2014年6月22日、日曜日の朝になって、『マルクスへの私的挽歌』
https://chikyuza.net/archives/45346
という一文をちきゅう座、《交流の広場》5列目の文末にて辛うじて拾うことが出来たので、最初に目につきました。
結構、いい加減な読者でもあるので、見落とすことも多々あるのですが、それでも、今、どの様にマルクスを捉えるべきかについては、自分にとって、大テーマでもあるので、マルクスが続き、時系列的に投稿が繋がる事を嬉しく思っている次第なのです。
しかし、まだ、今、さっき、一文を発見したばかりでもあり、熟読には至っていないのですが、しかし、スピードも必要なのだろうと思い、まずは、印象として語りだしていこうと思うのです。
繰り返される「転向の問題」それは、太宰治から吉本隆明氏まで、言い古された問題でありながら、明確に答えられていない問題の一つであろうと思います。
この道なき道について誰かが答えて道を開いていかなくてはならなかったのですが、遅すぎた感があります。
吉本隆明氏は、「反核異論」以後、転向的とも称され、「老い」を自ら背負った?とも語られていたりしていたようですが、吉本氏を崇(あが)めている社会主義運動家もまだ多く存在しています。それは、私自身としては未知の分野でもあるので更に、対話を必要としている個所です。
しかしながら、私としては、一度もマルクスを崇めた事もなく、唯物論者であるなら、人神思想からは、脱していなくてはならないので、それは、自己矛盾としてあったはずです。
私史を若干、理解の手助けとして語ることが許されるなら、最初から転向者や異端者からマルクスを学び、思考を開始しているが故に、真性なるものを問い続けられたと言えるかも知れません。
革命は、最初から『裏切られていた革命』であり、御多分に漏れず、太宰治、ドストエフスキーなどの運動の挫折、転向者の側から開始され、マルクスは、トロツキーと世界永続革命論から魅せられていてもどこからでもマルクスは、始められる事を告げるために、投稿しているようなものだと言うことです。
1.繰り返される転向問題は、上記、冒頭にある様に、青年期から大人の狡猾さへの自己欺瞞であり、官僚主義的「いちご白書の思想」として語られ続けていたのでしょう。
これについては、警戒しなくてはならないものの様に思えます。
《ただ、崇めていた、と云っても、己が思想として、身につけ、実践に乗り出すところまでは行かなかった。》
本来、ちきゅう座にて語られている脱原発運動や集団的自衛権異論デモなどは、マルクスや社会主義運動とはまったく、無関係にも開始できるものであり、高所からの理論武装を断念して、身の丈にあった運動として再出発したものでしょう。
田中一郎氏の一文からブルマンさんへと引き継いで書き出されている路線、「権力の横暴、エネルギー問題」異論としての運動の継続がそれにあたるんではないかと思います。
《彼らの多くは、極端に走り、犯罪者に成り果てたり、或は、自己の思想に見切りをつけて転向し、揚句の果てには労働組合運動に敵対したりしたものだから、余計に、見下げ果てたものだった。》
個人としては、マルクスを理論的に、崇めることが出来たとしても、実際に、○○派や××派の運動に、自身を同化していく事は出来ないが故に、実践活動への道は実際は、閉ざされていたという実情があるでしょう。
廣松氏や柄谷氏は個人であり、学者であったり、一批評家でしかない立ち位置であり、何ら、政党でも党派でもない未満として、模索を脱しきれなかった故に、アソシエーションに留まっていたという閉塞がそこにはあったろうからです。
《そのせいかどうか、頗る心身が軽い。 矢張り、壮年になるまでかぶれるものでは無いのだろう。》
マルクスを語りたいものは、その軽さではなく、山を登りたい、また、歴史上の悲惨さを問い続けたい者であるのだと理解しています。
理論から実運動には、上記の様に語られている壁があるのも事実です。
しかし、実践がなくしてマルクスも社会主義運動もない。
○○派vs××派は、権力闘争であり、なんら社会主義運動でもない。
中国もマルクスを守っているとはいいがたく、権力の権化である一面がある。
だが、それでも、心身が軽くはなりたくない。山を登りたい。その理想を貫くことこそが、「生きている」ことであり、彼岸として、浄土を行かない道でもあろう、至極当たり前のもう一つの結論だからだ。
理論だけではない、実-実践として、断片的な後追いとなっていてもちきゅう座にて、脱原発運動、集団的自衛権阻止としての反権力=反自民党運動は、意味を持っている牙城としてある事を「今、ここで、問わねばならない」のだともう一度確認せねばならない。
最初から太宰治=ドストエフスキー=転向文学と裏切られた革命=トロツキーから開始されたのであり、一度も崇めたこともなければ、あらゆる意味で、反権力であるからこそ、マルクスの生涯の哲理に魅せられるものがあった事、その共感=共同主観性の復興を問題としているのです。
ここには、多くの落とし穴がありますが、「転向」問題は、決して、軽い問題と考えているわけではないことをまず述べて、更に、前回述べていることに帰る。
3.現在、考えられる共産主義社会のヴィジョンについて
これまでを、今度は、主題的に独立して語っていく様に、準備していきたいと考えています。
今朝、この一文を書いているうちに、新しい投稿が掲載され、マルクスの文字が、交流広場の表より消えていました。
格差、挫折、それぞれのコンプレックス=疎外論を仕上げていかんとするのが、私のマルクスの出発点でもあるのです。
熊王信之さん、再び書き出すきっかけをありがとうございました。
今回も短くこのくらいで私的返信として投稿してみます。