マルクス64年の生涯の魅力と現代階級・格差論雑感もしくはその復興について

 

モノグラフ-異論なマルクス・・・・階級論の陥穽(2)

https://chikyuza.net/archives/45271

 

ちきゅう座に掲載された上記が正直な感想として面白かったので引き継いで再び書き出してみます。

前回書いたものの誤字も直したいところですが時間がないので先へ進みましょう。

 

 

現在の集団的自衛権抗議デモに参加する人もテントにて脱原発抗議に継続参加する人もマルクスや運動理論としての部分については一般素養として捉えていたり、時間の余裕のある時に少しかじったりで良いと考えているのではないかと思います。

それ以上にこの分野は暗礁に乗り上げていて更に、視界不能にもなっている故でもあるでしょう。

 

マルクスや社会主義問題を考える事、広報する事は、

一部の人に限られていたり、今ある眼前の問題(集団的自衛権や脱原発問題)とは違うこだわりであるのも確かであるのですが、かつて、イデオロギー対立が鮮明な現実として20世紀にあった事の考古学的興味も交えて、行き当たりばったりではいけないと言う危機感があるのも確かです。

 

マルクスをやるよりも法学を極めた方が良い、近代経済学を極めたいなどなど短い人生の中で、選択肢は無数多様にあるのだから、一致したり、連帯したりする事がままならないままに、自由な選択肢の中で政治問題、抗議デモや脱原発抗議デモなどを選択しているのであって、マルクスについての考察もこだわりもその一部であるといえるので多様化を認めていく中で、どんどん卑小化していかざるをえないのも確かです。

皆が、本の虫となり、図書館から出てこないとしたなら抗議デモやテント座り込み抗議にも人が集まりません。

 

それ以上に、せっかく、民主主義を謳っていながら政治への興味を持つものが、貴族的な逆ピラミッドでしかないのも、まさにそれこそ帝国主義的危機状況であると言えるでしょう。

 

民主主義「人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させない」

それでも万人が本来政治を監視する興味を持つべきでありながらも、精神的な意味でも社会階層的な意味であっても、かつての用語では「疎外」された状況や天安門事件的に弾圧される、または、自粛させる権力側の情報操作性もあり、政治学研究もマルクス学研究も阻まれ続けているのは、今も昔も変わらずあるのではないかと感じています。

 

その壁を打ち破るにはどこから問題にしたら良いのか?

マルクスから何を読み取ったら良いのか、何を展開したら良いのか、その問題意識を確認しなくてはならないと常々考えていたわけです。

 

政治学も経済学も彼岸のものとせず万人のものとして分りやすくしていかねば運動は拡大していきませんし、進むべき方向性も定まりません。

 

 

1.階級から格差へ

 

上記、

モノグラフ-異論なマルクス・・・・階級論の陥穽(2)

冒頭にて、

 

《賃労働-資本家-土地所有者からなる三大階級論に基礎を置いているのだから、もうそこからして、現実の資本主義を構成している知識労働、管理労働、流通労働などなどに関して適切な扱いを行うことが初めから阻止されてしまっている。階級関係の分析とそこから体制変革の主体の摘出を最大の課題とするマルクスの理論体系は最初から、そのコア理論ともいえる領域に致命的ともいえる欠陥を抱えていたのである。》

このようにあります。

 

これには、二つの考え方があると思います。

 

本来、階級社会と言われて思い起こすものは、古代史の世界、ローマ帝国など奴隷階級などがある社会、貴族が支配する絶対王朝時代や江戸幕府徳川時代の士農工商エタ非人の世界であり、「生まれながらにその所属階級」が決定してしまっている社会です。

 

資本論は、論理学の書でもあるから哲学的原型を粗描し資本主義の原型を描写して正す事に何ら矛盾はないだろうと言う考え方です。

十分、文学的表現を交えているのですが、バルザックやゾラほどに、資本主義の内面を活写出来てはいなかった?

資本主義の多様性は、資本論の問題意識ではなく、むしろ、今日、社会学やジャーナリスト報道の仕事となっており、もはや資本論に必要以上にこだわり、留まる必要がなくなったのではないかと言う考え方です。

 

もうひとつは、ブルマンさんの言う通りであり、現代資本主義に沿う資本論として、展開刷新が必要なのではないかと言う考え方です。

 

前回も引用した

6/14世界資本主義フォーラム レジュメ「マルクスの思想形成過程-1848年革命と『共産党宣言』」

https://chikyuza.net/archives/45081

こちらにおいては、

《それは、マルクスの思想を取り扱う上で、その対象がどうして『資本論』ではなくて、『共産党宣言』なのか、という点である。元より『資本論』をないがしろにするつもりは毛頭ないのだが、当座の理由として次の点をあげておきたい。

 

第一の理由は、今日の『資本論』研究が、もっぱら経済学としての研究に傾きすぎていること、それ故、資本主義システムの分析をもってマルクスの本意であるかのような誤解を生みだしていることへの疑義である。》

 

いずれにしても「資本論」研究の硬直化、閉塞問題を問いているわけである事を前回指摘して「同意」する点として書き出したのですが、

それの続きを今回も時間の許す範囲で展開せねばなりません。

 

自由主義社会、もしくは、自由主義時代の階級とは何でしょうか?

天皇は例外としてあっても「職業選択の自由」のある社会であるように思われます。

表向きは、「努力」するなら何にでもなれる社会=アメリカンドリーム的幻想の中で、大部分の大衆は、幻想乞食となっている社会といえないでしょうか?

 

努力をしないのか努力をさせない社会であるのか?

だまし合いの社会であるのか?

そのような中でモラルと経済学の関係はどの様にあったのかが、アダムスミス的問題意識でもあったのではないでしょうか?

努力をするのは人より抜きんでた贅沢な生活をしたいからだけではない。

目的(=モラル)と手段(=金)。

 

それは、差別の内情も形作っている様にも思えます。

「素行が悪い」「努力しない」労働者階級は、堕ちるべくして堕ちた人々とされている現状があるのが、「格差」の本質であり、

自由主義時代の階級社会の在り方であるとして分析を加えなくてはならない。

 

結論としては、「格差論」として、疎外論的初期マルと「資本論」の世界までを結び付けて再構成する事になるのではないでしょうか?

廣松もアルチュセールも「認識論的切断」的混乱の中で、混乱していた時期があったように思われます。

 

 

「努力」「疎外」「格差」は、内面的で、哲学的用語過ぎるわけですが、それに新しい言葉を与えて行かなくてはならないものも感じています。

 

それが、序でも語っていた「多様化と政治的選択肢」としての連帯について戻る問題意識であり、「人間存在の本性論」としての共通分母作りとしてのマルクス研究として語りたいものに他なりません。

 

 

人生は、短い。

マルクスは、知っての通り、64年間の生涯。

その中に合理的に盛り込まれた論理と哲理と社会観、その模範性と現代的展開の中に、現代人のモラルとしての規範、主題が今でも含まれているのか?

これを繰り返し問いたいとするのがここでの主題なのです。

 

2.対話の試み、努力、格差、人間存在の本性論(用語仮称)

 

言語は、物理的にも分断され、中国語や韓国語、日本語などなどに分かたれていますが、それ以上に、対話が分断されている現状における考察をここでしていきたいと思います。

次回展開します。

 

3.現在、考えられる共産主義社会のヴィジョンについて

 

古代史から階級社会が続き、更に、徳川幕府300年、階級社会の方が戦国時代よりはまし?

そして、自由主義時代、資本主義社会期が続いているわけですが、千年後か百年後か、もし実現されたとしても自身の生きていない遠い未来が何になるのだろうか?

その問いに答えていかねばならないはずですが、それについて語った本があるようでしたなら教えてください。

また、平和の持続とは何かについて言及を続けていく予定です。

 

朝になったので、時間的にいったんここで今回は、予告して終わりとして次回の機会とします。