フリードマンはケインジアンだった

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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随分前に読んだ本に間違いなく書いてあった。思い違いでもなければ、記憶違いでもない。Webで似たような記述を探してみたが、頼りない説明までしか見つからなかった。嫌な思いをしたことを思い出しては、書名も著者も覚えていない本を探した。これかもしれないと図書館で借りては斜め読みしていって、やっと見つけた。

 

『大いなる探求 人類は経済を制御できるか』シルビア・ナサー/徳川家広訳(新潮社)、上下巻の下巻だった。

『Creators of the economics sciences  Grand pursuit: the story of economic genius』Sylvia Nasar

プロが考え抜いて決めた邦題なのだろうが、原題を見ると読んでみるかという気なる。

 

何年も前のことだし、いまさら、どうでもいいじゃないかという気もする。でも本に書いてあったことから発した素朴な一言に対する講師の見下した態度と、参加していた方々から受けた不審の雰囲気を引きずったままもイヤだし、もうここらですっきりしたい。

 

「フリードマン、なんでも、若いときはバリバリのケインジアンだったそうですよ」

素人が何を言いだすのかと頭から否定の口調で、

「そんなこと、聞いたことないなー」

まともな本だったと思っていたから、聞いたこともないには正直驚いた。

「えっ、前に読んだ本に書いてありましけど」

 

講師は某国立大学の経済学部の教授、素人がろくでもない本を読んで、訳の分からないことを言いだしたとでも思っていたのだろう。セミナーの主催者は顔をゆがめているし、経済学だけでなく広く人文系については知悉している参加者も無言で、気まずい思いをした。よかったことは忘れてしまっても、イヤなことは忘れようとしても忘れられないで覚えている、ちゃちな自分が嫌になる。

確かに経済学の先生方が読む本でもなければ、博識をもってなる方々が手にする本でもない。でもWebで読んだことからも、本の書いてあったことが大きく間違っているとは思えない。

 

日本とアメリカをまたにかけた仕事を通して良くも悪くも色々みてきた。おおなるほどというものもあれば、何が何でもそりゃないだろうということにも遭遇してきた。どう考えてもおかしいだろう、なんとか説明をと思っても納得できることばかりじゃない。どこかに説明の手立てがあるのではないかいう淡い期待が経済学に向かわせた。経済学の知識があれば、多少なりとも何が起きているのか、誰が、どの社会層が何を求めて、何をどうしようとしているのかを知り得るのではないか。そして知りえたことをどう解釈して、どう説明すれば、それなりに納得のいく理解に達し得るだろうと期待していた。

 

『第12章 経済学者の戦争』「財務官僚としてのケインズとフリードマン」から関係する個所を転記する。

他人の言を引き合いにしての話は好きになれない。そんなことしたくはないがしょうがない。経済学の基礎知識がなさ過ぎて、自論を展開する能力がない。あまりに長い転記、ご容赦を。

 

「ニューディールの計画官僚たち時間のほとんどを国民所得勘定の構築と、雇用と生産の予測に費やすことになったのである。というのも、当時はそのような統計が、まだ整備されていなかったのだ。ケインズがアメリカとイギリス両国の政府に対して、企業の年間収支報告に似た国民所得勘定を作成するよう、しつこく説いていたのも道理だった」

「ある国の経済活動で毎年どれだけの富が生み出されたのか、賃金、利潤、利息などの形で、どれだけの所得が発生したか、あるいは家計、企業、政府がいくらの金額を何のために支出したか――そうした変数を測る、信頼に足る尺度がなければ、政府も企業も真っ暗闇の中で作業をしているのと何ら変わりはない。じっさい、生産と需要の間の不均衡を察知する方法も、不均衡の規模を計測する方法もなかった」

「だが、卓上計算機だけで国民所得勘定を作成することは、嫌になるほど労働集約的な事業だった。ニューディール期に首都ワシントンで、経済学の大学院生を対象とする、巨大な公共事業が発生したのは、このためである。フリードマンの大学院の同級生のハーバート・スタインは、一九三〇年には首都ワシントンに一〇〇人しかいなかった経済学者は、一九三八年には五〇〇〇人まで急増していたと推計している」

 

「フリードマンの最初の大仕事は、インフレを抑え込むのに、いったいいくら税金を徴収すればよいかを推計することだった」

「一九四二年五月七日、フリードマンは初めて議会の委員会で証言することになった。その場で彼は『インフレを防止するうえで効果があると見られる最小の金額』として八七億ドルの増税を提案する。そしてフリードマンは、政府の需要と家計の所得が急増している中では、一定の消費財の供給量を、より多くの資金が追い回すという状況を予防するために、消費支出を制限することは不可欠だと指摘した。これはケインズが一九四〇年の『ケインズ・プラン』を弁護するのに頼ったのと同じ論法である」

 

「課税ほどには効果的でない政策手段として、フリードマンは『物価統制と配給、消費者金融の統制、政府支出の削減、そして戦時国債の販売キャンペーン』を列挙した。後に金融政策の万能を説くマネタリストとして知られることになるフリードマンだが、ここでは金融政策について一言も触れていないのが興味深い。戦後もしばらく経った一九五三年に戦時中の仕事を回顧したフリードマンは、当時の自分が金融政策を見落としていたことについて「当時のケインジアンの風潮」の産物だと分析している。とはいえ、フリードマンはアメリカにおけるケインジアンの弟子の一人に数えられており、一九四〇年代末までその立場を保ち続けている」

 

「フリードマンの増税案の最大の問題点が、徴税の方法にあった」

「一九四二年以前のアメリカでは、所得税は前年の所得に対して課せられ、四分割して納税することになっていた」

「一九三九年に、所得申告を行なったアメリカ人は四〇〇万人に及ばなかったのである。そして徴収された所得税の総額は一〇億ドルで、これは課税対象となる所得の全米の総額の、およそ四%に相当する金額だった」

「たとえばフリードマン夫妻は、当時アメリカで上から二%以内という高額所得者だったが、彼らが支払う所得税は一一九ドルで、課税所得の二%よりもすくなかった。夫妻の総額を、一九五五年以前の連邦税の申告期限の三月一五日までにまとめて支払うことに、何の痛痒も感じなかったのである。ところがフリードマンが構想した税制改革に従えば、フリードマン夫妻の支払う金額は、課税所得の二三%に相当する一七〇四ドルになったはずだ。財務省がより多くの税金を徴収したいのであれば、それだけの金が家計に残っているか否かがわからない翌年を待つのではなしに、所得が発生した時点で税金を徴収することが必要なのは明白だった」

「この問題に対するフリードマンの解決策は、税金を所得の『源泉』で掬い取るというものだった」

 

「アメリカは建国以後初めて、国民全体を覆う所得税の制度を打ち立てたのだった」

「一九三九年には年収三〇〇〇ドルの四人家族は所得税を支払わなくてよかったが、一九四四年には二七五ドルを徴収されることになった。年収五〇〇〇ドルの四人家族であれば、四八ドルから七五五ドルへの増税である。年収一〇万ドルの富裕な家族の場合は、三四三ドルから二二四五ドルへと納税額が跳ね上がった。一九三九年には、所得税の税収は全個人所得の一%強でしかなかった。それが一九四五年には、一一%と飛躍的に増えている」

「フリードマンの戦時の努力の成果の中で、最も持続的なものは、「巨大な力を誇る歳入調達の機構」を創りあげたことだった」

「源泉徴収制度によって、納税者の苦痛はぐっと軽くなっていた」

「税収額の大変動が自動化されたことだった。経済が停滞すれば税収は落ち込み、経済が上向けば税収は急増するようになったのだ。不況の際には歳出増か歳入減による景気刺激を、そして好況時には歳出減か歳入増による景気抑制をというケインズ的な景気調整が、自動的になされるのである」

 

「ここに一抹の皮肉があるとすれば、やがて一九八〇年代、レーガン政権下のアメリカにおいて、低い税率と小さな政府の守護聖人となったミルトン・フリードマンが、遠い昔の一九四〇年代においては、そのような財政機構の生みの親だったという事実だろう」

 

経済学者に求められるのは、第一義的には、目の前にある現実の社会の経済問題を分析して、経済政策を提案することだろう。歴史的事実から、かつての経済問題や経済政策の研究も経済学として大切なことだが、時の経済状況に適切に対処する経済理論だからこそ、一つの時代を画すことになる。それはアダム・スミスでも、マルクスでもケインズにも言える。幸か不幸か彼らは一つの社会経済状況を分析したが、フリードマンははじめはケインジアンとして、二度目はマネタリストとして、二つの社会経済状況に対峙した。

提案した経済政策が社会のどの階層にとってのものかという問題を重要視する人たちもいるが、それは全ての経済政策についてまわるもので、フリードマンがという話にはならない。

 

フリードマンについては、ウィキペディアにも次の記載がある。

「古典派経済学とマネタリズム、市場原理主義・金融資本主義を主張しケインズ的総需要管理政策を批判した。ケインズ経済学からの転向者」

 

転向者? フリードマンは時代の要請に従って経済理論を突き詰めて、経済政策を主張しただけではないのか。ケインズ経済学が求められた時代にはケインジアンとして、そしてアメリカが製造業を基盤とした社会からイノベーションを基盤とした社会に移行し、ベトナム戦争とオイルショックで垂れ流した浮遊ドル資産をどう活用するかという社会に変貌した時にはマネタリストとして経済理論を主張したということではないのか。時代の要請に応えることこそが、経済学者に求められることであって、フリードマンはそれを実践した。それをもってして、転向者はないだろう。

 

需要と供給という経済理論が経済学にも働いている。この経済学の常識が経済理論には働いていないというほうがおかしい。二十一世紀にもなって、アダム・スミスの経済理論でもなければ、マルクスの資本論を墨守することでもない。と思うのは素人だからか?

 

p.s.

なんとかかんとか経済学者ではなくて、経済学者なら時の要請に応えきれない教義に拘泥することなく、現実に対応しようとされるんじゃないかと思うんですけど。ほら、中国の故事にもいうじゃないですか。「君子豹変、小人革面」

2020/9/15

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion10115:200915〕