Ⅰ.これで良いのか!?日本のマルクス研究の現状について。
廣松渉(1933年8月11日 – 1994年5月22日)満60歳没
今村仁司(1942年2月26日 – 2007年5月5日)享年65。(Wikipediaから)
昭和史から平成年間へ、文化史を交えながら回顧するなら。
荒波に揉まれ、船底に穴が開いた状態。失われた数十年の月日。
「たいして長くない航海であったが、船はその船体にもまた機関部にも、さまざまな傷や付着物を受け、その機能はまひ寸前の状態で、とある入江に停泊している。」(カムイ伝第一部)1971年3月
今村仁司先生が、生前、今でもマルクスは危険思想であると述べていました。その真意とされるものは本人にしかわからないとしても、多くのタブーに遮られ、無駄な枝葉に遮られ見えなくされているのは事実であろうと分りすぎるくらいであったのでその時は自明のものと感じそれ以上の詮索はしてこなかった事を悔いています。
人間が生まれて生きて死ぬまで、その本質は、ローマ帝国の時代であっても、大正時代、現在、放映されている連続テレビ小説「花とアン」の時代でも同じでしょう。
ただ同じ過ちは犯してはならない現在、「花とアン」の中でも、かつてあった憲兵、赤狩り、社会主義思想に被れる純粋な帝大生と言う背景画の様にさらりと描かれ通り過ぎようとしているいつものパターンから抜け出されていない不満もあるのですが、それでも、忘れてはならない問題意識の回想の手助けにはなっているようです。
(ナレーション:美輪明宏)
マルクスの何が現在も危険思想であるのか?
それを追及しなくてはならない。
「自由は、多様化」の中で、事の本質へと迫らせない消耗文化の中へ埋没させられている事は主題的でなくともこれまでも幾度も触れてきた個所である。
「平等国家であるはずの中国や北朝鮮、社会主義国家」の方に、多くのタブーがあり、むしろ、マルクスの核心となっているものがそこでさえ危険思想として退けられてるものが多いように思うのだが、「自由と平等もしくは公平の関連性とは」の問いは、大きなテーマでもあるので、別のところで、更に、主題的に、取り扱っていかねばなりませんが、紙面と時間の関係上、先に進み、まずは、全体の構図がわかりやすいものとして論が広がり、インターネット読者の参加しやすい主題点を列挙するだけに留めるしかない様に感じています。
Ⅱ.技能論
Ⅲ.政党政治と長期自民党独裁
〔地方に生きる、階層の中で生きる幸福な生涯の限界とは〕
Ⅳ.数学的論理学的
ひとつづつゆっくりと語りだしたいところですが時間との戦いでもあるので、ゆっくりともしていられないので、Ⅱ~Ⅳまでのそれぞれの主題点をまとめて語らざるをえない。
技能論として具体的に今、感じているものは、ちきゅう座について如何なる場所であるのか模索しながら書いているわけですが、
書きながらの模索、実験的にも先週の22日、日曜日の朝に書いた文章は、26日の木曜日に掲載された。
ちきゅう座は、現在、「最新記事」「交流の広場」「催し物案内」に大きく三分割され整理されている。
メインは、「最新記事」である。
「時代をみる」「スタディルーム」「評論・紹介・意見」「カルチャー」の区分もまだあるものの2クリック目となっている。
本来、散漫になってもいけないし短い文章で言い当てられていなくてはならない。
ちきゅう座のゆったりした浪漫的味わいも悪くはないのですが、現在、チャット的に各ブログも掲示板もツイッターなどなど普及しているインターネットの世界では幾ら精査を持って掲載する旨の論文形式重視のちきゅう座という場としても技能的に長けている状況とは言い難いままの限界を備えているのではないだろうか?
敵にもその情報を技能性としての活用段階を知らしめてしまっているわけでもある。
最先端の頭脳が結集した場所でもあり、政治批判の場として、唯一の場所として籠城的であってもいけないが、まだまだ改良の余地が沢山あるように思うが、本当の意味では結集して議論が尽くされているのではなく、それぞれの功名性を求めたバラバラに書き出された論文の海を築いているだけで、主題別に議論が尽くされていないし広報もされていない恨みがあるようにも感じられてならない。
カリスマ支配の段階は必要だろう。
しかし、伝統的支配を通り抜けて、合理的支配、更に、脱近代、近代の超克を問題としてる共産主義論へはまだまだ技能的にも磨きだされていない荒削りさを露呈しているのがそのままちきゅう座的協働の無策模索状況ではないだろうか?
Ⅲ.政党政治と長期自民党独裁
〔地方に生きる、階層の中で生きる幸福な生涯の限界とは〕
特定秘密保護法案反対デモから集団的自衛権反対デモ抗議、そして、各集会への呼びかけ。
それはせいぜい、圧力団体止まりでしかなく、相変わらず、政党政治として自民党の長期独裁を許している蚊帳の外である事へ言及する提案する問題点を指摘して高め合う結集へと進めないのは何故であるのか?
バラバラの頭脳が、本当の意味で「人々を結びつけてはいないのではないか?」この問いへと迫っていかなくてはならないはずです。
Ⅳ.数学的論理学的
一般大衆的広報の為に、俗な書き方をするなら田原総一朗氏も押しているAKB48、かつてのアイドルは、山口百恵、松田聖子など個人であった枠組みから、グループ、集団へと枠組みと可能性は拡大されたとしても狭き門であるのは自然界の習わしであるのか?トップアイドルと言う栄光は、サッカーでもオリンピックでも同じく少数のものしか真の意味で実現されないのであり、それと同じく、メディアも独占されており、辛うじて、インターネットの普及によって、ちきゅう座と言う末席が与えられているとも言える図式であると考えられます。
しかし、ちきゅう座で語られているものがより本質をついているのであるのに、不当な扱いによって、末席に置かれているのであるとしたならそれを大いに訴えていかねばなりません。
しかし、株式会社の社長や取締役も狭き門の一つであり、中国共産党首脳部も同じく狭き門であったとしてもそれが、世襲的であったり、生まれながらの格差性=疎外性によって不公正なものに晒されているのだとしたなら何ら共産主義社会的ではないでしょう。
共産主義社会は、目標であり、出来るだけ近づけるとしても社会主義的段階の荒削りな段階、一国社会主義、戦時社会主義の段階についての現代史的段階について問わねばなりません。
このことを前提としつつ、
《3.現在、考えられる共産主義社会のヴィジョンについて》
絵に描いた餅ではない形で、進んでいきたいのですが、
歴史の悲惨さや人間の性悪説的残虐さは、社会主義国家だけのものではなく、藁をも掴む「蜘蛛の糸」の地獄図の中、前近代的であった社会主義国の一段階革命の飛躍に対して、民主主義革命、近代革命を経ての二段階革命論は、まさに、「知性格差」としての「階級格差」に支えられている事を問わなくてはならない。
人を押しのけてもトップアイドルになりたい!とする人が上記の論理の様にいたとしたなら、人を殺してでも贅沢な生活がしたいとする人が極端な形ではなくとも、その贅沢な生活、金権政治家の様な豪邸を夢見る人々などからナショナリズムや排斥、差別、押しのけが支配の論理として、本来、1%の支配階級との戦いである99%の大衆の助け合いや協働としての社会主義運動が常に、分断されてきている現状からもちきゅう座を是非、頭脳の最前線の場としても技能的にも長けた最前線の場としてここバラバラではない結集を再び考えて頂きたいと具体的にお願いするところで、今回は、おえておきます。
これまでの関連、ちきゅう座書き込みを以下に列挙しておきます。
マルクス転向論、格差論、疎外論 序論(対話的導入)―マルクスと転向問題についての一考察
https://chikyuza.net/archives/45489
マルクスへの私的挽歌
https://chikyuza.net/archives/45346
モノグラフ-異論なマルクス・・・・階級論の陥穽
https://chikyuza.net/archives/45271
モノグラフ-異論なマルクス―物神性の陥穽(1)
https://chikyuza.net/archives/45112
6/14世界資本主義フォーラム レジュメ「マルクスの思想形成過程-1848年革命と『共産党宣言』」
https://chikyuza.net/archives/45081
マルクス64年の生涯の魅力と現代階級・格差論雑感もしくはその復興について
https://chikyuza.net/archives/45306
マルクスの魅力と現代階級分析と格差論
https://chikyuza.net/archives/45189