プーチン訪日前のロシア情勢 (1)

ウクライナ危機をめぐって、日欧米のマスメディアのロシア報道がまったくいい加減であったことは拙著『ウクライナ・ゲート』や『ウクライナ2.0』(いずれも社会評論社刊)で詳述した(1) (註は各回の考察の最後に収載する)。それにもかかわらず、なんの反省もしているとは思えないマスメディアは、今度はウラジミル・プーチンの訪日をめぐって誤謬に充ちた報道を垂れ流すことにならないかと、心を痛めている。

そうした懸念から、すでに「ロシアの特殊性」(上下)と題して、このサイトにおいてロシアの本質を論じた。今回は、プーチン訪日前のロシア情勢を考察し、お粗末であろうと予想されるマスメディアの報道に惑わされることのないように注意喚起したい。

 

まずは予想:北方領土問題

12月の日ロ首脳会談では、うまくすれば「2島返還プラスアルファ」が決まることになるだろう。その中身までは予測不能だが、日本政府が4島一括返還を断念し、現実路線に舵を切ることは確実であろう。プラスアルファ部分として、国後・択捉の共同利用や、島に属する領海・排他的経済水域の線引きの工夫が考えられる(詳しくは岩下明裕著『北方領土問題』)。衆院選に打って出ることで4島返還論者をねじ伏せようとしているかにみえる。しかし、悲観的な予測をすれば、4島への日本の潜在的主権があることを確認する程度でお茶を濁すだけだろう。この場合には、衆院解散は難しくなるかもしれない。

問題はこの北方問題解決策をどう理解するかである。そのためには、日本側の事情とロシア側の思惑に分けて考察しなければならないが、ここでは後者を中心に論じたい(2)。おそらく安倍晋三首相や外務省は、原油価格の下落や経済制裁に苦しむロシアへの経済支援を背景にロシア側の譲歩を勝ち取ったかのような喧伝をするのではないか。だが、この主張の根拠は見当たらない。

もっとも重要な焦点は中国問題である。北朝鮮による核武装の本格化する北東アジアにおける安全保障問題を考えると、日本とロシアがいつまでも領土問題で角付き合って平和友好条約のない状況にあるのは、対中戦略上、明らかにマイナスだ。のちに考察するように、中ロ関係はウクライナ危機後の日欧米による対ロ制裁によって、ますます太い絆で結ばれつつある。これを放置すれば、中ロによる国際政治上の横暴が拡散することになるだろう。日本はロシアとの一定の友好関係を確立し、ロシアの中国への傾斜に歯止めをかける必要がある。それは、米国政府を説得する材料になる。なにしろ、北東アジアの平和安定に資する可能性が高いのだから。

他方、プーチンは日本との関係改善が中国を刺激することになることを百も承知だ。むしろ、日本と中国とを対ロ協力で競わせることで自国の利益につなげる算段であろう。ここで重要なのは、ロシア側の対日姿勢をくみ取り、そのニーズに合った姿勢をとることだろう。なにしろ、プーチンを納得させなければ、北方領土は1島たりとも戻ってこないのだから。

懸念されるのは、日本政府内部や日本企業のなかには、「経済支援をしてやることで、ロシアを納得させる」といった上から目線の思考しかできない者が少なからずいることだ。対ロ経済協力8項目についても後述するが、ロシアが必要としているのは「支援」ではなく、あくまで「協力」であることを決して忘れてはならない。

こうした理解を前提にして、ここでは(1)ロシアの政治情勢、(2)ロシアの経済情勢、(3)日ロの経済協力の三つの論点について検討してみたい。

 

(1)ロシアの政治情勢

 

プーチンは孤高を深めている。不可思議に思えるかもしれないが、対外関係だけでなく、国内でも同じ状況にある。まず、国内の話からはじめよう。

 

国内で孤立するプーチン

2016年8月、盟友セルゲイ・イワノフ大統領府長官が辞意をプーチンに伝え、プーチンはこれを認めざるをえなかった。2014年11月、息子アレクサンドルがアラブ首相国連邦で溺死して以来、すっかり精神的にまいったイワノフはついに大統領府長官の要職を手放すことにしたわけである(3)。イワノフは安全保障会議のメンバーとしてとどまり、自然保護などの大統領特別代表にも任命されたが、もう毎日のようにプーチンの話し相手になり、ロシアの内政・外交に多少とも影響をおよぼすことはなくなる。これが意味しているのは、プーチンがソ連国家保安局(KGB)時代からの盟友を失ったことであり、それはプーチンの孤独に拍車をかけたことになる。

大統領府の重要性は日本では十分に理解されていない。ロシアの「ホワイト・ハウス」と言えば、ロシア連邦政府ビルを指す。だが、政府は執行権をもつだけで、プーチン政権の実際の意思決定機関は元ソ連共産党中央委員会ビルにある大統領府なのである。ソ連時代、党中央委は最高意思決定機関であったのと同じ構図がいまのロシアでは大統領府に担われている。しかも、プーチンが2012年に大統領に再び就任して以降、大統領府の権限はますます強まっている。実は、大統領府の法的位置づけはきわめて曖昧で、それが大統領府による集権化を可能にしているのだ。憲法上、第83条の(i)項で、大統領の権限として、「大統領府を形成する」ことが規定されているだけであり、大統領府はやりたい放題なのである。

この重要機関のトップに、44歳のアントン・ヴァイノ大統領府副長官を昇格させる人事が公表された。ヴァイノはいわば、儀典関係の仕事から這い上がった官僚であり、プーチンの話し相手になれるような人物ではない。

興味深かったのは、この時点でヴァイノより高位にあったヴャチェスラフ・ヴォロディン第一副長官の処遇である。実は、彼はプーチンの懐刀として急成長しつつある人物であり、彼が長官ポストに就いても不思議ではなかった(4)

その答えは、9月18日の下院選後になって行われた人事で明かされた。これまで下院議長として一定の成果を果たしてきたセルゲイ・ナルィシュキンを対外諜報局の長官に転じさせ、ヴォロディンを議長に据えようというのだ。対外諜報局長官だったミハイル・フラトコフは国営のロシア鉄道会長(取締役会議長)に就任する。この人事の意味合いを正確に知るだけの資料はないが、イワノフの大統領府長官辞任でプーチン周辺が大きく変化したのは間違いない(5)。それはプーチンの孤独をいっそう深めるものとなったはずである。

実は、イワノフはかつて、ドミトリー・メドヴェージェフ現首相との間で、プーチン2期後の大統領のポストを争った。プーチンの推挙で大統領になったのはメドヴェージェフのほうだった。憲法上、3選は認められていないから、プーチン自身は首相に就任し、事実上、「院政」を敷いたと解釈されることが多い。だが、実際には、メドヴェージェフがプーチンに相談することなく、重要決定を行っていた。しかも、その結果、二人の間にはいまでも決定的な溝があり、それはいまでも癒えていない。つまり、プーチンはメドヴェージェフとも一線を画しており、孤高な状態にあると断言できる。

二人のぎくしゃくした関係はまず、メドヴェージェフ大統領就任間もない2008年8月の「五日間戦争」と呼ばれる南オセチアの領有権をめぐるロシアとジョージア(当時、グルジア)との戦闘において、彼がプーチンに相談することなく8日、「作戦開始」を命じたところからはじまった。ジョージアのサーカシヴィリ大統領(当時)が7日夜、南オセチアの都ツヒンヴァリ侵攻を命じたことへの応戦であった。8日は北京オリンピックの開催日であったから、プーチンは北京に滞在していた。そんなことも二人の相談を難しくしたのかもしれないが、ともかくもメドヴェージェフは決してプーチンの操り人形ではなかったのである。それを決定的に示したのが、リビア空爆を認める国連決議をメドヴェージェフ大統領(当時)が認めたことだった。首相だったプーチンは自分に外交権限がないことを承知のうえで、この政策が誤りであることをあえてテレビ画面を通じて厳しく非難した。プーチンが懸念したとおり、カダフィ大佐は空爆を機に追い詰められ、ついには2011年10月、殺害されるに至る。

プーチンがメドヴェージェフに不信感をもったのは明らかだ。それでも、メドヴェージェフはプーチンの操り人形ではなかったから、自らの再選をめざして新党創設を画策するなど、さまざまの動きを行ったことが知られている。彼は「ロシアの近代化」をキーワードにして、欧米との協調路線をとろうとしたのだが、国家最優先の国粋主義者の露骨な反発に遭い、もはや国民からも見放されてしまう。その証拠に、彼の肩入れでつくられた新党はミハイル・プロホロフという政商(オネクシムグループを率いる)の資金をテコにつくられた「プラーヴォエ・ジェーラ」(ライト運動)にすぎない。プロホロフは大金持ちだが、2007年1月、売春婦斡旋の罪でフランス警察に逮捕された経歴をもつ人物だ。こんな人物を代表とする政党を支援してみても、国民から支持を得られないのは当然だろう。

これに対して、プーチンは与党、「統一ロシア」があるにもかかわらず、「全ロ人民戦線」の創設を支援した。2011年の下院選の前のことだ。これは、反政府運動のリーダー的な存在であるアレクセイ・ナヴァーリヌイが統一ロシアを「詐欺師と強盗の党」と呼び、統一ロシアの人気が揺らぐなかで、労働組合員などを組織化することに成功した。これは、新党をつくって2期目をめざしたメドヴェージェフへの当てつけという面を色濃くもっていたのである。

こうした経緯からみて、プーチンがメドヴェージェフを見限るのは時間の問題とみられている。幸か不幸か、後任はアレクセイ・クドリンが有力視されている。彼は、プーチンがモスクワで職探しをした際、自宅の食堂に折り畳みベッドを用意して親身になって就職の世話をしたことで知られている。その彼は、2011年9月、メドヴェージェフ首相誕生後の内閣では働けないとの発言をし、副首相兼財務相を辞めた。メドヴェージェフと対峙する姿勢を鮮明に示し、いったんはプーチンとの関係も冷え込んだとみられていた。しかし、2016年1月、プーチンはマスメディア幹部との秘密会合で、「クドリンと毎日のように電話で話している」と語り、二人の関係修復がなされていることが明らかになった。同年4月、彼は大統領付属経済会議副議長に任命され、公的地位も復活した。孤高を深めるプーチンにとって、クドリンが救いになるのかもしれない。

脚注

(1) 日欧米のマスメディア報道はロシアによるクリミア併合だけを問題視するばかりで、そもそもウクライナ西部のナショナリストを煽動し、暴力によって民主的に選ばれていたヴィクトル・ヤヌコヴィッチ大統領を追い落とした米国政府の行為をなんら批判していない。この事実をしっかりと認識しなければ、プーチンが米国の姿勢に激怒した理由がまったくわからないだろう。事実を正確に報道することすら、日欧米のマスメディアはできないことをはっきりと証明したことになる。ついでに言えば、専門家と呼ばれる連中の多くもまた真実を語らず、虚言を吐いているにすぎないことがわかったはずだ。具体的名前については拙著『ウクライナ2.0』で披歴しているから、参考にしてほしい。

(2) 国内事情について大雑把に言えば、日本の左翼だけでなく右翼もまた、その勢力を弱体化させてきた。それが北方領土問題を解決に導く環境を整えている。4島一括返還でなければダメといった原則論に固執する右翼の反発を怖れる必要がなくなっているのだ。

(3) アレクサンドルは2005年5月、モスクワで68歳の老女をVWで轢き殺した過去がある。結局、刑事事件化は途中で見送られた。

(4) ヴォロディンはサラトフ州副知事から統一ロシアを経て2010年に副首相兼政府官房長になり、2011年5月から全ロ人民戦線参謀本部長に転じ、同年12月から大統領府第一副長官に就任していた。彼は「ストラテジスト」と呼ばれる「策謀家」で、プーチンの命令で政治的戦略を練る役割を果たすようになっている。いわばウラディスラフ・スルコフに代わる存在として重宝されるようになっている(スルコフは2012年5月、プーチン大統領のもとで副首相兼政府官房長になり、2013年5月にいったん解任されながら、同年9月、南オセチアなどを担当する補佐官として復帰、その後、ウクライナ東部をめぐる問題に従事しているが、メドヴェージェフに近くなりすぎているとみられる)。

(5) この一連の人事の解釈を困難にしているのは、ナルィシュキンの対外諜報局長官への転出である。フラトコフ長官は元首相でもあり、このポストは決して軽いものではない。それどころか、2017年にも、いまの連邦保安局と対外諜報局などを合併させてロシア国家安全保障省を創設するとの見方があり、このKGB復活を意味する新機関のトップにナルィシュキンを据える可能性がある。彼は、KGB出身の経歴をもち、こうした憶測が実現しないともかぎらない。ゆえに、今回の人事の読み解きは難しいのである。

 

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