ポーランド「連帯」政治の語られざる実相――労働者階級の人権は守られたか――

日本における「連帯」論
 まことに興味深い資料をポーランド文化研究家から戴いた。2010年11月20日東京のポーランド大使館で開催された「フォーラム・ポーランド2010年度会議『連帯』運動とその遺産」で配布された報告要旨集である。
 講演者は4人。
 武井摩利氏、旧ポーランド資料センター、「『連帯』運動概史と日本における支援活動 ポーランド資料センターを中心に」。
 伊東孝之氏、早稲田大学教授、「第三の民主化の波の中のポーランド『連帯』運動」。
 梅田芳穂氏、元「連帯」マゾフシェ地区国際局次長、「『連帯』結成30周年『連帯』運動は世界にどのような影響を与えたか」。
 山崎博康氏、共同通信論説委員、「『連帯』未完の革命」。

 私=岩田は、聴衆の一人として出席していた。その頃ポーランド社会を揺るがしていた一冊の本Sprawa Lecha Wałęsy(『ワレサ事件』,Sławomir Cenckiewicz, ZYSKIS-KA, Warszawa, 2008)を手にして、講演後、彼に「この本をどう思うか。」ときいたところ、表紙の次のページにBzudra!!!Umeda Tokio 20.11.2010とサインしてくれた。Bzduraとは「ナンセンス、くず」という意味。

 報告要旨集を今読み返してみると、報告者の誰もが「連帯」運動が政権を掌握した直後から実行した急進的資本主義化の犠牲になった大量のポーランド労働者の運命について、彼等の失職、失住、西欧への経済難民、旧有産者の強力な財産返還要求等について全く言及していない事に気付く。
 それに対して、中国の民主化運動とポーランドの「連帯」運動の関係性については、山崎氏と梅田氏が強調している。
 山崎氏は言う。「劉氏は2008年12月、共産党独裁体制の見直しなど抜本的な民主化を求める『08憲章』を起草した人権活動家」、「同じ6月4日、中国では民主化運動弾圧の天安門事件が起きた。中国指導部は民主化運動を『東欧病』と恐れ、徹底的に根絶を図った。『08憲章』は『東欧病』が死に絶えるどころか、なお息づいていることを物語る。」
 梅田氏も亦、中国における「連帯」ウォッチングを体制側と知識人側に関して、「08憲章」と「連帯」、劉暁波と「連帯」に関して論及する。
もっとも、他の三氏とは異なって、梅田氏には「連帯」政権後の労働者階級の苦難に触れる所がある。それは「旧連帯幹部」に関して「貧窮状況にある旧幹部に対する援助」を説いている所に現れている。しかしながら、そんな旧幹部の下に統一労働者党体制と闘って、勝利の挙句に3年もたたないうちに企業私有化に伴う企業解体、失職、失住の憂き目に合った300万労働者達については一言もない。

 2010年に「連帯」を議論する時に、ワレサ大統領時代、すなわち「連帯」勝利後の最初の5年間が労働者階級に与えた苦悩について全く無言でいられるのは何故か、私=岩田には謎である。
「連帯」政権のネオリベラル化
 ここに紹介したい一文章がある。党社会主義に対する批判抵抗の個人史がワレサよりも長い「連帯」運動の指導者ヤツェク・クーロンの自伝、1000ページにわずかに足りない大冊の要め要めにはさみ込まれたパスワード27語解説の中の一つである。それらは自伝の編集者の責任と思想で書かれてはいるが、現代の読者に自伝の時代状況をわかってもらって、読みやすくする為である。私=岩田は、27語の中から重要なPlan Balcerowicza(バルツェロヴィチ計画)の解説を要約紹介しよう。
 ――国家の全面的改革計画はレシェク・バルツェロヴィチ主導の下でテクノクラート・グループによって引き受けられており、彼等はハーバードの若き教授ジェフリー・サックスによって奮い立たされていた。連帯系の経済学知識人達を完全に無視する形でハイエクやフリードマンの学説を理論的根拠とする専門家達に国家刷新の事業がまかされてしまった。十本の法律が立案され、1989年12月に議会を通り、即座にヤルゼルスキ大統領の署名を得た。
 ――ネオリベラリズム批判者のナオミ・クラインもまた、ポーランド政府の行動はIMFと西側諸政府によって強いられたものであり、彼等はラディカルな改革を資金援助条件と見なしていた、と指摘している。改革の社会的諸結果に関して語れば、PGR(国営農場:岩田)の農民達と解体整理された諸工場の、多くの「連帯」活動家を含む労働者達が最大のコストを引き受けた。失業者は1993年に300万人に達していたが、インフレーションは期待したよりもゆっくりとしか下らなかった。ジェフリー・サックス(ハーバード大学教授:岩田)は、社会主義経済のドラスティックな改革が必須であり、カット、縮小、脱規制の局面の後に「社会的市場経済」建設の局面がやって来るに違いない、と断言している。しかし、ポーランドにそれはやって来なかった。ネオリベラルの教条がプラグマティズムを圧倒した。――(KUROŃ AUTOBIOGRAFIA, Wydawnictwo Krytyki Politycznej, Warszawa, 2009, 2011, pp.701-702)
 ヤツェク・クーロンは、2004年6月17日に亡くなっている。2018年に彼の評伝JACEK(『ヤツェク』、Anna Bikont, Helena Łuczywo, Agora SA, Warszawa, 2018) が出版された。
 パラパラとページをめくっていると、第32章「市場愛のために」が目にとまった。評伝によれば、「連帯」活動家達の多くは経済問題に殆ど関心がなかった。そんな状況でヤツェク・クーロンは経済に関心があった。「連帯」勝利後、ポーランド第一位の新聞に成長するガゼータ・ヴィボルチァ、『選挙新聞』の発行人であったグジェゴジ・リンデンベルグがジェフリー・サックスをクーロンに引き合わせた。彼の通訳で二人は数時間議論した。数分毎にクーロンはテーブルを叩いて、「よし、分かった!よし、分かった」と繰り返した。そして最後に、「オーケー、分かった。そのようにやろう。計画を作ってくれたまえ。」とクーロンはサックスに頼んだ。これがサックス/バルツェロヴィチ計画の発端である。
 最初の「連帯」政権、マゾヴィエツキ首相、バルツェロヴィチ財務相・副首相、クーロン労働相の三人組は、100パーセント純粋な世にも稀なネオリベラリズムの完全市場主義的資本主義を理想郷であると信仰していた訳である。

国有企業の外資への投げ売り私有化
 戦後日本資本主義経済でさえも、国内商業の自由化、価格の自由化、貿易取引の自由化、通貨取引の自由化を段階的に、産業間の相違を考慮して20余年の時間をかけて実行した。それを「連帯」第1内閣は数年で一挙全面的に実現しようとした。
 そんな経済政策がどんな具体的姿をとったかを若干観察してみよう。
 「連帯」政権は、当時ポーランドで稼働していた約8500社の国有企業の中から外国資本が関心を持つような優良企業を選んで、外資に売却する方式の私有化を実行し出した。すべての産業部門に及ぶ。ある愛国的ポーランド人研究者が入手できた限りの資料によれば、1990-1994年期に査定済みあるいは売却済み合わせて117社である。被買収会社の社名、所在地、買収会社の社名、国籍、被買収会社の価値査定を担当した外国コンサルティング会社の社名、国籍、買収価額、査定料に関する一覧表が作成され、彼の著書に示されている。
 買収外資は、アメリカ、ドイツ、オランダ、イギリス、ルクセンブルグ、フランス、フィンランド、スイス、スウェーデン、ベルギー、香港の会社である。117社のポーランド国有企業の中でポーランド資本に買収されたのは、わずかに2社だけであった。
〔1〕1990年11月7日にポーランドのキェルツにある名の知れた建設輸出会社の株45%がアメリカのITI-International Team for implantology に230万ドルで買われた。査定料金は13万ドル。著者は、建設も製造も行ったことのない外国会社がポーランドの有名建設輸出国有企業をポーランド人専門家が参加できない会社評価のまま売り渡されたと慨嘆する。
ここまで、外資への売却による国有企業の私有化・民有化(1990-1994年期)に関する記述は、CZARNA KSIĘGA PRYWATYZACJI 1988-1994 czyli jak likwidowano przemysł (『私有化黒書 1988-1994 あるいは如何に工業が解体されたか』、Ryszand Ślązak, Wektory, Wrocław, 2016、 p.140, pp.200-222 )に基づく。
〔2〕具体例を続けて挙げよう。クヴィジンの製紙・セルローズ会社のケースである。『私有化黒書』によれば、同社は1992年8月10日にアメリカのInternational Paper Corporation に売却されたことになっている。しかしながら、PATOLOGIA TRASFORMACJI(『転換の病理学』、Witold Kieźun, Poltext, Warszawa, 2013、pp.140-141)によれば、すでに1990年にアメリカのコンツェルン、International Paper Group Inc に株式の80パーセントが1億2千万ドルで売り渡されている。その製造設備は1970年代末にカナダから4億ドルで購入され、1980年代に完成した最新式のものだ。
 ポーランドの新聞用紙の半分を生産し、ヨーロッパ最大のセルローズ生産者である。3600人が働いていた。従業員は私有化・民有化に際して20パーセントの株式を手に入れた。後に判明したことだが、買収会社は1億4200万ドルの免税を受けていた。紙の価格を150パーセント引き上げて世界市場価格並にした。
 International Paper Group Incの開発担当役員C.C.Earlyは、3年後の1993年にJournal of Business Strategy(No. March-April)でインタビューに答えて語っている。「私達は、価格は魅力的な収益が手に入るレベルであったと信じている。……ポーランド政府は工場建設に恐らく3倍、4倍のコストを支払ったろう。しかも、今日ならば、それと同じ程度の金額では世界のどこでも同じ様な工場は手に入らないだろう。……。この工場は、完全に最新式であり、西側の最新のモデルに従って企画されていた。私達が世界のあらゆる工場に期待するようなすべての基準に合致している。」
 スホツカ内閣の時(1992年7月11日-1993年10月18日)に、旧森林・木材工業相ワルデマル・コズオフスキがスホツカとワレサ大統領に質問書を提起した。所有転換相ヤヌシ・レヴァンドフスキから返書があり、「取引は有利だった。工場は余りに旧式であったし、それ故に倒産もあり得たのだから。」
最終的にInternational Paperは、1990年にポーランド国庫に支払ったと同じ株価で、すなわち、80パーセントが1億2千万ドルとなるのと同じ株価で従業員持株20パーセントを買い取って、全工場の所有者となった。
 その上に、この私有化取引には、最最終的結末が待っていた。独立自治労組「連帯」工場委員会と他の労働組合の提議に基づいて、クヴィジン市議会は、所有転換相ヤヌシ・レヴァンドフスキにクヴィジン市名誉市民の称号を授与すると決議した。
 『転換の病理学』の著者ヴィトルド・キェジュンは、この最最終的結末に何もコメントしていない。私=岩田が見る所、この会社の従業員3600人は、20パーセントの株式を3000万ドルでアメリカの会社に売った訳であり、1人当たり平均8300ドルの臨時ボーナスを手にしたことになる。2019年の今日でさえ、私の知人の学校教師の年金は月額500ドル位であるから、1990年代前半の8300ドルは、ふつうの労働者にとっては相当の大金であったろう。所有転換大臣に名誉市民称号ぐらいあげたくなる。

〔3〕外国資本が魅力を感じるような国有企業を売却する。買い手の外国資本は、そんな価値あるポーランド企業を活用するのか、それとも閉鎖するのか。そこに働くポーランド人労働者にとって、あるいはそれが立地する地域社会にとって死活問題ともなる。
 電話設備製造会社を意味するZWUTは、ワルシャワ、ヴェングルフ、ビドゴシチェにある。『黒書』(p.281)によれば、日付けは不明だが、1994年までにドイツのシーメンスに860万ドル、査定会社への報酬140万ドルで売却された。私有化顧問査定料の巨額さに驚く。『病理学』(p.137)によれば、シーメンスは、ZWUTがポーランドと旧ソ連の電話の生産と保全をほぼ独占していた時代の権益を維持しつつも、生産自体は本国ドイツに移してしまった。ヴェングルフの町にとって悲劇であった。そこのZWUTに4000人働いていた。シーメンスは、給料9ヶ月分の補償で雇用を切った。続いて工場の全ての建物を破壊し、土地を更地にして、住宅建設用地として売りに出した。
〔4〕それでは、外資が買いそうもない産業の国有企業は、私有化・民有化の嵐の中でどうなる。石炭産業を見てみよう。例えば、上シロンスク地方に64炭鉱がある。1990-1991年期に36炭鉱が永久に採算性なしと判定された。物理的解体を予定されている。20万人が雇用されていた。第一陣として74000人が働く17炭鉱が、第二陣として7炭鉱が閉鎖された。1992年12月から1993年1月末まで炭坑労働者の一斉ストライキが打たれた。地底でのハンガーストライキも実行された。1990年に石炭産業で43万5000人の労働者が働いていたが、1995年初までにリストラと閉鎖の結果、19万人にまで減少していた。
 『黒書』(p.227)に悲しいエピソードが描かれている。下シロンスク県のヴァウブジフ市では1992年にすでに30パーセント強の失業率、栄養失調の失業者達が危険な炭坑で不法に石炭を手掘するような状況が大量に出現した。『黒書』の著者はそれを「国恥だ」と表現している。
 私=岩田はここを読んで、21世紀の最初の10年代セルビアの日刊紙『ポリティカ』に似たようなポーランド関係記事が出た事を想い出した。内陸の産炭地から輸出港へ石炭列車が走る。線路が湾曲する所で速度をぐっと落とす。そこで失業炭坑夫が列車に飛び乗って、相当量の石炭を貨車から外へ落とす。失業炭鉱夫達は、石炭を自分達のものと思っており、罪の意識が無い。鉄道労働者もまたそこで意図的に速度をおとす形で協力している。そこで、ポーランド政府は、武装警察官を石炭列車にのせることにした。

EUに重用される投げ売り首相
 かかる私有化・民有化プロセスが進行して、『転換の病理学』(p.152)
      ポーランド最大500社の所有構造
年    外国資本   国内資本   国 有   地方自治体
2005   253    150    91    6
2006   245    162    90    3
2007   242    174    81    3
2008   247    178    69    6
2009   269    159    67    5
2010   271    162    63   11
     出典:Lista500, “Rzeczpopolita”(2011、p.26)
が示す上表のようなポーランド経済の資本所有構造において外資が圧倒する形がつくりだされた。

 『病理学』(pp.150-151)に国有企業売却による国庫収入額が1991年から2010年まで実績で、2011年から2014年までは計画値で年毎に表示されている。それによれば、売却私有化が最も活発に行われた年は、2000年、次いで2010年である。2000年はイェジー・ブゼク首相、バルツェロヴィチ副首相の時代。バルツェロヴィチは、1990年に初代「連帯」内閣の副首相・財務相として国有企業の売却私有化を開始した人物である。2010年は、ドナルド・トゥスク内閣の時代である。両首相とも西欧市民社会が最も高く評価するポーランド人政治家である。ブゼクはその後EU議会議長となり、トゥスクはEU大統領となる。
 「フォーラム・ポーランド2010 『連帯』とその遺産」における報告要旨「『連帯』未完の革命」に共同通信記者山崎博康氏は、「『連帯』は生きている」実証の一つとして、「EUの舞台でもブゼック氏の活動を通して『連帯』の精神が反映されていると言えるかも知れない。」と書く。たしかに、そうかも知れない。私=岩田の理解する所では、「『連帯』の精神」はKOR「労働者擁護委員会」(1976年9月)の「労働者擁護」と「人権擁護」に在る。山崎氏によれば、ブゼク議長は、「キューバの反体制活動家ギジェルモ・ファリニャス氏(48)に」「人権擁護活動への貢献をたたえることしのサハロフ賞を」「キューバ変革のために、自らの健康と命を犠牲にすることもいとわなかった」との理由で授与した。
 ブゼクは、上述した石炭産業地帯上シロンスク出身である。キューバ人の反体制活動家の命を心配したと同時に、「連帯」政権による炭鉱の大量閉山で失業・失住し、家族を養うために盗掘せざるを得なくなった栄養失調の元炭坑夫の命の心配をもしていた、と私=岩田は信じたい。

批判者の立脚する再私有化論
 「連帯」政権によるネオリベラリズム流の体制転換を実証的に批判する二著の作者、『黒書』のシロンザクと『病理学』のキェジュンは、だからと言って、国有経済システムの復活を唱えているのではない。
 シロンザクは、ポーランドの全21産業部門が1990年、1991年に一挙全面的に対外開放・自由化される形の資本主義化に対し、ポーランドの国家理性の利益にそった、ポーランド人民が参画する一歩一歩進める形の転換を説く。それと同時に、「連帯」政権が社会の期待する再私有化を拒否した事をも批判する。(『黒書』p.21)
 「新政権は、経済政策を遂行する以前に再私有化を行う事は予定されていないと言明した。……。経済改革の実現に再私有化と共通する所は全くなかった。結果として、ポーランドは、再私有化が実現されなかった唯一のポスト社会主義国家になった。……。国民の再私有化願望は、私有化転換の完了する未来へ先送りされた。まるで、社会主義時代に殆ど一掃された戦前の有産階級が再活性化するのを恐れているようだ。」(p.41)シロンザクは、これが今日観察される「野蛮な再私有化」―そんな用語をここで使ってはいないが、―の理由であると言っている。
 キェジュンもまた再私有化をポーランド経済体制転換の最初に実施すべきだったと考える。もともと、バルツェロヴィチ計画の手本であったサックス・プログラムではそうなっていたと言う。サックスが国有企業の私有化と書いた時、「国家が現在使用している財産の史的所有者の本人確認をする事が要めであった。その財産が丸ごと企業全体の形で、あるいは部分的に(設備、建物、土地、状況に応じて)私有化されるだろう。」と言う含意であったと言う(『病理学』p.126)。「この構想は、今日(2011年)になっても実現されていない。ポーランドは、この仕事を行っていない唯一の旧ソ連衛星国である。共産主義国家によって接収された私企業、ホテル、領主屋敷、私的宮殿は、包括的な国家私有化立法によってカバーされていない。全く正反対で、例えば、E.WedelやCalisiaのように外国資本に売り渡された。」(p.127)ヴェデルは戦前からポーランド第一の製菓(チョコレート)会社。『黒書』(pp.204-205)に1991年8月22日、2500万ドルでアメリカの・ペプシ・コーラに売却された。査定料金121万3647ドル。ツァリシャは、戦前からポーランドで有名なピアノ・メーカーのことと思われるが、中国資本が買った経緯は不明。
 「宮殿、屋敷、あるいはホテルの返還される個別ケースは、個人的民事訴訟の結果である。」(p.127)

 シロンザクとキェジュンが「連帯」政権によるラディカルな私有化方式に怒りをかくさない理由は、あくまでポーランドの国富が濡れ手で粟のやり方で外国資本に持ち去られたからである。日本で言えば、小泉政権による郵政民営化に反対を貫く保守内部反対派に視点も心情も近いようだ。例えば、菊池英博/稲村公望著『「ゆうちょマネー」はどこへ消えたか“格差”を生んだ郵政民営化の真実』(彩流社、2016年・平成28年)を見よ。新自由主義への徹底的批判、身心からかもし出る祖国愛。ポーランドの二人に通じる。

労働者ワレサの私有化と資本家ハヴェルの再私有化
 今や、何故東欧諸国の中で党社会主義体制の崩壊後ポーランド一国だけが党社会主義体制成立以前の旧有産者階級の所有権回復を資本主義化国家が立法措置によって実現する道をとらなかったか、あるいはとれなかったか、を考察しよう。
頼りになる文献は、トマシ・ルテレク著『再私有化 問題の諸起源』(Tomasz Literek, REPRYWATYZACJA ŹRÓDŁA PROBLEMU Instytut Studiów Politycznych PAN, Warszawa, 2016)しか見当たらない。その第6章は、そのものずばり「1989年以降ポーランドにおける全面的再私有化法制欠如の諸原因」をテーマにする。参考にしつつ、思索しよう。
ポーランドの場合、社会主義体制崩壊以後、再私有化、すなわち旧所有者への財産返還は、国民の大多数と大部分の諸政党から支持を得られなかった。何故か。戦間期に農地改革がほとんど行われておらず、戦争後に共産主義者・社会主義者(統一労働者党を結成することになる)の主導によって実現された。しかも、その後にイデオロギー的に予見された農業集団化は自営小農民となった多数の人々の強い抵抗で実行されなかった。ユーゴスラヴィアを除けば、ポーランド社会主義においてのみ、農村では個人農が主流であった。
 社会主義崩壊以後、このような状況の下で再私有化立法を企画することは、個人農ポーランド社会の全面的反撥をまねく。少なくとも農地の再私有化立法は不可能であった。
 戦間期に農地改革が行われ、戦後に農業集団化が実行された社会主義国では農地を含む国有財産の再私有化は、体制転換の際に容易に実行できた。すなわち、社会主義理論に従って、社会主義化が進行していた国々の方が再私有化に社会的抵抗が少なかった。
 体制転換を実現させたカリスマ的最高指導者の社会的出自も亦この問題に強く効いて来る。
 ポーランドのワレサ大統領とチェコスロヴァキアのハヴェル大統領の社会的出自を見てみよう。ワレサは貧乏な大工の子、グダンスク周辺の田舎生まれ、造船所の電気工。ハヴェルはチェコ有数の実業家(その資産は国有化された)の子、首都プラハの生まれ、著名な劇作家。片や現業労働者、共産党支配への精神的反撥。片や文化知識人、共産党支配への身体的嫌悪。
 ワレサは、権力を掌握するや、国有財産の私有化法をただちに制定するし、共産主義的不正の犠牲者としての旧資産家達に同情するし、個々の大資産の返還に協力しさえするが、さりとて、包括的再私有化立法を制定して、旧財産の全面的復活を企画するつもりはさらさらない。但し、カトリック教会は例外。
 ハヴェルは、権力を掌握するや、1990年5月の名誉回復法を可決させ、財産没収を法的に無効化する。1990年10月2日の物質的不正緩化法によって、1955年以降没収された財産を旧所有者(自然人)とその相続権者に現物返還することを可能にする。1991年1月25日の農業所有規制法は、耕地以外の農家施設、森林に返還 Restitutionを原則とすると定めた。1991年2月の第2名誉回復法は1948年2月25日から1989年12月31日までの期間になされた不法な国家収用に関する再私有化請求権にかかわる。
 以上のように、ハヴェルは国有財産の再私有化を最優先課題とする。しかしながら、チェコスロヴァキアの場合、1945年、46年、47年にも大規模な国有化が実施されていたにもかかわらず、再私有化の対象外である。共産主義政権の国有化だけが対象とされた。
 チェコスロヴァキアの再私有化優先の体制転換をポーランドの私有化優先の体制転換よりも高く評価するように見えるトマシ・ルテレクは、ハヴェルとワレサを対比して語る。ハヴェルは弟と一緒にヨーロッパで三本指に入ると言うバランドフ映画撮影所を再私有化の結果取り返している。公共大目的のための活動と私的動機とが最良に連動したケースである。「残念ながら、『連帯』指導者にはこのような動機が欠けていた。」(p.277)多目的間整合性、多動機間整合性の難題だ。
 ポーランド・フォーラム2010年の報告において共同通信記者山崎博康氏はワレサと「憲章77」のハヴェルを関連させて論じていたが、2016年出版のトマシ・ルテレク著におけるように両者の物質的・私有財産的利害状況において考察していない。「憲章77」の背後にハヴェル家のバランドフ撮影所の影を知的世界に全く感じさせなかったハヴェルの運動作風は大したものだと言うべきか。

 最後になったが、トマシ・ルテレクに従って(p.285)、再私有化申請件数をここに提示する。チェコ:30万件。ハンガリー:150万件、ポーランド:17万件(うち6万件は、第二次大戦後に失った東方領にかかわる)。人口が4000万弱のポーランドと1000万前後のチェコとハンガリーのなかでポーランドの再私有化申請件数が最小である。再私有化国家立法の有無がここに効いている。

令和元年・2019年7月22日(月)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1053:190728〕