「青木昌彦・姫岡玲治を偲ぶ会」に出席した。所は明治大学自由塔1階、時は平成27年9月14日。昭和35年(1960年)安保闘争の55年後、平成安保闘争たけなわの頃であった。私も会の話者であった。
会の主催者は、元社学同委員長、元共産同(ブント)政治局員、元東大自治会中央委員長等であった。
私は、彼等と同世代であって、青木昌彦氏とは多少の接点があったにせよ、1959-60年の安保闘争における立場には大きな落差があった。代々木派とブント派という党派・イデオロギーの相違ではない。将官と兵隊の差であった。「偲ぶ会」の主催者達も偲ばれる青木・姫岡氏も軍隊で言えば、参謀本部であった。私達兵隊は、「何日、何時、何処に集まって、何処へ向ってデモをする!」の指令を受け、それを喜んで主体的に実行した。しかしながら、軍隊のようなヒエラルキー上下の命令で動いたわけではなく、学生自治会のクラス討論や学生大会決議と言った正統性装置を通過する形のブントによる指導であった。いわゆる「ボリシェヴィキ選挙」もかかる雰囲気の中で行われたのであろう。
ブント全学連の活躍に世間の注目が集まり、世田谷や杉並の主婦の集まりから東大駒場自治会へ反安保闘争の根拠や目的を説明に来て欲しいと言う要望があると、代々木系からは誰それ、ブント系からは私と連れ立って、主婦のサークルで語ったこともあった。私自身は、代々木系にもブント系にも組織的に所属していなかったが、ブント系デモは皆勤で、代々木系デモには零参加だったので、人員不足に苦しんでいたブント活動家に代役を頼まれたわけだった。
59-60年の反安保のブント系デモでは毎回最前線であった。そこで驚いたことには、ブントによる現場の具体的なデモ指揮が全くなかった。すべて現場の兵隊達の個別判断にまかされていた。60年1月15-16日、羽田空港闘争の時、「岸渡米阻止、羽田へ」と指示されたが、羽田で何をするのか、全く分かっていなかった。まさか、羽田空港ビル内レストランにたてこもるとは。これは成り行きだ。そこで参謀本部総長格の青木等何十名が逮捕された。私達兵隊も警官隊に確保され、警察車両に放り込まれて、空港から遠く離れた所で、文字通り捨てられた。雨の中だった。4月25日の国会前装甲車乗り越え闘争の後、5月に首相官邸デモではデモ隊の前方に尾部に垂直高板を打ちつけた警察車両がたちふさがって、はしごなしでは乗り越えることも出来ず、ただただ高板の前で呆然。
かかるブント・デモの諸体験が私に現場における進退判断能力をいつのまにか育ててくれていた。私がユーゴスラヴィア自主管理社会主義の研究に入って、25年目位にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国が解体して、その後10年間戦乱の時代に入った。私は、その頃、国立大学に勤務していたが、あえて内戦中のクロアチアやボスニア・ヘルツェゴヴィナに入った。ユーゴ連邦軍とクロアチア軍の激戦で廃墟になったヴコヴァルを通るバスにとび乗り、人影無きヴコヴァルにたった一人降りた時の悟りに似た感覚。ヘルツェゴヴィナの町モスタルでクロアチア人軍とムスリム人軍の停戦地帯で三人のムスリム人兵士にカラシニコフ銃を胸につきつけられて、廃墟と化したホテル・ルージュの半地下室に連れ込まれた時の悟りに似た感覚。モンテネグロ国境近くのヘルツェゴヴィナの山中で、セルビア人バスから私一人下車を命ぜられ、重武装のセルビア人兵士三人に囲まれ、バスは発車してしまい、山奥に一対三の対峙になった時の悟りに似た感覚。
若き私が60年安保の時、社会党・共産党・総評指導の国民会議デモや代々木系自治会デモにだけ参加していたならば、内戦地域へ旅する決断も出来なかったろう。上述したような個人的危険(?)状態になって、それなりに慌てふためくことなく、対応することも出来なかったであろう。
BUND参謀本部が優秀な下士官をもたず、すべてを現場兵隊まかせだった事によって、個人的進退判断力が私の中に生まれた次第である。但し、私の25年にわたるユーゴスラヴィア研究の成果として、「何日、何時、何処に、何処へ」を自己決定する能力が出来ていた次第でもある。
平成27年9月27日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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