フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(12)

2.フィヒテの「フランス革命論」の基本的性格

 フィヒテにとって、フランス革命は何よりもまず、人類史に一つの輝かしき転換を与えた重要な出来事である。つまり、「フランス革命は私からすると全人類のために重要であるように思われる」(1)と、序言の冒頭で述べ、さらに、「フランス革命は私にとって人間の権力と人間の価値という偉大な主題についての多彩な絵巻物であるように思われる」(2)と、ためらうことなく、はっきりと述べているのだ。この発言から、フィヒテがフランス革命から人間の権利と人間の価値との尊厳を学んだことが理解される。これらの内容については次節以降で検討するが、これらの内容の基本的前提になっていたものは、フィヒテにおいて何であったのか。まず、このことから明らかにしなければならない。

 ブールが、「フィヒテは彼のテーマの本来の論述の最初に、個人というものを立てる。いっさいの権力に対し、とりわけ国家権力に対して自由な自我を立てる」(3)と述べていることは正しい。なぜなら、『フランス革命論』で個人=自我は次のように捉えられているからだ。「私の中にある道徳的法則によって私の純粋自我の形成が変わることなく規定される。すなわち私はひとつの自我、一つの自立的存在者、一つの人格であるべきである。―私は私の義務をつねに欲するべきである。したがって私は一つの人格であるという権利をもっている。」(4) このフィヒテの発言を抽象的に捉えるならば、これまで歴史的・社会的舞台に登場してこなかった諸個人が問題であり、こうした諸個人のあらゆる外的な拘束および権威からの解放と自由を意図したものであった、と受け止めることができよう。このことの内容を具体的に捉えるならば、諸個人は、フィヒテの視座では「ひとつの自立的な存在者」もしくは「一つの人格」であるが、もはや過去からの因習に囚われない自由な人格、すなわち封建的身分秩序の枠組を必要としない、自由で生き生きとした人格であると受けとめることができる。

 フィヒテのこのような個人=自我に対する視座は、フィヒテの時代の課題、つまり、《教養(ビルドゥング)=陶治》と密接にかかわってくることになる。フィヒテからすると、「自由なまでの文化が、(中略)人間の究極目的」(5)であった。この意味で、カントが9年前の論文『啓蒙とは何か、という問いに対する答え』で、「啓蒙を形成するに必要なものは、実は自由にほかならない」(6)とした立場と、同じであったといえる。しかし、カントにおいては、啓蒙の担い手が「個人でなく(・・・・・)―民衆が自分自身を啓蒙するということになると、そのほうが却って可能なのである。それどころか彼らに自由を与えさえすれば、このことは必ず実現すると言ってよい(傍点は引用者)」(7)としている。つまり啓蒙の担い手は個人ではなく、漠然とした民衆であった。しかもカントは、自由を説きながら「自由にはいつでも制限が付せられている」(8)として、「公民的自由が過度に増大すると、国民の精神の自由に取って有利であると思われるかもしれないが、実はこの自由に克服しがたい制限を加えることになる。むしろ公民的自由のいくらか低めの方が帰って精神的自由に、力を尽くしてみずからを拡充すべき余地を与えるものである」(9)と述べ、消極的に止まった。そして、「少なくとも政府の側から最初に人類を未成年状態から解放し、また良心に関する一切の事柄については、自分自身の理性を使用する自由を各人に与えた君主として、当代ならびに後代の人々から感謝の念を持って称賛されるに値する人物」(10)として、フリードリヒ大王を称え、この時代の課題とされた《啓蒙》、つまり《教養=陶治》も「上から」されることを期待していた(11)。これに反してフィヒテの視座では、個人の側からの、つまり<下から>の《教養=陶治》こそが重要だ、と捉えられていたのだ。たんに受身であるだけの態度では、全ての文化の正反対のものである。「教養は自己活動によっておこなわれ、また自己活動をめざすのである。」(12) フィヒテの視座では、《教養=陶器治》は個人の努力に委ねられる。つまり「私は一つの人格であるという権利、そして私の義務を欲する権利」は、一方では、近代的諸個人に歴史的・社会的責任と義務を明確化するとともに、他方では、この権利は「いかなる人にも補償されなければならない基本権」(13)であることを明示したものだ、と受け止めることができる。それだけに、これらのことから、この権利は誰からも破棄されず、また誰にも譲り渡すことのできない権利であることが確認されなければならないだろう。フィヒテはいう。「これらの権利は譲り渡すわけにはいかぬものであり、そこからはどんな譲り渡し売る権利も生じない」(14)と。フィヒテにおける「私は一つの自我、一つの自立的存在者、一つの人格である」という視座は、次節以降で重要なキーポイントとなっていくだろう(15)。

1.Fichte. Beitrag zur Berichtigung der Urteile des Publikums ueber die franzoesische Revolution. Felix Meiner Verlag. Hamburg. 1973. S.3

2.Fichte. ibid. S.3

3.Buhr. 前掲書、藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、59ページ。

4.Fichte. ibid.S.133

5.Fichte. ibid.S.54

6.Kant. Beantwartung der Frage; Was ist Aufklaerung. 篠田秀雄訳『啓蒙とは何か』岩波文庫、1974年、10ページ。

7.Kant. ibid. 篠田英雄訳、7ページ。

8.Kant. ibid.  篠田英雄訳、10ページ。カントは、「自由にはいつでも制限が付せられている」として、次のような事例をあげる。「公共体の利害関係を旨とする多くの事業においては、その公共体を構成する人達のうちの若干に、あくまで受動的な態度を強制するような或る種の機制を必要とする。それは政府が、この人たちを諸種の公的目的と人為的に一致せしめるためであり、或いは少なくともこれらの目的を顚覆させないためである。こういう場合には、論議はもとより許されていない。ただ服従あるのみである。しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員―それどころか世界公民的社会の一員とみなす場合には、したがってまた本来の意味における公衆一般に向かって、著書や論文を通じて時節を主張する学者の資格においては論議することはいっこうに差支えないのである。(中略)上官から、何か或ることを為せ、と命じられた将校が、勤務中にも拘らずその命令が適切であるかどうか、或いは有効であるかどうかなどとあからさまに論議しようとするなら、それは甚だ有害であろう―彼はあくまでも服従せねばならない。しかし彼が学者として、軍務における欠陥について所見を述べ、またこれらの所見を公衆一般の批判に供することを禁じるのは不当である。」(11ページ) カントのこうした発言は、苦慮したようでの弁明であったといえる。換言するならば、封建的身分秩序の強固であったドイツでは、カントの「自由」論はこの程度で、せいぜいのところであったといわなければならない。

9.Kant. ibid. 篠田英雄訳、19ページ。註8で指摘したカントの「自由」論の行着くところは、こうした「公民的自由のいくらか低めの方」であった。こうしたカントの発言のなかに、当時のドイツの封建的・特権的階層の厚い壁と、中産市民階級の政治的意識に対する無関心、欠如といったものを看取することができる。

10.Kant. ibid. 篠田英雄訳、17ページ。

11.カントのこうした観点は、フランス革命の後の著作においても継承されていく。つまり「下からの革命」を選ぶか、それとも「上からの改革」を選ぶかということになると、カントはためらわず後者の道を選択する。

12.Fichte. ibid. S.55

13.Ernst Cassirer Freiheit und Form. Studien zur Deutschen Geistesgeschichte. Berlin. 1916. 中埜肇訳『自由と形式 ドイツ精神史研究』ミネルヴァ書房、1972年、288ページ。

14.Fichte. ibid. S.133

15.フィヒテにおける「私は一つの自我、一つの自立的存在者、一つの人格である」という個人=自我の視座は、『フランス革命論』では次節のフィヒテの個人主義的国家観につながっていくものであり、『フランス革命』論を執筆した翌年、1794年、『全知識学の基礎』となって結実する。これについては、福吉勝男「近代の成立と哲学の課題―フィヒテ知識学の問題設定―」(名城大学商学会『名城商学』第22巻)、および同氏による「フィヒテ哲学の基礎課題」、名古屋哲学研究会編『現代の哲学研究』所収、合同出版、1977年、150ページ以下参照。

3.フィヒテの国家観――個人主義的国家観

 フィヒテにとって国家の位置づけは、四つの領域すなわち「良心の領域」、「自然法の領域」、「契約一般の領域」、「市民契約の領域」のうち、第四の「市民契約の領域」に属する。

 ここで、フィヒテ自身が描いている四つの同心円―つまり、先にあげた四つの領域―にしたがって、簡単にみておこう。(1)一番外側の円は「良心の領域」である。この領域では、個々人を中心として成り立ち、個々人は、自らの道徳法則に従って生きている。故に、「いかなる他人も(中略)自分の裁判官とはなりえない」(2)領域だ。第二の円の領域は「自然法の領域」(3)。ここでは、「いかなる人の自由も汝の自由を妨げない限り、これを妨げるな」(4)という「最初の意味での社会が考えられる」(5)領域だ。第三の円の領域は「契約一般の領域」(6)。つまり、「契約の上に成り立つ掟は、自由な―掟から解き放された恣意である」(7)領域。換言するならば、社会契約一般の領域。最期の第四の円の領域は「市民契約の領域」(8)だ。フィヒテの述べているところでは、各人は全体として「市民契約と読んでいるところのものを結ぶ。この契約の領域は自由な恣意の領域の任意的な部分」(9)の領域から成っており、ここに、国家が属する。

 ブィルムスは、フィヒテのこの四つの同心円を包括するにあたって次のように述べている。「はっきりしておきたいのは、どの内円にも、より大きな円が表わしているものから、自分の領域だけを取り去るというようなことはしないということである。」(10) 要するに、ブィルムスがいっていることは、「良心の領域」――自我の出発点(・・・・・・)を強調しているということだ。したがって、国家との関連でみていくと「国家は諸個人から、そしてただ諸個人からのみ成り立つところの一つの制度であり、その場合、どの個的存在者にとっても、契約によって国家結合に加入するか否かは自由である。しかし、ある個人が国家結合に加入してしまった場合でさえも、個人はどんな制限をも受けない。個人は国家公民としても、ただ彼自身の立法のもとにのみある。」(11)

 ブールのこの発言が的を射ていたものであったということは、フィヒテの次の論述から明らかとなる。「国家が方法的であるために必要なすべての成員の同意を少なくとも後になって求めないときには、国家は人間の第一の権利、人間性自身の権威に対して犯すものである。」(12) つまり、国家が合法的であるためには絶えず個々人の同意を必要とする、と捉えられていたわけだ。否、そればかりではなく、個々人の同意を必要とするために、個々人の主体性が前提とされる。フィヒテはいう。「ところでこの契約において誰が私に掟を課すのか。明らかに私自身である。いかなる人間人に対しても、自分自身によるのではなくては、ある掟が与えられるわけにはいかない。」(13) 国家が個々人の同意を必要とするために、個々人の主体性と同時に、個々人の自由も承認されなければならない。「市民法の拘束力はどこからか生じたか。私は答える――個人によってそれが自由に承認されることからであると。そして、人が自分自ら与えた法律の他に法を承認しないということが、ルソーのいうところの不可分、譲り渡すことのできない主権の根拠でなければならない。」(14) フィヒテにおいては、国家に対して個人は、強固な意志力をもった権利主体としてあったことになる(15)。

 この意味で、フィヒテの視座では、国家権力の実験を握り最高の地位にあるもの――ここでは、専制君主に向かって、個人の自由を侵す場合、各個人は次のようにいうことが可能であるし、また強弁しなければならない、と捉えられている。すなわち「君たちは専制君主に面と向かって、貴方が私を殺すことをできたとしても、しかし私の決意を変えることはできない、といってやることができると感じるか。(中略)人間は自分のなすべきことをなすことができる。だから、自分が私にすることができないというなら、その人はしようと意志しないのである。」(16) フィヒテにとって、個人の意志は自由が何よりも問題であった。だから「ある人がほかの人の意志によって自分に一つの掟を課させるとせよ。そうすれば、その人は自分の人間性を放棄し、自分を動物たらしめるのである。そして、そんなことをその人はしてはならない。」(17) 掟は上から、例えば専制君主によって与えられるのではなく、掟を作る主体は各個人にあるものだ、と強調されていることに注目しておかなければならない。「われわれが自ら掟をわれわれに課すことによってのみ、一つの実定法はわれわれにとって、拘束力のあるものになるのである。」(18)

 こうした論述からいえることは、フィヒテの強い個人主義的自由主義的見解だ。「国家的統制のあらゆる拘束を排する極度の個人主義的国家観の告知である」(19)、といえよう。すなわち、「個人は国家を自らの手段として利用し得べく、その場合もとよりこれに対して義務を負うが、それはあくまでも自らの意志によってでなければならない。」(20) フィヒテのこのような個人主義的自由主義的国家観は、社会の国家に対する優位、国家体制を変更する権利へとつながっていく。

1.Fichte Beitrag zur Berechtigung der Urteile des Publikums ueber die franzoesische Revolution. S.97. Bernard Willms, Die totale Freiheit. Fichtes Politische Philosophie. Westdeutscher Verlag. Koeln und Opladen.1965. 青山政雄・田村一郎訳『全体的自由 フィヒテの政治哲学』木鐸社、1976年、48ページ、参照。

2.Fichte. ibid. S.96

3.Fichte. ibid. S.97

4.Fichte. ibid. S.95

5.Wilms. ibid. 青山政雄・田村一郎訳、48ページ。

6.Fichte. ibid. S.97

7.Fichte. ibid. S.96

8.Fichte. ibid. S.97

9.Fichte. ibid. S.97

10.Wilms. ibid. 青山政雄・田村一郎訳、48ページ。

11.Buhr. ibid. 藤野渉・小栗嘉浩・福吉勝男訳、62ページ。

12.Fichte. ibid. S.46

13.Fichte. ibid. S.47

14.Fichte. ibid. S.47

 ルソーは『社会契約論』でこう考えている。「自分自身の一部分を譲り渡したり、または他の主権者に服従するようなことに、自分を義務付けることは決してできない。他者に対してさえもできない。自分がそれによって存在する契約を破ることは、みずからをほろぼすことである」(J.-J. Rousseau, Du Contrat Social. Editions Sociales, Pris, 1968, P.70. 桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契約論』岩波書店、1968年、34ページ)と、述べ、「この契約(社会契約―引用者)は、何びとにせよ一般意志への服従を拒むものは、団体全体によってそれに服従するように強制されるという約束を、暗黙のうちに含んでいる。そして、この約束だけが他の約束に効力を与えうるのである。このことは、〔市民は〕自由であるように強制される、ということ以外のいかなることを意味していない」(Rousseau, ibid., p.72,桑原武夫・前川貞次郎訳、35ページ)と、結論付けている。

15.白石氏はこう述べておられる。「ルソーの前提は、個人の自由が譲渡ないし放棄しえない人間性の理論」であり、「自由の放棄とは、人間たる資格、つまり人間性の権利ならびに義務をさえ放棄すること」であり、「彼の社会契約は、いかに全体的譲渡という形式を取ろうとも、個人の自由を放棄するのでなく、無制限な自然的自由を制限して、自立的な市民的自由に変える」(白石正樹「主権と一般意志」、小笠原弘親・白石正樹・川合清隆『ルソー 社会契約論入門』所収。有斐閣新書、1978年、91ページ)ことにあったといえる。こうしたことを念頭に入れ、フィヒテのいうところを考えてみると、フィヒテはルソーの後継者であったと同時に、ルソーの立場をより一層、深化したものであった。

16. 著者による記述が欠落(石塚注記)。

17. 著者による記述が欠落(石塚注記)。

18.Fichte. ibid. S.47

19.南原繁『フィヒテの政治哲学』岩波書店、1970年、149ページ。

20.南原繁、前掲書、150ページ。

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