マルクスの「モナド」概念批判と価値形態 ― 『資本論』に潜むライプニッツはラッセルの連結する―

マルクスの「モナド」概念批判と価値形態 [1]

『資本論』に潜むライプニッツはラッセルの連結する

[1]  マルクスによるライプニッツのモナド概念批判

『資本論』の価値形態は無限集合である。無限集合は外部にその反対概念を鏡映する。例えば、「自己を要素として含まない集合」(nonM)はそれ自身をその反対概念「自己を要素として含む集合」(M)に鏡映する。両者が統一した集合は【「自己を要素として含まない集合」(nonM)を要素として含む集合」(M)】である。価値形態はこのような、或る命題とその反対命題が、相手を自己の前提として相互に鏡映しあう概念である。マルクスはすでに1841年の学位論文「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」(以下「差異論文」と略)の準備過程で、価値形態がそのような無限概念であることを把握する「無限集合」概念を把握している。その意味で、マルクスのエピクロスの原子概念、およびライプニッツのモナド概念の批判的研究は後年の価値形態論にとって決定的な基礎理論となったのである。本稿はこのことを論証する。

マルクスは「差異論文」執筆のために、ライプニッツの「哲学原理、あるいはオイケン公のためテーゼ」をノートして、本稿の筆者によるつぎの訳のうち、ボールド体で示した部分にサイド・ラインを引いて、特に注目する。

「モナドは、合成されると消滅する単純な実体である。単純なものとは部分がないもののことである。・・・単純な実体が生成し、その実体が合成体を生成することは必須なことである。部分がないところでは、延長も形態もない。モナドは自然の真の原子であり事物の諸要素である。モナドは創造なしでは始まらないし、否定作用なしでは中断できない。同じように、いかなる方法でもっても、消滅も生成も説明できない。それはちょうど、モナドが形態を変えられないことや、モナドに内在するものが他の被造物によって変化できないことと同じである。実体も偶有性も外部からモナドに侵入することはない。それでもなお、モナドが何らかの固有性をもちながら、しかもいかなる存在でもないということは必須のことである。実際、任意のどのモナドもその他のどのモナドからも区別されるということは必須のことである。すなわち、その本性上、ある存在が他の存在と完全に合致するような二つの存在はけっしてないのである。或る任意の内的な区別、あるいは、或る内的な規定にもとづく区別が発見できないということはない。どの任意[のモナド]に対しても変化が先行することは不可能である。モナドの自然な変化は或る内的な原理に由来すると推論される」。[2]

ライプニッツによれば、モナドは各々が相互に区別し合う単純な実体であり、同じモナドは存在せず、モナドは内部に部分をもたない。モナドは区別それ自体なのである。モナドは自らが単位として合成体(das Zusammengesetzte)である。ライプニッツによれば、合成体は「単一体の集合(ein Aggregat von Einfachem)にほかならない」(『モナドロジー』§2)。[3] 事物はモナドという不変の構成要素の集合である。事物の変化は、モナドという不変な構成要素の組み合わせ=集合の変化である。

注目すべきことに、マルクスは、上の引用文の特にボールド体でしめした部分を念頭に、ライプニッツによるモナドの概念規定が実は自己矛盾していることを、つぎのように指摘する。

「もしもそれぞれの原子が特殊な形態をもつとすれば、無限の大きさの原子が存在しなければならないことになるだろう。なぜなら、原子は、ライプニッツのモナドのように、或る無限の区別を、すなわち、すべての残余のものから(von allen übrigen)なる或る無限の区別をそれ自身において持つことになるだろうからである。それゆえ、どんな二つの物も相互に等しくはないというライプニッツの主張はくつがえされる。同じ姿態の無限に多くの原子(unendlich viele Atome von derselben Gestalt)は存在するのである。このことによって明らかに[ライプニッツによる]姿態の規定が否定されている」[M(I)43, W288-289. 訳218-219]。[4]

マルクスがここで「無限」の観点から、ライプニッツのモナド概念を批判的に考察していることが注目される。「無限」の観点から考察するとき、ライプニッツのモナド概念は、最小の単位である原子は相継ぐ連鎖で無限大の存在に転化してしまう。ライプニッツがいう「すべての原子(モナド)は相互に等しくない」という命題は成立しない。なぜであろうか。その主張をつぎのように三段階に分けで検討してみよう。

[1] ライプニッツのモナド概念規定によれば、ライプニッツのいう「無限の区別」には、①「無限に多くの特殊な形態[=特殊性]のモナドを要素とする無限集合」と、②無限集合それ自体が「無限に大きい特殊性」とが存在することになる。①の集合の内部にはすべての特殊性が存在するはずであるから、①の集合の内部には②の集合自体の特殊性と同じ特殊な要素(モナド)が存在するはずである。①の内部に存在するはずのその或る特殊性と②の特殊性は同じである。「存在するモナドはすべて異なる」と前提しながら、「同じモナドが存在する」ことになる。これは「内包的無限集合の自己矛盾」である。

[2] 上の①と②の順序を入れ替えても、同じ自己矛盾に帰着する。②の集合自体の特殊性を前提すると、①のすべての特殊性を要素として内包する集合の内部にも②の特殊性と同じ特殊性が存在することになる。これも「内包的無限集合の自己矛盾」である。なぜこのような自己矛盾に陥るのか。「①無限に多くの特殊性を要素として内包する、②無限に大きな特殊性をもつ無限集合それ自体」が自己矛盾する概念であるからである。

[3] ライプニッツのモナドには、さらに別の自己矛盾が潜在する。すなわち、上の②「無限に大きい特殊性をもつ無限集合それ自体」を想定する場合、その無限集合の「外部」に「すべての残余のもの」が想定可能である。「すべての残余のもの」とは、「無限に大きな特殊性をもつ集合それ自体②以外の集合のことであるから、「無限に大きな《「特殊性が捨象された抽象的同一性」=一般性の集合」である。上の引用文でマルクスがいう、「すべての残余のもの」とはこの無限集合のことである。《区別=特殊性の無限集合同一性=一般性の無限集合とは無限論理空間で鏡映しあい同時に存在する特殊性の無限連鎖は自己自身=特殊性を捨象し一般性を抽象する特殊な形態の無限集合は、対極にその特殊な姿態のままで一般的形態であるような或る存在すなわち代表的な個別(特殊性・一般性)を生みだす。この外延的な意味でも、ライプニッツのいう「特殊な形態の無限の集合」は自己矛盾する概念である。

[2] ラッセルの空集合のパラドックス

ライプニッツのモナドは究極概念・無限概念である。では、モナドという無限概念は一義的・無矛盾の概念であろうか。自然数の有限集合とそのうちの偶数の有限集合は「一対一対応」をなさないけれども、自然数の無限集合と自然数のうちの偶数の無限集合とは「一対一対応」をなす。無限集合はパラドックスをもたらす。[5]

ライプニッツのモナドの場合でも、《或る無限集合はその外部にその否定態を鏡映する》。ライプニッツは上の引用文で「無限に区別される特殊性(モナド)を構成要素とする無限集合」を想定している。ライプニッツの「モナドの無限集合」は、自己同一性=抽象的一般性を回避しつつ、区別=特殊性のみを無限に追求する運動が、結果にまさに回避したはずの自己同一性をそれ自身の「外部」にもたらしてしまう自己矛盾する概念なのである。なぜならば、この場合の「内部」と「外部」は無限論理空間の内部における相対的区別にすぎないからである。マルクスは命題「すべての定義は否定である」(スピノザ)を好む。或る定義はその外部にその定義を否定する定義を措定する。それを自覚するのは無限の視座に立つときである。マルクスは「差異論文」や後年の『経済学批判要綱』「序説」で、パラドックスを孕むこの定義を引用している。

ライプニッツは《集合それ自体の特殊性と同じ特殊性をもつ要素が存在しない無限集合》(non-M)を想定する。しかしその想定が、無限集合(non-M)の「外部」=「残余のもの」に、無限集合(non-M)とは反対のそれを否定する無限集合(M)が潜在することに気づかない。したがって、無限集合(non-M)は、

【《集合それ自体の特殊性と同じ特殊性を要素として含まない無限集合》(non-M)を要素として含む無限集合(M)】

に再定義される。

ところで、ライプニッツの集合では、集合それ自体の特殊性と同じ特殊性をもつ構成要素は存在しないと想定されているから、端的につぎのように書ける。すなわち、ライプニッツが無意識に描いているモナドの世界像は、

無限集合S:[《集合自体を要素として含まない無限集合》(non-M)を要素として含む無限集合(M)]

である。無限集合は必然的にその外部にそれ自身の否定態を措定する。これはラッセルの「空集合φ」と同じである。[6]  ライプニッツは「モナド」に無意識に、後年のラッセルの「空集合φ」を潜在させているのである。

いま、無限集合Sを二つの場合に分けて考える。集合Mを「自己を要素として含む無限集合」と定義し、集合non-Mを「自己を要素として含まない無限集合」と定義する。ライプニッツのモナド概念に潜在する「空集合」は、ラッセルの「空集合φ」と同じように、つぎの問いはパラドクスをはらんでいる。

問い:無限集合SはMであろうか、それともnon-Mであろうか。

(a) もし集合SがMとすると、集合Sは要素non-Mを含むから、集合Sはnon-Mである。これは矛盾である。

(b) もし集合Sがnon-Mとすると、集合Sは要素non-Mを含むから、集合はMである。これも矛盾である。

(a)も(b)も同じ「集合Sは要素non-Mを含むから」が媒介項である。その媒介項が(a)と(b)とでは反対の結論を導くのである。[7] 無限集合Sは「《自己を要素として含まない無限集合》を要素として含む無限集合」、つまり《含まない・・・含む》という両義的な集合である。したがって、《もし・・・であるとすると》という前提が(a)肯定的前提であるか、(b)否定的前提であるかに応じて、その前提とは逆の(a)否定的(何々を含まない集合[non-M])、あるいは(b)「non-M」の二重否定的=肯定的(何々を含む集合[M])という矛盾する結論に導く。

マルクスは「差異論文」(1841年)でライプニッツの「モナドロジー」(1714年)に事実上、ラッセルの「空集合φ」(1901年発見)と同じ「自己矛盾する無限集合」を発見しているのである。この発見はラッセルの発見より60年前のことである。マルクスは、これと同値の無限集合を1858年春に『経済学批判要綱』末尾「1) 価値」という表題の草稿で事実上、冒頭商品を措定する 。その商品は、ラッセルの空集合と同じように、非対称的対称態である。

[3無限集合としての価値形態

それでは、ラッセルの空集合の先駆形態である、ライプニッツのモナド概念に関するマルクスの批判的研究は、その後のマルクスの研究に如何なる理論的意義をもったのであろうか。本稿では、その研究が『資本論』の特に価値形態論の基礎となっていることを指摘する。

価値形態論の核心問題は、第二形態から第三形態への移行=「逆関連」を如何に理解するかにある。ライプニッツのモナド概念の批判から浮かび上がってくる、《或る無限集合はその外部にそれ自身を否定する無限集合に鏡映する》という命題こそ、マルクスに第二形態から第三形態への移行を理論的に根拠づけることなったのである。

単一の偶然的な等価形態をもつ第一形態とは異なって、第二形態は、等価形態が相対的価値形態である商品を除く「すべての無限に多くの商品種類の系列」をなす。価値概念は、使用価値の区別を捨象する「無限遠点(infinite point)」で抽象される「無限概念」であるから、価値の表現媒態である等価形態も使用価値が相異なる無限に多くの系列をなす。マルクスによるモナド概念批判のときと同様に、価値形態の第二形態の等価形態も「無限」概念である。『資本論』価値形態の相対的価値形態にリンネルを例にとるのは、あくまでリンネルは一つの代表見本としてであって、リンネルに固定しているのではない。或る商品世界では商品の種類の数(n)だけ多くの第二形態が存在する。

各々の第二形態の相対的価値形態の商品は等価形態には含まれない。或る相対的価値形態はその等価形態を包括する「集合」であり、等価形態はその「要素」である。第二形態のこの「集合=要素」の関係は、《自己を要素として含まない集合》(non-M)と同型である。商品世界にはn種類の商品が存在するなら、《自己を要素として含まない集合》(non-M)はn個だけ存在する。そのn個からなるその集合の全体=集合は、

【《自己を要素として含まない集合》(non-M)を要素として含む集合】(M)

である。《自己を要素として含まない集合》(non-M)は「第二形態」であり、その集合【《自己を要素として含まない集合》(non-M)を要素として含む集合】(M)は、『資本論』初版のいう「第四形態」である。第四形態は第二形態を要素とする集合である。上のラッセルの「空集合のパラドックス」でみたように、第二形態と第四形態とは相互に転化する相補関係にある。マルクスが『資本論』第2版以後で第二形態を規定したとき、事実上第四形態も規定したのである。

ライプニッツのモナド概念でみたように、「区別=特殊性」を要素として連結する無限集合は、まさにその無限集合を要素とする無限集合をもたらす。《区別=特殊性の無限集合》は背理であるから、外部にその自己否定態である《同一性=一般性の無限集合》を鏡映する。両者は無限論理空間で鏡映しあい同時に存在する。この無限集合は如何なる形態に収束するであろうか。ここで便宜上、集合non-M=第二形態および集合M=第四形態を、5種類の商品を要素Ej(j=1,2,3,4,5)とする集合Ei(ΣEj)[i≠j]で表す。

Non-M=E1(E2,E3,E4,E5)

or E2(E3,E4,E5,E1)

or E3(E4,E5,E1,E2)

or E4(E5,E1,E2,E3)

or E5(E1,E2,E3,E4)

etc.→∞

M=E3[E1(E2,E4,E5)+E2(E4,E5,E1)+E4(E5,E1,E2)+E5(E1,E2,E4)],etc.

( E3は「集合の集合」=一般的等価形態になり、集合・要素から抜ける)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

u+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

先に指摘したように、ライプニッツのモナド、即ち《区別=特殊性の無限集合》は、その外部に、それ自身の否定態である《同一性=一般性の無限集合》を措定する。両者は無限論理空間で鏡映しあい同時に存在する。同様に、特殊性(使用価値)の無限連鎖は自己を捨象し一般性(価値)を抽象するこの命題が第二形態の前提に存在する。マルクスが『資本論』第1部冒頭近くで、「諸商品交換関係を特徴づけるものは、まさに諸商品の使用価値の捨象である」(Dietz Verlag Berlin, 1962, S.52)と指摘した理論根拠はここにある。モナドの論理空間では、ライプニッツの想定を超えて、区別=特殊性の無限集合》と《同一性=一般性の無限集合》とは無限論理空間で射影しあい同時に存在する。ライプニッツが想定するモナドはすべて区別された特殊な存在であるから、すぐれて特殊なものの連鎖を統一する。特殊性の無限連鎖は、自己を捨象し一般性を抽象する。或る個別的形態がその姿態のままで一般的形態であるような存在すなわち代表的な個別態(=特殊性・一般性)になるそれが第三形態である

モナドのマルクスが解明した自己矛盾は、資本主義的な商品集合(『資本論』冒頭文節)がもつ自己矛盾と同じである。商品がそれ自身の個別的な社会関係=価値を表現するために、無限に多くの異なる具体的な使用価値を要求する事態は、一般的等価形態=貨幣という運動形態に転態する。一般的等価形態は、ヘーゲル『小論理学』推論第3格、「無限に多くの特殊性(区別=使用価値・構成要素)を、一般性 (抽象的同一性=価値)が媒介になって包含する個別性(或る区別=集合)」(特殊性 → 一般性 → 個別性)に対応する。無限の外延的な区別は、その区別を止揚する媒態を要請する。その意味でマルクスの貨幣概念はモナド概念批判を含む。貨幣は永遠に未決の自己矛盾を内包する運動形態である。この自己矛盾が剰余価値搾取・資本主義的技術革新・資本蓄積の動因である。それらは、商品の「使用価値(非対称性)および価値(対称性・通約性symmetria)」という自己矛盾の展開形態なのである。(以上。2015年12月20日、成稿)

 


[1]  本稿は、内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」『専修経済学論集』2012年3月、通巻第111号、56-58頁を改稿し大幅に加筆したものである。

[2]  MEGA, IV/1,S.189~193, Apparat, S.758~762. 傍点強調は原文イタリック。

 [3]  G.W. Leibniz, Monadologie, (Franzoesisch-Deutsch), Felix Meiner Verlag, Hanburg, 1969, S.27. ライプニッツ(清水富雄・竹田篤司訳)『モナドロジー』(世界の名著25)、中央公論社、1969年、437頁。

[4]  マルクスは「差異論文」のためにとった「第四ノート」でもつぎのように書いている。「反撥としての・否定的な自己関係としての・原子の無限性は、無限に数多くの相似た原子を生み出す。原子の無限性はその質的区別とは何の関わりもない。もし原子の形態の差異が無限であると考えるならば、どの原子も他者と自己のなかに止揚して含むのである。そのときは、ライプニッツのモナドのように、世界の一切の無限性を表象する原子が存在することになる」[M(IV)89, W174. 訳129。ボールド体は引用者]。フランシーヌ・マルコヴィッツは、この引用文を引きながらも「エピクロスには論理についての数学がないので、マルクスはそうした考察を推し進めてはいない」と誤認している(Francine Markovis, Marx dans le Jardin d’Épicure, Les Éditions de Minuit, 1974. (小井戸光彦訳)『エピクロスの園のマルクス』法政大学出版局、2010年、訳83頁、84-85頁)。マルクスの「差異論文」の主題はカント・アンチノミーの問題軸である「有限・無限」をめぐる問題である。後年マルクスが微積分に関するノートを取り、膨大な数学草稿を作成したのも、その問題関心からである。

 [5]  拙著『《資本論》のシンメトリー』(社会評論社、2015年)の「終章 『資本論』のパラドックスのシンメトリー」でいうパラドックスは、この無限集合が内包するパラドックスである。

 [6]  cf. Uchida, Hiroshi, The Philosophic Foundations of Marx’ Theory of Globalization, Critique 56: Journal of Socialist Theory, May 2011, Routledge, p.205f. ラッセルの空集合とライプニッツのモナドの親近性を示唆して興味深いことに、ラッセルは「空集合」を発見した1901年の前年の1900年に『ライプニッツの哲学(A Critical Exposition of the Philosophy of Leibniz)』を刊行している。その翻訳に細川菫訳『ライプニッツの哲学』弘文堂、1959年がある。

[7]   この媒介項こそ、カントのいう「媒辞概念曖昧の虚偽」の正体である。資本主義では使用価値を仮象形態とする価値がこの媒辞である。その使用価値も媒辞に転化する。例えば、貨幣資金の使用価値の価格が利子である。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study687:20151221〕