ある研究会でマルクス経済学の宇野シューレ系列の理論家の講演を聞くチャンスがあった。
講師小幡道昭のレジュメに言う。「歴史理論としての戦後のマルクス経済学は、経済史と経済理論に挟撃され、いまや絶滅の危機に瀕している。」
自分が所属する学問が絶滅危惧品種である事を認めている。同時に今日の主流派経済学もまた「今日のような歴史の大きな転換点では、・・・・・・、精密なモデルを構築した理論(主流派現代経済学:岩田補足)も、味気のない在り来たりの発言を繰り返すことになる。それは、(かつての:岩田補足)通俗的なマルクス経済学と変わるところがない。」と診断する。
私のようなポーランドや旧ユーゴスラヴィアの社会主義崩壊と資本主義化の悲喜劇を観察して来た者にとって、十分にうなずける診断である。小幡の言う「歴史の大きな転換点」が1989年以降の社会主義体制崩壊と資本主義化をも含意しているか否かは、レジュメ『マルクス経済学の課題』からは、不分明である。私なりに、1989年以降の十数年間を歴史の大転換期と見るならば、ソ連東欧の資本主義化にあって、自身喪失のマルクス経済学者も自信過剰の主流派経済学者も共に意味ある発言が出来なかった。前者は沈黙、後者は「私有化、市場化」を絶叫するだけだった。前者はイデオロギー的に解体し、後者はイデオロギー的に有頂天になっただけだった。共に言う所の科学性を示さなかった。かかる知的無力の結果が国有財産の盗奪によるオリガルヒ大資本家の誕生であり、――混乱した体制転換プロセスで勝利した人達は、今日日本で「振り込め詐欺」集団類似のシナリオ力と実行演技力を有していた少数者である。――大衆の貧困化であった。盗奪財産はただちに私有財産とされ、神聖不可侵となり、国際共同体によって承認された。それは、ユーゴスラヴィア多民族戦争や今日のウクライナ内戦に直通する。
ところで、私は、「経済学は資本主義を『形成』しうるか」なる論文を『経済セミナー』1991年5月(日本評論社)に発表した。それは、『社会主義崩壊から多民族戦争へ』(御茶の水書房 2003年)に収録されている。
そこで、私は、理論知としてのマル経的原論と主流派経済学教科書の補完的意味を次のように論じている。
経済原論(純粋理論)レベルに限定して、市場経済像として、マルクス経済学的資本主義論と近代経済学的市場メカニズム論があるが、ソ連・東欧における市場化の社会経済的矛盾・葛藤に満ちた過程――私は、階級形成闘争と見るが――を外から理解するうえで、あるいは内にいて自己の位置を知るうえで、あるいは為政者として市場化ダイナミズムに促進的にか制動的にか対応するうえで、いずれがより有効あろうか。たとえば、代表的教科書の『経済原論』(山口重克、東京大学出版会)と『ミクロ経済学Ⅰ・Ⅱ』(奥野・鈴村著、岩波書店)を上記の問題意識をもって読み比べるならば、答えは自明であろう。
マルクス経済学の原理論において、商品の自己組織化作用として貨幣、資本による労働・生産の包摂、産業資本、商業資本、銀行資本、証券資本へと順を踏んで上向・展開する経済カテゴリーの論理的=歴史的ダイナミズムについて学習できる。このような資本主義の自己組織的・自己生成的理論の基礎上に近代経済学的プライス・メカニズムの均衡化証明が接合されると、市場経済化プロセスを理解せんとする、あるいは実践する者にとって有効なオリエンテーションを与えるであろう。この意味で、ソ連・東欧の反社会主義者や反マルクス主義者は、自己の目的を成就するためにマルクス経済学原論の学習が望まれるのである。そして、階級形成闘争の結果として資本・賃労働関係が根づき、市場経済が本格的に回転し出した段階でマルクス嫌いの意地をとおして、マルクス経済学を忘却ないし密教化し、現代経済理論だけを顕教化し、それに頼ればよいのであろう。
要するに、20世紀末の10年間、体制転換に際して、マル経学者は、自己の『資本論』を目撃出来たはずであった。
以上、私は、両経済学の理論知として補完関係にある側面が社会的に自覚されなかった事を指摘した。しかしながら、それだけではない。
資本主義経済社会の神話としても補完関係にあった。中世は、神や宗教に基づく神話によって社会の上・中・下層に社会心理的安定がもたらされていた。近代資本主義では神や宗教による神話の効果とは別に、自分達独自の神話による社会心理的安定に求心する。その第一神話が市場均衡存在証明としての現代経済学である。その第二神話が資本主義に対する労働基礎論的批判としてのマルクス経済学である。第一神話に基づいて人々は自己利益追求の中に社会的安心感が保証される。アダム・スミスの「見えざる手」にアダム・スミスが語らなかった「神の」を追加してしまう心理こそ、第一神話希求心そのものである。第二神話に基づいてそんな経済社会に何か乱調が生起したとしても、何か無気味な怪力乱神の力によってそれが生じるのではなく、「労働力の商品化」なる客観的無理によってである。その無理をうすめれば済む、と社会的安心感が保証される。
今日、第二神話に続き、第一神話もまた力を失った。そこにイスラム国のような両神話の埒外の怪力乱神に先進資本主義社会の市民達がおびえる理由がある。第一神話が第二神話を無力化してしまった結果、あるいは第二神話の担い手が不必要に無気力となった結果、両神話の相乗的社会安定化作用が減衰したわけである。質疑応答で小幡も断言していたように、今日の宇野マルクス経済学は、「労働力商品化の無理」を神話的に語らなくなったそうである。
平成27年6月4日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study643:150604]