて展開し、これらの権利の意義と必要性を主張した。
総じて、1792年から1793年のドイツ社会思想史を鳥瞰するならば、フンボルトにみられるように、フランス革命に対して一定の距離をおき、胸中、穏やかならぬ動揺していた知識人(このなかには、ゲーテのような古典主義もいた)もいたが、レーベルク、ゲンツに代表される封建的・特権的身分社会の代弁者、つまり、封建的身分秩序をそのまま継持していこうとする知識人に対して、フランス革命を人類史における画期的な出来事として、その意義を認めた知識人(カント、フィヒテのような啓蒙主義者、および、ヘルダー)との相剋として、捉えることができる。この意味で、この年代は正に1790年代のドイツ社会思想史の岐路であったことを明瞭に証左し、さらにいえば、世紀末から世紀初めのドイツ社会の選択とその進路を促すものであったと受け止めることができよう。
したがって、この年代はドイツ近代社会思想史において特筆されるべき年代であったともいえる。これまで述べてきたことから、シュミットと私との見解とのズレが、既に明らかになった筈だ。つまり、こうだ。シュミットの捉え方は、フランスの社会思想を含めてドイツの社会思想、ここでは、保守主義思想が出そろった時点で、1796年を採っていたのに対し、私のそれは、ドイツの1790年代の後期、さらに、1800年代の社会思想の行方を定める出発点として、1792-3年を採ったことだ。
本論では、この年代の社会思想の一つの記念碑でもあり、1790年代のドイツ社会思想において見過ごすことのできないフィヒテの著作『フランス革命にかんする公衆の判断を是正するための寄与』(以下、『フランス革命論』と略記)を取り上げることにしよう。次節以降において、フィヒテの自我の問題、国家観、社会の国家に対する優位、国家体制の変更とその可能性、最後にフィヒテの「フランス革命論」の展望を検討することにする。
註
1.本章第4節において、フンボルトの『国家活動の限界を定めんとする試論的考察』について、僅かではあるが、フィヒテとの関係で触れている。
2.Reinhold Aris. Hhistory of Political Thought in Germany From 1789 to 1815. Frank Cass & Co. Ltd.1965 P.66
3.Aris ibid.P.66
4.Carl Schmitt Politische Romantik,2.Auflage Duncker & Humblot. Berlin. 1925. 大久保和郎訳『政治的ロマン主義』みすず書房、1975年、137ページ。
5.Schmitt. 前掲書、大久保和郎訳、137ページ。
6.Aris ibid. p.122
7.Schmitt. 前掲書、大久保和郎訳、137ページ。
8.G.P.Gooch. Germany and the French Revolution Frank Cass & Co. Ltd.1965, p.79
9.Aris ibid. P.57
10.Aris ibid. p.56 尚 Gooch. ibid. p.79 また Buhr. 前掲書、藤野渉 小栗嘉浩 福沢勝男訳、原注(126)、163-4ページ。
11.十河佑貞、前掲書、11ページ。同ページで、十河氏は、ゲンツがプロイセンの官界に入る前に在学していたケーニヒスベルク大学で「カントの学風に傾倒して」いた、と述べられておられる。この指摘はほぼ間違いのないことだと思われる。というのも、ゲンツが6歳の時、カントはカーにヒスベルク大学論理学形而上学教授となり、ゲンツが17歳の時、カントは『純粋理性批判』を出版し、が学界で高い評価をえ、ゲンツが官界入の前年、1784年に、カントは『ベルリン月刊(Die Berlinische Monatsschrift)』誌に、「世界公民的見地における一般史の構造」を寄稿し、続いて「啓蒙とは何か、という問いに対する答え」を寄稿した。特に、『世界公民的見地における一般史の構造』におけるカントの主張、例えば、「自然が人類に解決を迫る最大の問題は、組織全体に対して法を司掌するような公民的社会を形成することである」(Kant.Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltbuergerlieher Absicht.in kaleinere Schriften zur Geschichtphilosophie Ethik und Politik. Verlag von felix Meiner Hamburg 1964 S.10 篠田英雄訳『啓蒙とは何か』岩波文庫、1974年、32ページ。)あるいは、「自然の計画の旨とするところは、全人類のなかに完全な公民的連合を形成せしめるにある」(Kant.ibid.S.18. 篠田英雄訳 45ページ)等の主張は、若いゲンツを魅了したことであろう。また、ゲンツがプロイセンの官界に入った後、フランス革命の報道を耳にした時、若いゲンツはフランス革命の中にカントの唱えたdie buergerliche Gesellschaftの実現を見たことであろう。
12.Burh. 前掲書、藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、原注(126)、162-3ページ。
13.十河佑貞、前掲書、11ページ。
14.ノヴァーリスについては、本論の第6章において、詳細に検討する。ここでいっておきたいことは、レーベルクやゲンツにみられる。これまでの伝統と秩序の調和=封建的身分秩序の維持は、かれらより早く世に現れた、ユストゥス・メーザーの見解と重なり合うものであろう。確かに、メーザーはヘルダーとともに、フランス革命前において、ドイツにおいて、いち早く、ナショナルなものに眼を向けた一人として、見做されているが、しかし、メーザーの視座の眼底にあるものは、中世ドイツの伝統主義への回帰であり、いわば、封建的=家長的社会秩序の復興であった。この意味で、メーザーは「身分国家の信奉者」(Karl Mannheim. Das konservative Denken. Soziologische Beitraege zum Werden des politisch-historischen Denken in Deuschland in Archiv fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik,Bd. 57. Heft1~2. Tuebingen. 1927. 石川康子訳『保守的思想-ドイツにおける政治・歴史思想の生成に関する社会学的研究-』、『マンハイム全集 3社会学の課題』潮出版社、1976年、104ページ。したがって、メーザーの思考が、レーベルクやゲンツのそれと重なり合うものであった、ということがおわかりいただけたかと思う。因みに、マンハイムは、メーザーの思考を、<原初的保守主義。本質的には身分主義的な「伝統主義」>と規定している。Mannheim. 石川康子訳、56ページ。
15.『世界の名著 続7 ヘルダー、ゲーテ』中央公論社、1975年、のなかの年譜を参照。53-4ページ。ロベスピェール登場後のフランス革命に対するドイツ人の受け止め方について、こう考えられるであろう。ヘルダーのように、革命に対して否定はしないまでも消極的になり、またフンボルトのように、国家権力の強大さを感じ取り現実の情況に冷ややかな態度をとり、内面的な個人主義にとどまったり、また、ゲンツのように、反フランス革命へと思想を急速に転回をなしとげたものもあった。ノヴァーリスのフランス革命に対する見解は、ゲンツの思想の転回に沿うものであった。こうしたなかで、フィヒテは、本章で明らかになるように、ロベスピェールが政治の舞台に登場していた時点でも、フランス革命に対して熱烈な共鳴者であったのである。
尚、ヘーゲルは、ロベスピェールの恐怖政治を1807年の『精神現象学』において「絶対自由と恐怖」として総括した。すなわち、ヘーゲルの考えるところでは、ロベスピェールの恐怖政治は「否定的な行為」にすぎず、「絶対的自由は消え行く狂暴にほかならない」(Hegel Phanomenologie des Geistes in G.W.F.Hegel Werke in zwanzia Banden.3. Theorie Werkausgabe. Suhrkamp Verlag Frankfurt am Mein. 1970. SS.435-6. 樫山欽四郎訳『学の体系第一部 精神現象学』、河出書房新社、1969年、世界の大思想12、339ページ)とされた。つまり、「一般的自由の唯一の仕事及び行果は、死であるが、しかも、内面的ひろがりや成果がまったくないような死である。」Hegel ibid. S.436 樫山欽四郎訳、340ページ。だからといって、ヘーゲルが反フランス革命論者になったかといえば、そうではない。カントが晩年、74歳になっても、ロベスピェールが政治の舞台に登場し、所謂、恐怖政治を断行し、その結果断頭台に消えていった後にも、『諸学部の争い』においてフランス革命の進展は確かに「悲惨と血なまぐさい行状とに満ちているかも知れない」が、フランス革命を「眺めているすべての人々の心のなかに、ほとんど熱狂的に近い共鳴」を引き起こした(本書第1章)と、フランス革命の意義を正当に評価していたように、ヘーゲルも晩年に至っても、フランス革命を「輝かしき日の出」と正当に評価していたことを忘れてはならない(本書第1章)。
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