マロニエの朝露のしずく ─ あべ菜穂子の花エッセイ

【イギリス 花もよう  人もよう】                                                                                                                  ~イギリスに咲く季節折々の花と、花にまつわる人もよう、歴史、文化をつづります

ロンドンの住宅街で、通りに落ち葉がつもっています。ときおり自治体の職員が電動式の「落ち葉拾い機」に乗って、道路の枯れ葉を端から吸い込んでいくのですが、きれいになった道の上に、またハラハラと葉が降りてきます。木枯らしが吹いて葉っぱが舞い上がり、掃除にあたる自治体職員の頬をなでたりしています。
でも、落ち葉の季節はそろそろ終わりです。マロニエの葉が散りはじめたからです。大樹もついに、「冬ごもり」の準備です。日照時間は日々、短くなって、近所の人の顔を見ることも少なくなりました。これから長い冬のあいだ、植物は室内で楽しむことになるでしょう。

マロニエは、ロンドンでも必須の木です。マロニエには、人間を温かく包み込むような包容力があり、眺めていると不思議に安心感が湧いてきます。かつて、ナチス占領下で散ったユダヤ人の少女、アンネ・フランクも、オランダ・アムステルダムの隠れ家からマロニエの木を見て、希望をつなぎました。

今回のエッセイは、マロニエの木とアンネの物語です。

マロニエの朝露のしずく

(マロニエの花)

マロニエの黄金色の葉が、風に舞いはじめた。大きなものだと大人の手のひらほどもある葉っぱは、木枯らしに煽られて、まもなく一枚残らず散ってしまうだろう。マロニエは、ほかの木よりもすこし遅れて落葉するので、この木がすっかり葉を落としたら、冬本番である。ロンドンの街は、鉛色の空の下でマロニエの木がはだかの枝を広げる、寒々とした光景になる。

マロニエは、ヨーロッパ各地で、街路樹として植樹されている。毎年早春に、みずみずしい新緑を芽吹かせ、春の進展とともに葉が大きく成長して重なりあい、やがて濃い緑となってこんもりと枝を覆い隠す。すると、下のほうから順々に白い円錐形の花が開いていく。樹齢を重ねたものなら高さ30メートルぐらいになる大木のてっぺんまで花が咲きそろうと、まるで木全体にたくさんのキャンドルを据えたような風情になり、壮大な美しさが広がる。

秋には、クリに似た実を地面に落とす。イギリスでは、つい最近まで、子どもたちがマロニエの実に穴をあけて糸を通し、つるした実をぶつけ合って相手の実を割ることを競う遊びが、一般的だった。マロニエは昔から、ヨーロッパの人々の暮らしとともにあり、四季の光景になくてはならない木である。

ヨーロッパの象徴のようなマロニエは、長いあいだ、人間の生きざまを見てきた。人間社会で繰り広げられる様々なドラマを、大樹は上から静かに見つめてきたのだ。マロニエは歴史の証言者である。第2次世界大戦中のオランダ・アムステルダムで、一本のマロニエの木が、ひとりの少女の悲運を目撃し、彼女の短い生の叫びを年輪に刻んだ。

少女は、アンネ・フランク。ナチス占領下のアムステルダムで、迫害を逃れて2年以上も家族とともに隠れ家に身を潜めていた、ユダヤ人の女の子である。その体験は「アンネの日記」として戦後出版され、世界中の人々に知らされた。

(マロニエ)

私は8年前の秋に、いまも当時のままに保存されているアンネの隠れ家を、家族と一緒にアムステルダムに訪ねた。

アンネの一家は、大戦前の1933年にドイツでヒトラーが政権を握ると、祖国を脱出して「自由の地」アムステルダムに移った。17世紀にヨーロッパの商業の中心地として栄えたアムステルダムは、宗教的な寛容さで知られ、各国から大勢のユダヤ人や、フランスで弾圧されたユグノー(カルヴァン派キリスト教徒)らが移住してきていた。アンネの一家も、安住の地を求めてアムステルダムに行ったのである。しかし、いっときの平穏は、7年後にナチスがオランダに進攻したため、終わる。占領下でユダヤ人排斥の動きが強まり、一家4人は身を隠すことを決断した。

アムステルダム中心部の、運河に面した「プリンセン堀通り」263番地。ここの4階建ての建物が、一家の隠れ家だった。1階は倉庫、2階は事務所で、その上の3階の踊り場に本棚が置かれた。本棚を押してぐるりと回転させると、薄暗い空間が現れる。そこから狭い階段を上がったところに、「裏の家」があった。表からは見えず、完全にカムフラージュされた場所であり、一家はそこで息を潜め、足音をしのばせて2年余を過ごした。アンネは、13歳の誕生日に両親からプレゼントしてもらった日記帳を大切に隠れ家へ持っていき、そこでの生活を克明に記したのである。

外に明かりや音がもれないように、各部屋の窓は閉め切られたままで、カーテンがつるされた。アンネは、お姉さんのマルゴーと一緒の部屋を少しでも明るくしようと、壁に絵はがきや映画スターの写真を張った。それでも、毎日、窒息しそうな生活である。

「ぜったいに外に出られないってこと、これがどれほど息苦しいものか、とても言葉には言いあらわせません。でも反面、見つかって、銃殺されるというのも、やはりとても恐ろしい」  (1942年、9月28日)
アンネは、心の中で叫び声をあげる。「早くこのいまわしい戦争が、終わって欲しい!」と。

(アンネの隠れ家があったアムステルダムの建物)

しかし、多感でひたむきな少女は、心のなかに希望の灯をともし続けようと、懸命に努力する。アンネは近くの教会の塔から聞こえてくる鐘の音に惹かれて、屋根裏部屋に上り、自分だけの秘密の場所でひとり空想にふけり、夢を追った。

「わたしの最大の望みは、将来ジャーナリストになり、いずれは著名な作家になるということです。とりあえず、自由になったら“隠れ家”という本を書きたいと思っています」 (1944年5月11日)

14歳になったアンネは、隠れ家に後からやってきた「ファン・ダーンさん一家」のひとり息子、ペーターに淡い恋心を抱く。屋根裏部屋にペーターを呼んで、それまでの人生のことや、隠れ家から解放されたときのことなどについて、2人で話し込んだ。

アンネに、安らぎと慰めを与えたのは、屋根裏部屋の窓から見えたマロニエの木である。季節の移り変わりとともに刻々と姿を変えていくマロニエの木から、アンネは生きる力を与えられ、その姿に悲しみと望みを託したのである。真冬のある朝、彼女はペーターと一緒に、マロニエの枝から、朝露のしずくが光りながらしたたり落ちるのを見る。

「わたしたちは2人で、窓から青く澄んだ空を眺め、一糸まとわぬマロニエの木の枝に、朝露がきらきらと輝いているのを見ました。かもめや小鳥たちが銀色の羽根を伸ばして、空を舞っています。わたしたちはうっとりとして、感激のあまり、言葉をなくしました」 (1944年2月23日)

(葉が散り始めたロンドンのマロニエ)

やがて隠れ家にも、明るい陽光の射す春が訪れた。

「4月はとっても素敵です。暑すぎず、寒くもなく、ときおり柔らかい春雨が降ります。わたしたちのマロニエの木は、葉をつけました。よく見ると、そこここに、もう小さなつぼみが開きはじめています」 (1944年4月18日)

マロニエの木は、葉をびっしりとつけ、むせかえるような生命(いのち)のエネルギーを放ちながら、次々に花を開いた。

「わたしたちのマロニエの木は、花が満開になりました。すっかり緑の葉に覆われて、昨年よりも、ずっときれいです」 (1944年5月13日)

夏が近づくとともに、戦況はそれまでとは変わって、ドイツ軍が劣勢となった。英米の連合軍の北フランスへの上陸がうわさされた。アンネは家族やペーターと一緒に、ラジオのニュースに耳をそばだて、オランダの解放が近いかもしれない、と心を躍らせる。マロニエの花が咲いているうちに、自由になれるかもしれない、そうしたら、念願の外の世界に出ることができるだろう、、、。

しかし、一家はその3か月後の8月、ゲシュタポ(独秘密警察)に見つかってしまう。アンネの家族とペーター一家は、全員が列車でアウシュビッツに送られたのである。アンネはその後、ドイツ・ベルゲンの強制収容所に移され、そこで発疹チフスにかかって、1945年3月、15歳9カ月の生涯を閉じた。

(満開のマロニエの花ーー5月末ー6月ごろ)

×××

アンネがいなくなって、70年近くが過ぎた。隠れ家のあった建物は、老朽化が激しくなり、1957年に取り壊しの計画が持ち上がった。しかし、「アンネの記憶を薄れさせてはいけない」と、アムステルダムの市民運動家グループが立ちあがり、取り壊し阻止の運動を起こして計画を中止に追い込んだ。そして建物は「アンネ・フランク・ハウス」として、1960年から一般に公開されるようになった。そこでは、隠れ家を当時の姿のまま見ることができるだけでなく、展示室にはアンネの日記の原稿のほか、当時のナチス・ドイツやオランダのようすを伝える資料も、陳列されている。

アンネが望みを託したマロニエの木は、戦中、戦後を生き延びて、同じ場所に立ち続けた。マロニエの木は、世界中から年間60万人の訪問客をその枝の下に迎え、アンネの物語を伝える、という大きな使命を負ったのである。この木を保護する目的で、「アンネ・フランクの木財団」まで設立されて、マロニエは手厚いケアを受けていた。

ところがその後、マロニエに異変が起きた。2005年、深刻な病気にかかっていることがわかったのである。木を救うことは難しいと判断され、関係者が協議を重ねて、マロニエの「子孫」を残すことが決められた。こうしてマロニエの実が収集され、発芽させて、たくさんの苗木が育てられた。苗木はこれまでにオランダだけでなく、世界各地の学校や諸機関に寄贈されたという。2009年には、苗木150本がアムステルダムの公園に植樹された。アンネのマロニエは、世界中に「平和の大使」として出向き、アンネのメッセージを伝えているのである。

そして、当の親元のマロニエの木は、、、。 2008年に、鉄製の頑丈な支えが根元に取り付けられたにもかかわらず、病にむしばまれた木は2010年8月、強風にあおられて倒れてしまった。樹齢170年を超え、アムステルダムでも最古参だったアンネのマロニエは、ついに力尽きたのである。

その後、今年3月に、エルサレムのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)記念館に、マロニエの苗木が植樹され、記念式典が開かれた。アンネのアムステルダム時代の友人で、ホロコーストを生き延びた83歳のハンナ・ピックさんが式典に参加し、「アンネの思い出を残すことができて、素晴らしい」と語ったことが、伝えられた。

アンネは、「世の中に出たら、人類のために働いて、私の願いをみなに知らせる」(1944年4月11日)と、日記に書いた。彼女の「願い」とは、宗教や人種のちがいにかかわらず、すべての人々が平和に暮らせる世界を実現すること、にほかならない。地球上では、いまだに紛争が絶えないが、マロニエの木の子孫たちは、これからもアンネのメッセージを世界に運び続けるにちがいない。


(赤いマロニエの花)       

※アンネの日記の内容は、アンネ・フランク・ハウスに展示されていた日記や、同ハウス発行の本「アンネ・フランク」(日本語版)、さらに同ハウスのホームページhttp://www.annefrank.org/ から引用しています。

(原文は2005年1月1日、日英フラワーアレンジメント協会報に掲載。記事は大幅に書き換えてあります。)


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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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