2014年も6月。半年が過ぎようとしています。
後半、六カ月を走り続け、それぞれの研究、学習を協働へと結集するにはどの様にインターネットを活用していくべきであるのかを常々考えていたものを書き出していきます。
ちきゅう座総会にも出席したかったのですが、時間の関係にて出席出来ず、何とか5月31日の『現代史研究会』―5.31廣松渉没後20年記念講演会
https://chikyuza.net/archives/44758
こちらの方のみ出席させて頂きました。
次回の2014年9月20日現代史研究会「廣松渉の思想をどう継承していくか」(仮)への出席を予定しています。
その間、マルクス及び日本のマルクス研究の現状はどの様なものとなっているのか?
繰り返し問いながらも答えを得られずにある質問をもう一度明確にしていく必要もあるでしょう。
しかしながらそれは、とてもこの短い文章の中に盛り込むのはあまりあるので、今回は、押さえておいて、本題となるものは、9月14日まで断続的に行うとしても触りとなる導入部をのみ、ここで短く批評、感想、雑感的に添えて置くのが対話的な意味でもわかりやすいのではないかと今はとどめて書き出し公表してみる事にします。
前回の現代史研究会についても盛り沢山でしたが、ちきゅう座内についてもその反響や感想さえ掲載されていないのがいつも残念に思えています。
本来、議論や質疑の延長としてちきゅう座もあるのだと思うのですが、それを使いこなせていない倦怠感が支配的になっているのは、不毛な論争や内ゲバによって壊れてきた過去があるからでもあるでしょうし、答えられないソビエト瓦解問題、北朝鮮チェチェ思想とマルクスの関係性問題、そして、中国共産党と近代化の矛盾など何もそこへと疑問視されているものへと明確に簡潔に一般学生にも労働者にも答えられていない思考停止が放置され続けている怠慢がそのままマルクス理論と歴史学批判の危機でもあろうからです。
ここで、独りよがりとしない為にも若干の引用と対話的導入として以下をあげてみます。
モノグラフ-異論なマルクス―物神性の陥穽(1)
https://chikyuza.net/archives/45112
《『資本論』冒頭商品章第4節で、商品の物神性とその秘密について考察されているのはよく知られ、またあまたの研究も積み重ねられてきているのも周知の事実であるけれども、これらの研究はいずれもマルクスの所説はすべて正しい、そこに問題や矛盾があるように解釈してしまうのは、マルクスの深遠な思考過程を理解できていないからだという、マルクスの絶対視に囚われていて、到底受け入れ難い上、決して現代資本主義に立ち向かううえでマルクスの理論的営為を批判的に発展させるというような方向付けが出来ないような構えとなってしまっている。こうした制約のもとにある先行諸研究は、マルクスのジャーゴンが描く世界(マルクス言説物神!)に自己閉塞し、かつ自足することに終始し、決して資本主義の現実認識にかかわる次元で、物神性論の理論的な妥当性を評価しようという地点には足を踏みいれようとはしない。》
6/14世界資本主義フォーラム レジュメ「マルクスの思想形成過程-1848年革命と『共産党宣言』」
https://chikyuza.net/archives/45081
《ここで検討することは、もとよりマルクス主義を再び無批判的(教条的)に受け容れ、称えようとするものではない。むしろマルクスをその時代の思想として相対化、限定化する課題を一方に負う、と同時に、我々自身も「歴史的現在」としてのみ存在しえていること、つまり、我々の現在は同時に歴史的なものであるということ、このことに十分な注意を払いながら、マルクスの歴史的継承を試みようとするものである。》
6月14日は、世界資本主義フォーラム(上記)もあるのですが、残念ながら参加できないが、ここにて、引用した上記の文章の共通点は、
「マルクス主義を再び無批判的(教条的)に受け容れ、称えようとするものではない。」
「マルクスの深遠な思考過程を理解できていないからだという、マルクスの絶対視に囚われていて、到底受け入れ難い上、決して現代資本主義に立ち向かううえでマルクスの理論的営為を批判的に発展させるというような方向付けが出来ないような構えとなってしまっている。」
マルクス批判と言うよりは、マルクス学者批判ではないかと思われる部分から解放の思想、抵抗の思想としてのわかりやすさを取り戻したいとする立場の様にも感じられて読み取っていました。
なぜなら、マルクス思想は、本来、労働者や一般学生に向けられたものであって、学威や権力威に封じ込められているべきものではないからです。
マルクス主義を全体主義思想として揶揄する近代経済学者に対する大きな意味での違和、異論それに対して明晰に解答する大きな意味での問題点もありながらも決して、21世紀を14年過ぎた今でさえ「マルクスや共産主義思想、科学的社会主義思想はそれだけがすべてではない」その疑問点に対して、協働を学生や労働者へと広げながら問い出さねばならないのであるのだが、閉塞や思考停止状況は何に起因しているのかを誰も指摘しない、出来ない状況が長らく続いて来たのであろうと反省、猛省せざるをえないのは現時点での「マルクスの魅力に覚醒した少数者の中にあってもう一度、答える以前に、問いの在り方から繰り返しぶつけていかねばならない。
むしろ、問うのはマルクス学者の側であり、近代経済学者に答えざるをえない矛盾を突きつけるのでなくては歴史は進行しない。
しかし、アカデミックな論争のみに終始するのであっては観念論的でもあり、なんら、現代的でも現実的でも弁証法的でも歴史批判的でもないのだが、その大前提を踏まえながらも実は、実際に苦しんでいるアジアの現状や労働者の現状を実感や共感からも開始しなくてはならない共通の出発点は何であるのか?
それは、人間存在の本性論へも向かわせるのですが、日本の労働者や学生も派遣労働やパート労働に甘んじていたとしても決して生活できないわけではなく、また、労働組合の中にある労働者は、恵まれているものとも思われる向きもあり、一枚岩の連帯や団結はそこには、求められない産業の多様化、複雑化にマルクス理論は耐えられないのではないかとも簡単に捨てられる状況もあるのだけれども、
『新しい左翼入門』と言う新書もあったのですが、ヘーゲルもそうであったように、キリスト教的な発想が、根にある。
「人はパンだけによって生きるのではない」
パンは手段であり、そして、労働も手段であり、目的ではない。
労働組合運動、賃金闘争だけによって、生きるのではない。雑事によって、生きている豊かさを見失っているのが、労働組合のエリート中流説であり、日本の労働者、労働運動が現在毒されている病である事をもう一度、問いの方から鍛えて、提出していかねばならない時ではないかと感じているわけです。
だが、「人間存在の本性論」へと向かうために、ヘーゲルやハイデッガー、哲学への問いへとも戻らなくてはならないのであるが、その点についてもまだまだマルクスから学ぶべきものが多くあるように感じています。
マルクス学者同士の論争も実は、現実や現状を忘却した権力闘争の一部として、観念論化したものであり、かつてのソビエト期のノーメンクラトゥーラなる特権階級と同じ位置づけとなっているのではないかと思う。
マルクスの本来持っていた階級社会批判から共産主義へのヴィジョンをもっとも分りやすく再現する事が今こそ重要な様に考えざるをえない到達点を確認しながら更に、問いを鍛えていかねばならないのが第一のここでの結論です。
具体的にどの様な事をここで述べているのか?
階級は、現在、一般的に分りやすく、格差と言う言葉に置き換えられて表現されていますが、これより、格差とは社会的に何を指し示す言葉であるのかを明確にしていくことから
柄谷行人氏の『世界史の構造』に至るまでの大きな問題にまで、分りやすく言及していく基礎を作っていく努力をしていかねばならない様に感じています。
インターネットの活用は、重要であり、階級社会と格差論を仕上げていく議論を焚き付けていかねばなりません。それが、現代の大前提であり、基礎に据えるべきと感じているのですが、どんなものでしょうか?
いったん、ここで切り、具体的に何をすべきかを語る冒頭部分とします。