ヘーゲル法哲学研究  ―回顧と展望―(3.12現代史研レジュメ)

はじめに

ヘーゲル研究は、とくに七〇年代以降、資料そして同時代の影響史の面での成果をふまえて、形成史的研究の面で充実を見せてきた。ヘーゲルが『精神現象学』を執筆する以前のイェーナ時代は、ヘーゲルが、同時代の哲学的影響関係のなかでみずからの哲学を形成する大変重要な時期であるが、この時期の資料も整い、そして法哲学研究の方面では、一九七三年、七四年に、ベルリン大学時代の法哲学講義の筆記録がイルティングによって公刊されたのを皮切りに、八〇年代に入り、ハイデルベルク大学時代の法哲学講義の筆記録、さらにベルリン時代のほかの年度の講義筆記録が公刊されて、ヘーゲル法哲学研究をめぐる環境が、整うにいたった。その分、テキストとしての『法(権利)の哲学』を読みこなして、ヘーゲル法哲学の思想像を作るという旧来の研究姿勢から、形成史ならびに同時代の影響史を重視する研究姿勢へと軸足が移ってきた。『法(権利)の哲学』は人間の実践的領域全体に関わる包括的な理論という性格をもっているがゆえに、それだけ今日的な問題関心から読み解く試みがなされている。こういう中で、さまざまな研究が現れてきたが、ヘーゲル法哲学の思想像という点では、旧態を引きずってきたように見受けられる。ヘーゲル法哲学の思想像を刷新して、新たな読みの可能性を開くという点で、めぼしいものが見当たらない。なぜ研究の環境が良くなったのに、一般に流布しているようなヘーゲル法哲学の思想像の追認に終わっているのか、このことをよく考えておく必要がある。筆者は、二〇〇七年に新しい読解の方向性を打ち出し、ひいては現代に生きる古典として描きだしたいという思いをもって、ヘーゲル法哲学に関する研究書を公刊した。これまでのヘーゲル法哲学研究について感じてきた問題点と、これからの研究に求められる視点について、ここで整理してみよう。

 

一 ヘーゲル『法(権利)の哲学』の思想像をめぐり―ハイムの呪縛

 

ヘーゲルの『法(権利)の哲学』(一八二〇年)は、出版以来さまざまな批判と評価を生みだしてきた。後世に大きな思想的影響を与えながら、これほど毀誉褒貶にさられた書物もめずらしいであろう。

一八四八年革命以降、思潮が大きく変わる中でヘーゲル哲学は急速に影響力を失っていく。そして四八年革命ののち、プロイセンの反動化が進む中で、R・ハイム『ヘーゲルとその時代』(一八五七年)は、『法(権利)の哲学』を、この反動プロイセンのありようと重ねあわせて、その精神を定式化する国家哲学として描き出した。このイメージがのちのちまで影響力をもつことになる。二〇世紀に入り、ワイマール時代の国家学者H・ヘラーは、『ヘーゲルとドイツにおける国民的権力国家思想』(一九二一年)で、このイメージにそって、権力国家の思想家としてヘーゲルを描きだした。さらにK・ポッパー『開かれた社会とその敵』(一九四五年)は、ヘーゲル哲学を、個人の自由を否定するプラトン以来の全体主義の正統な嫡子であり、ヒトラーに行きつくプロイセン主義の体現とまで見た。このように反動プロイセンの国家哲学というイメージは、長く呪縛となったのであった。

しかし、この呪縛を解こうとする動きがなかったわけではない。H・マルクーゼ『理性と革命』(一九四一年)は、ヘーゲルの哲学的核心を理性と自由に見て、ヘーゲルが近代社会の矛盾をとらえ、それを越えるべく国家論を構想していること、そこには官憲国家的な制約があるとしても、将来社会の見取り図となりうる要素があることを指摘した。英語圏では、『法(権利)の哲学』を英訳したT・M・ノックスが「ヘーゲルとプロイセン主義」(一八四二年)で、ヘーゲル法哲学を、プロイセントゥームの国家哲学というイメージから解き放とうとした。

こういう呪縛を離れた研究が登場するようになるのは、第二次世界戦後しばらくしてからであった。J・リッター『ヘーゲルとフランス革命』(一九五七年)は、自由をヘーゲル哲学の根本問題として、フランス革命が提起した自由の問題に、近代社会が分裂の傾向を示すなかで、正面から取り組んだヘーゲルという思想像を提出した。あるいは、M・リーデル『ヘーゲル法哲学研究』(一九六九年)は、近代社会における政治的解放の問題を、市民社会の問題に立ち返って、これら二つの面を包括する理論をめざすというヘーゲル像を描きだした。あるいは、S・アヴィネリ『ヘーゲルの近代国家論』(一九七二年)は、ヘーゲルが近代社会の肯定的評価の上に、個人‐中間の諸集団‐国家からなる多元主義的な国家像を構想しているさまを描きだした。このようにヘーゲル法哲学の基本的なモチーフあるいは読みの可能性について、問い返しがおこなわれるようになった。(ところで、一九七〇年は、ヘーゲル生誕二〇〇年であった。『思想』や『理想』がヘーゲル特集を組んだが、そこにヘーゲル法哲学についての論文は見当たらない。)

 

二 テキストと講義という問題―イルティングの提起

 

ヘーゲル法哲学研究にはいくつか争点があったが、それらについて突きつめた検討が行われてこなかった。イルティングはそういう反省をもって、ある問題を提起した。これまでのヘーゲル法哲学研究は、『法(権利)の哲学』と補遺の区別、つまりテキストと講義内容についてあまりに無自覚であったと言う。イルティングは、テキストと補遺との相違をふまえて、『法(権利)の哲学』のリベラルな解釈を打ち出そうとした。

テキストと補遺の問題については、先にあげたR・ハイムの『ヘーゲルとその時代』にも見ることができる。君主権に関して、二七九節、二八〇節では「最終の自己規定の意志」に関わる論点が出ているとともに、補遺には「完成した国家組織においては、形式的決定をおこなう頂点が大切である」という論点が出てくる。ハイムはこの補遺を無視するかたちで、『法(権利)の哲学』は主体性の原理を基調にしながら、この着想を最後まで貫くことなく、普遍性・実体を過剰評価する立場に立ち返ってしまうと批判していた。あるいはF・ローゼンツヴァイクは、以上の個所を念頭において、君主権の中に、体系の上で「国家の活動の源泉」であるとともに、同時に実践的には「ほとんど内容をもたない『形式的意志』」という「深い思想的矛盾」を読み取った(『ヘーゲルと国家』一九二〇年)。

イルティングによると、このような理解はヘーゲルのテキストと補遺をしかるべく区別しないところから生まれてくる。この無自覚こそがこれまでの研究を支配してきたものだと言う。

こうして、ヘーゲル法哲学研究史のなかで、初めてテキストと補遺というテーマが立てられるようになった。そもそも『法(権利)の哲学』は、講義のための手引書として書かれたものであり、本来、講義を前提としていたものであった。イルティングの指摘にはしかるべき正当性がある。そうしてイルティングは、一八二二/二三年法哲学講義筆記録(ホトー)、一八二四/二五年法哲学講義筆記録(グリースハイム)を公刊した。

補遺は、E・ガンスがベルリン版ヘーゲル全集の『法(権利)の哲学』(一八三三年)に、今あげた講義筆記録からピックアップして、該当する節に付け足したものである。一八三九年に保守派の論客K・F・シューバルトは、完成した国家組織では君主は最後のピリオドを打ちさえすればよいという論点を見とがめて、ヘーゲルの立憲主義は「君主主義的な見かけをもつ共和制」と、批判することになる。それは、二八〇節の補遺(ホトー筆記録から採録)にある論点を念頭においている。「君主権」はテキストの出版当初から、ヘーゲルの国家像をめぐる争点のひとつであった。そこにはテキストと補遺の差異という問題がすでに立ち現れていた。しかし、イルティングの言うように、この問題に対する無自覚が続いた。先にあげたF・ローゼンツヴァイク『ヘーゲルと国家』が、「全体の絶対的に決定を下す契機」(二七九節本文)と先の論点との差異を「深い思想的矛盾」としたことも、その証左であろう。

イルティングによれば、テキストと講義との差異は、他の論点にも見られる。一八/一九年講義序文は、「一八一八年の歴史的現実がまだヨーロッパ諸国における自由の実現を示していない」と見ていたのに対して、二〇年の『法(権利)の哲学』序文は「歴史的発展の目標が達成されているかのような印象を呼び起こそうとしている。」それは理性‐現実性テーゼに現れていて、「現実との平穏を維持し」「現実との和解」を教える。あるいは、自然法理論についても『法(権利)の哲学』と講義では、食い違いがある。一八/一九年講義(ホーマイヤー)で、「ヘーゲルは実質的な自然法と実質的な実定法との間には矛盾がありうることを教えている」のに対して、『法(権利)の哲学』では、この対立は間接的に言及されているにすぎない、と指摘する。

 

三 講義筆記録の公刊は、新たな読みの可能性をもたらしたか

 

イルティングは、このような差異をテキストと講義に見られた差異を、ウィーン体制下でのカールスバート決議に見られるような、またヘーゲル自身にかけられた嫌疑など、当時の困難な政治状況から生じていると見た。「ヘーゲルはこの点で『法(権利)の哲学』という一八二〇年に刊行されたテキストとは違ったとらえ方を、この公刊の前後で表明していた。このことに疑う余地はない」と言う。

とくに、君主権の問題は、ヘーゲル法哲学を読み解く上で、長らくつまずきの石であった。イルティングは、『法(権利)の哲学』刊行当時の政治状況を背景において、それを「政治的な、立場転換」の産物としてとらえ、本来の思想をテキストの中にではなく、講義のなかに見た。こうしてテキストと補遺の「矛盾」を失効させて、議院内閣制を基調とするリベラルな国家像を読み取る。イルティングは、さらに原法哲学というべきものを探る上で、重要な文献である一八一七/一八年講義筆記録(ヴァンネンマン)を一九八三年に公刊し、「立憲君主制」について、この講義と、同時代フランスの立憲主義とのつながりを指摘して、ヘーゲル法哲学のリベラルな解釈を補強した。ここに同時代の立憲主義をめぐる思想的影響関係という問題も浮かび上がることとなった。

このようなイルティング説に対して、さまざまな反応が現れた。そこでは、カールスバート決議(一八一九年九月二〇日発効)に示される政治状況を前にして、ヘーゲルが原‐原稿に手を入れて書き換えをおこなったという主張は妥当性をもたない(ルーカス/ラマイル)、「政治的な立場転換」の意味がどのレベルのものか明確になっていない(ホルストマン)、講義筆記録を視野に入れても、最終的意志決定の契機としての「君主権」の優位に変化はなく、ヘーゲル法哲学の「リベラル」性には限界がある(ジープ)など、イルティング説に批判的な見解が示された。そもそもテキストと講義には本質的な差異があるのか(ホルストマン)ということも提起された。

イルティングはテキストと講義との差異という問題を通して、旧来のヘーゲル法哲学の読解に対して、それを突き崩し、より積極的な読解を提示するというねらいをもっていた。このことは銘記されなければならない(イルティングが指摘したプロイセンの当時の政治的状況が『法(権利)の哲学』執筆に与えた影響という問題、また一八一七/一八年法哲学講義に見られる同時代のフランス立憲主義との関連という問題は、イルティングの提起した重要な問題であり続けるであろう)。しかしながら、残念なことに、このような批判的見解から、ヘーゲル法哲学の積極的な読解というものは立ち現われてきていない。

イルティングが講義筆記録を公刊して以来、一九八三年には、ハイデルベルク大学での法哲学講義―これは一八〇七年の『精神現象学』に実を結ぶイェーナ時代におこなわれた精神哲学の講義以降、体系的な最初の法哲学講義である―が、イルティング版とペゲラー版で刊行された。また『法(権利)の哲学』の準備が進む時期にあたる一八一九・二〇年冬学期ベルリン大学での法哲学講義も同じ年にD.ヘンリッヒによって刊行された。二〇〇五年には、『法(権利)の哲学』が刊行された直後の一八二一・二二年冬学期の法哲学講義も刊行されている。ヘーゲル法哲学研究をめぐる環境は、こうして整ってきたが、そこから旧来の読解の水準を超えるものは、残念ながら出てきてはいない。たとえば一八一七・一八年のハイデルベルク大学での法哲学講義を刊行したペゲラーは、その解説で次のように述べる。

「ヘーゲルの体系構成は、閉じているようにみえるけれども、本当は未解決の諸問題に対して開かれているのである。また、変転する周りの世界にヘーゲルが配慮しなければならなかったということも、見過ごすことができない。ヘーゲルは、ハイデルベルクでは、ヴュルテンベルクの書記身分に目を向けて、官吏の恣意と闘う。プロイセンでは、この国家が行政管理に関して何とか統一を獲得しなければならないことを考慮しなければならない。世襲君主制を際立たせ、またそれをもっぱら制度として際立たせる困難な企てに取り組むなかで、ヘーゲルは、骨董品のなかに巻き込まれる。ヘーゲル法哲学の本来のアクチュアリティを意図的に隠蔽するつもりがないならば、今日これらの骨董品はそっとしておかれねばならないのである。」

ペゲラーは、ヘーゲル法哲学の発展史を、時代との格闘あるいは思想史的な影響関係のなかで手際よく描きだしている。しかし、そこからは、結局のところ君主権論も含めて、新しい読みの可能性は、出てきていない。

ヘーゲル法哲学に、形成史的なアプローチをおこなうのに十分な環境ができてきた。また同時代の問題状況あるいは思想的な影響関係なども検討できる状況も生まれてきた。しかし、このような状況が生まれても、ヘーゲル法哲学の思想像全体の再検討という作業が進んだわけではなかった。

 

四 多様な解釈、そして読みの可能性―一九世紀

 

このように見てくると、今日でも次のような思想像が払拭されていない。つまり、ヘーゲルは市民社会論で個人の自由と権利という問題を見据えて、社会的公正や公共圏の問題を取りあげ、さらに市民社会の内在的な目的として政治的国家を立てる。ところが結局ヘーゲルは市民的自由と権利、あるいは市民的政治能力に限界を設けて、市民社会を国家へと回収し、国家を個人に対する不動の実体的意志に仕立て上げる。さらにヘーゲルの描きだす「立憲君主制」は「君主権」という「復古的」要素を残しており、時代に順応した所産にほかならない。そして、その底流には、いわゆる「精神」のモノローグ的展開のなかで、個別意志に対する実体的意志の優位という観点が一貫したものとなっている。イルティングは、とりわけ君主権論を、ヘーゲル法哲学の争点として、その再検討を通して思想像の変換を試みたこと、このことは銘記しておく必要がある。

ここで、ヘーゲル存命中の、そして没後程ない時期の、『法(権利)の哲学』への反応をふりかえってみると、ハイム以降、幅が狭まった読解と対照的に、実に多様な反応がでている。いくつか取り出してみよう。

ハイムその人に立ち返ってみると、ハイムはけっしてヘーゲルをプロイセントゥームの擁護者として描きだそうとしたのではなかった。ハイムのみるところ、ウィーン体制のもと、改革の時代が後退し、復古の精神がまいもどり、自由主義的な思想、制度と、古い絶対主義の残存物が併存している。一八一五年のプロイセン国王による憲法公約が履行されるか撤回されるか、時代状況そのものが優柔不断のうちにある。ヘーゲルの法哲学は、この時代の優柔不断とヘーゲル自身の優柔不断を表現するものだ、というのが、ハイムの見立てであった。その点から言うと、プロイセンの国家哲学者というレッテルは、あまりにも独り歩きしてしまった。ハイムは、自由主義に対するヘーゲルによる批判に批判的ありはすれ、それでも次のような評価を残している。

「ヘーゲル国家論の主要な功績と本来の価値は、古代の、とりわけローマの硬直した絶対主義に対して、さらにはしかしフランス国家のアトミズムと機械論に対して有機的なものの概念を救った点にある。」国家は上から下へと抽象的普遍から統治するものではない。地方自治団体のなかに国家の本来の強さがある。こうした点にハイムは評価を与えます。それだけではありません。「この国家概念の捉え方のなかに、深い真理内容が隠れているだけではない。真に政治的な実践の精神が、もちろん本来の蛹の状態でわれわれに立ち現れている。・・・スコラ的に誤って描かれた描像のなかでヘーゲルの国家論は真の政治の本質を表現している。」

あるいは、保守派の論客シュタールはこう指摘する。ヘーゲル哲学は理性主義の完成であって、国家は概念の展開から生じている、どの概念も止揚されて、それ自身のために存在することがない。自由は、人格による自由ではなく、思考法則の自由が支配する、と。今日でもこのような読み方はなお見かけるのではなかろうか。

あるいは、保守派のシューバルトによれば、

「立憲君主制国家は、君主主義的な見かけをもつ共和制である。・・・ヘーゲルは君主を『然り』と言うたんなる形式的性質と機能に制限する立憲的国家の概念に従ってまったく首尾一貫してふるまう。立憲的国家において君主は国家の実体ではなく、むしろ実体は、家族やさまざまな身分階層やコルポラツィオーン、職業別団体などに分節化していく市民社会のような、相異なる個々の有機的領域を総括することによって形成されるものであるからである。」このような読み方は、アヴィネリの多元的国家論を思い起こさせる。さらにシューバルトは、ヘーゲルの成熟した国家、成熟していない国家という発言に対して(ホト―講義)、それは「反逆と反乱の要求である」と言う。

一九世紀の読み方の幅の広さは、その後の、ヘーゲル『法(権利)の哲学』の読みの狭さを反省するよい手がかりになるであろう。

 

五 ヘーゲル法哲学研究の問題点

 

さて、研究の条件が整うなかで、『法(権利)の哲学』というテキストを読み解くためには、このテキストを読むだけでは決定的に不十分である、ヘーゲル法哲学の豊かな内容を読み解くためには、同時代を含む広い思想史的視野が必要だという姿勢が共有されるようになった。しかし積極的な読みの可能性が出てこない。ここにはどのような問題があるのか。

 

(1)イェーナ時代の形成史的研究

この時期の法哲学的思索の検討を通して、ヘーゲルが、古典的ポリース論、近代自然法、ルソー、カント、フィヒテなどの理論を、どのように受けとめ、あるいは批判しているかを、把握することができる。そして、この時期の思索の検討を通して、市民社会と政治的国家の関係について、ヘーゲル法哲学の原型が登場していることを確認する研究もあった(ホルストマン)。あるいは現代的な問題関心から、相互承認論に着目して、のちのヘーゲル法哲学とは別の展開の可能性があったとする研究も現れた(ハーバマス、ジープ)。しかしながら、ここからは、ヘーゲルはこの方面の展開をおこなわず、結局のところ精神のモノローグ的展開に帰着するという確認がなされたにすぎない。

たとえば、J・ハーバーマスは「労働と相互行為」(一九六七年)で、『イェーナ体系構想Ⅰ』(一八〇三/〇四年)の「精神哲学」に、モノローグ的な意識哲学とちがった相互承認を基軸とした立論を見てとり、ヘーゲル社会哲学の別の可能性をクローズアップしてみせようとした。しかし、ハーバーマスのみるところでは、『イェーナ体系構想Ⅲ』(一八〇五/〇六年)の「精神哲学」において、この相互承認論は主体間の相互承認を通じていくつかの水準にわたる承認のあり方と制度が成立する理路を論じながら、結局のところモノローグ的な〈精神〉の自己展開の一要素になり下がると言う。普遍意志があらかじめ個別意志に対して前提されている、そのために相互承認論が体系的な機能を果たせなくなっていると言う。イェーナ期後半に現れたこの可能性は挫折していると、L・ジープやA・ホーネットも見る。このような読解からは、のちにヘーゲルが体系化につとめた法哲学構想に対する積極的な読解は、生まれてきようもない。

 

(2)「君主権」論の呪縛

ヘーゲル法哲学の思想像を検討するときに、「立憲君主制」という問題が立ちはだかる。先ほどあげたペゲラーは、そこに「骨董品」をみてとった。今しがたあげたジープは、ハイデルベルク大学での一八一七・一八年冬学期の法哲学講義も含めて、後期ヘーゲルの法哲学の思想像について、次のように述べている。一七/一八年講義について、「ヘーゲルは一八二〇年よりも一八一七年に議会主義的君主制の『リベラルな』西ヨーロッパ的前段階に事実上かなり近づいていた。このことが目を引く。」(「ヘーゲルの権力分立の理論」一九八六年)君主は大臣の副署を必要とし、政府は議会の多数の支持を受ける必要がある。「しかしヘーゲルはブリテンの君主が議会に依存するさまを行き過ぎとしてしりぞける。また国民議会のための普通選挙の『フランス的抽象』に反論を加える。」この講義以降、有機的構成にもとづく君主権、統治権、立法権のなかで重心の移動があったにしても、ヘーゲルは「君主が最終的決定の権限をもつ」という頂点の優位のもとで諸権力を統合するという構想を、イェーナ時代以来「自分の法哲学的発展のあらゆる時期に固執してきた。」この点で、最もリベラルな一八一七・一八年講義も限界をもっていると言う。ペゲラーにとってもジープにとっても、新しく発見された講義筆記録は、なんらヘーゲル法哲学の思想像を再検討する素材とはならなかった。

先ほど、イルティングの問題提起について紹介しておいた。イルティングは、君主権をめぐる二面性を、テキストと講義、補遺の差異としてとらえて、講義に重心をおいて、この二面性の問題に解決を与えようとした。そしてリベラルな解釈を打ち出したのであった。しかも、イルティングは、ハイデルベルク大学法哲学講義の特徴を、当時のフランス立憲主義とヘーゲルとの影響関係を示すという点に見た。このつながりは、それまで憶測で指摘されていたにすぎないことであった。してみると、ヘーゲル法哲学の解釈上の足かせともいうべき、君主権論ならびに立憲君主制論をあらためて検討する上で、一八一七・一八年講義の意義は大きいにもかかわらず、イルティングの問題提起が正面から受け止められないままであったのである。そもそもヘーゲルの君主制論、立憲君主制論とはそもそもいかなるねらいをもつものなのか。ヘーゲル法哲学を読み解くには、この作業を避けるわけにはいかない。(この講義筆記録が刊行される前に、ニコーリンは、立憲君主制論のモチーフをさぐるためには、ハイデルベルク大学での一八一七・一八年講義筆記録の発見と刊行が必要と述べていた(一九七五年)。そして一九八二年に、セガは、ヘーゲルの立憲君主制論の成立とフランス立憲主義のつながりを、また執行権と君主権を区別するコンスタンの間接的な影響を指摘したところであった(C.Cega,Entscheidung und Schicksal:furstliche Gewalt,in:Hegels Philosohie des Rechts,Hrsg.von D.Henrich u. R.-P.Horstmann.Stuttgart.1982.) 。ヘーゲル没後ほどなく、ヘーゲル学派で法哲学方面の継承者であるガンスが、当時のフランス立憲主義とヘーゲルとの関連を、すでにベルリン大学での一八三二・三三年冬学期の法哲学講義で示唆していたことも銘記されてよい。

ヘーゲル自身は、『法(権利)の哲学』の二七三節で「国家が立憲君主制へと成熟していくことは、実体的理念が無限の形式を獲得した近代世界の業績(das Werk der neueren Welt)である」と述べ、二七九節注解で、そのメルクマールを「自己自身を規定する最終意志決定の契機は、国家の内在的な有機的契機としては、それだけで独自の現実性となって登場」する点に見ているが、この意味は概して問われることはなかった。

 

(3)意志論という立論のめざすもの

さて、『法(権利)の哲学』は、意志の展開というかたちをとる。この構成は、イェーナ時代の末尾をかざる、一八〇五・〇六年の『イェーナ体系構想Ⅲ』の精神哲学で初めてとられる。してみると、イェーナ時代の成果としての意志論が、後期ヘーゲルの法哲学的思索に引き継がれているのがよく分かる。ヘーゲル法哲学の基本的なモチーフをつかむ上で、なぜ意志論なのか、あるいは意志論は何をめざしているのか、この理解が不可欠になるはずであるが、なぜ意志論かということは、なぜか研究のテーマにされないままできた。この問題をきちんと探ってみると、ヘーゲル法哲学の思想史的な影響関係、つまりルソー、フィヒテのある種のモチーフの積極的継承という問題が、また知にもとづく共同体というヘーゲルのモチーフが明らかになるはずである。しかしながら、ジープも含めて、意志論とは何かという問いそのものの重要性が看過されてきた。

『法(権利)の哲学』(二九節、二五八節)や、『エンツュクロペディ』(第三版、一六三節補遺)で、ルソーが意志を国家の原理とするという功績をもちながら、普遍意志を個別意志から出てくる共通なものとしてとらえるという欠陥をもつと、ヘーゲルは批判する。ここからルソー関係を軽く見る傾向が生まれてしまった。そして、ジープも一八〇五・〇六年の『イェーナ体系構想Ⅲ』の「精神哲学」について、「普遍意志概念において、それとなくルソーに立ち返っているからといって、このことは過大に評価されてはならない。普遍意志の最初の現存は、ヘーゲルにとっては労働と営業の体系であるが、ルソーにとって営業の領域は、一般意志の非和解的対立物である虚栄心に支配されている」(ibid.,S.183)と述べるにすぎない。

意志論とはそもそもいかなるものか、これはヘーゲル法哲学の理解にとって不可欠であるにもかかわらず、問われないままであった。

 

(4)市民社会と政治的国家という区分をどう理解するか

人倫的共同体をかたちづくる市民社会と政治的国家という枠組みは、どのような問題意識から登場しているのか。用語法としては、これらは、ハイデルベルク大学時代に登場する。イェーナ時代には、有機的人倫がみずからを実在化するために、欲求と法という非有機的な領域を有機化するというテーマが立てられたが、こういう枠組みが放棄された地点に、これら二つの領域が独自の領域として登場してきます(『イェーナ体系構想Ⅲ』の「精神哲学」)。イェーナ時代のこの推移をきちんとたどりかえすことが重要になる。そこに、近代世界が生み出した、主体的自由の原理や、欲求と法の領域をどのように、より高い見地から扱うことができるかという問題意識を見いだすこともできる。そして、この意義を、リーデルにように、伝統的市民社会概念が変容をとげるなかで、フランス「革命このかた解き放たれたヨーロッパ的人間世界の『社会的』存在を、その「政治的」存在に、その法的・人倫的秩序に媒介、この世界をこの媒介において新しい概念に高めようとする試み」(一七一頁)として、概念史的にとらえることもできるが、このような市民社会と政治的国家という区分の背景にある哲学的舞台装置とは何か、あるいはそもそもこの背景にはどのような原モチーフがあるのかということは、問われないままであった。

 

(5)政治論文を、ヘーゲル法哲学の基本的なモチーフと関連づけない

ヘーゲルには、社会哲学関係で、『法(権利)の哲学』、イェーナ時代の草稿、法哲学の講義筆記録などがあるが、そのほかに、「政論」と呼ばれるものがある。イェーナ時代の「ドイツ国法論」、ハイデルベルク時代の「一八一五年および一八一六年におけるヴュルテンベルク王国領邦議会の討論」、それからベルリン時代末期の、「イギリス選挙法改正論文」である。これらを詳細な解説をつけて翻訳された金子武蔵氏は、これらについて、「ヘーゲルはつねに自己の見聞、観察、体験、調査、資料、史料、史実にもとづいて、ものをいい、哲学的用語はほとんどこれを用いることなく、世論のうちに生きているイメージや概念を自在に駆使している。ここに登場しているものは経験家ヘーゲルであって思弁家ヘーゲルではない。だから解明を要するのは、ただいかなる具体的な事情と時期とにおいて、いかなるモティーフによって書かれたかということだけである。」(上、245頁)ある情勢の中で、そこで争点となっている事柄について、ヘーゲルが自分の視点から論評するという性格が、これら政論に帰せられている。『法(権利)の哲学』に見られる具体的な制度など、個別的な論点が、これら政論と関連づけられることはあっても、法哲学のモチーフに関して、政論が視野に入れられることはない。

ヘーゲル法哲学の読解の可能性を見定めるためには、検討の視野を広げて、こうした政論の背景にある問題意識を探り、そして法哲学の原モチーフをつかむ手立てとするということが、おこなわれる必要がある。

 

六 どのような視点が必要か

 

さて、研究の、資料的環境、形成史的アプローチ、同時代の影響関係、思想史的な影響関係、これらを取り上げることのできる環境が整うようになったのに、とりたてて新たな読解の可能性が出てこないという状況を見ると、研究の進展とはいったい何なのかと思わざるをえない。ヘーゲルが生前刊行した著作は、『精神の現象学』、『大論理学』、『エンツュクロペディ』、『法(権利)の哲学』という四冊にすぎないが、その中で『法(権利)の哲学』は、いちばん読みやすいようにみえる。しかし、その読解には今述べたような検討をくぐりぬける必要がある。

さて、研究の条件が整ってきた中で、ヘーゲル法哲学研究にとって、どういう視点が必要となるのか、これまで述べたことをふまえて整理してみよう。

 

(1)イェーナ時代の形成史的研究について。

『イェーナ体系構想Ⅲ』の「精神哲学」は、イェーナ時代ヘーゲルの人倫の思索の到達点を示しているが、その到達点を、モノローグ的精神の自己展開と、個別意志と普遍意志の非対称的関係、つまり普遍意志の優位という枠組みではなく、まずもって、近代精神の特質を、普遍的なものと主体的なものとのが独自の領域をかたちづくるにいたり、この二元的分離を精神哲学的思索の大前提としていること、この意味と射程の検討から、さきほどのハーバーマス、ジープなどの理解とはちがった思想像が出てくるであろう。

 

(2)「君主権」論について。

ハイデルベルク大学での初めての法哲学講義は、同時代のフランス立憲主義とのつながりを示していた。「立憲君主制」なる政治的概念はコンスタンのアイデアであった。その大きな特徴は、執行権と君主権を分離して、君主権を形式化して、その半面で政治的諸権力の間に安定をもたらすことをめざすという点にあった。君主権の形式化と公的な政治的空間を安定させる役割とが表裏の関係をなしている。それはひいては市民的権利の擁護をめざしていた。くしくも、ヘーゲルがはじめて「立憲君主制」概念を使用した時期は、コンスタンの『政治の諸原理』(一八一五年)とさほど離れていない。そして人倫の構想の中ではじめて「市民社会」概念が登場したのも、このハイデルベルク大学での講義であった。市民社会の成熟、個人が自由の意識をもってこそ、立憲君主制が可能になるとされるのであるが、その場合、国家の叙述は、「普遍的自由の概念の叙述」とされている。つまり市民社会の形成をまって初めて公正な公的政治的空間が可能になるとされる。そうした枠組みの中で、君主の独特の機能が設定されている。ハイデルベルク大学での講義の綿密な検討が必要となる。

さて、ハイデルベルク大学講義に次のくだりがある。「われわれの時代には、国家が理性的な現存在となる歩みが生じている。この歩みは千年来生じることがなかった。理性の権利が私権に対して真価を発揮したのである。」これは、法という公正な精神が妥当性をもつことと、主体的自由が妥当性をもつことを表裏の関係とみている。

さて、この論点と関連して時事論文を通して浮かび上がることがある。時事論文の底流には、公的なものが私的に簒奪されて、公的なものが空洞化して、他方で私的特権が幅を利かせている状況への批判が一貫している。時事論文はたんにある時局の中で、それを分析し、なんらかの見通しを立てるという点に特性があるのではなく、今指摘した点に特質がある。法哲学構想と時事論文は、その基本的なモチーフという点で通じあっている。時事論文を十分に、ヘーゲル法哲学構想の検討に組み入れてこそ、ヘーゲルの構想をよくつかむことができる。

それから、市民社会と政治的国家という区別について、『イェーナ体系構想Ⅲ』の「精神哲学」、ハイデルベルク大学講義ならびに時事論文を背景においてみると、この区分が、個別意志と普遍意志、権利と法に対応し、ひいては私的な領域と公的な領域に対応していること、そしてこの脱構築というモチーフをもっていることが浮かび上がるであろう。

 

(3)意志論について

ハイデルベルク大学講義に、次のようなくだりがある。人倫としての「実体は、万人の実在的な自己意識(に支えをもつもの)であり、この自己意識という面からすると、知が普遍的になることは、精神が万人の知のうちにあることであり、共同精神(が存立すること)なのである。」(一二九節)「自己意識は知るはたらきそのもの」であり、このはたらきがあるからこそ、「自己意識は、権利ないし法、道徳性、そしてすべての人倫の原理」(『法(権利)の哲学』二一節)となる。知のはたらきがもっとも重視されています。知のはたらきが浸透する共同体の構想、ここに意志論の特質がある。ヘーゲル法哲学は、たんなる制度論ではなく、制度と、自己意識の知るはたらきの相関の中に成立している。したがって、公開性は、その重要な原理となる。ここから、実体的意志と個別意志との関係について、一般に流布しているのとは異なる面が現れるであろう。

 

以上、少なくともこれら五つの論点を突きつめて検討するならば、ヘーゲル法哲学のこれまでの読みの水準を再検討せざるをえなくなるであろう。筆者としては、これらの課題に答えるかたちで、そして公と私の脱構築という点にヘーゲルのライトモチーフを見定めて『ヘーゲル『法(権利)の哲学』―形成と展開』をまとめた。古典の再読解というテーマに向き合う識者との対話を願ってやまない。

日時:3月12日(土)1:00~5:00

場所:明治大学・研究棟第9会議室(2階)

JR「御茶ノ水」駅から徒歩4分―明治大学リバティタワー裏手

テーマ: 「ヘーゲルの国家論」

講師:滝口清栄(法政大学教員)

参加費・資料代:500円

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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