ミャンマー・バングラデシュ国境のロヒンギャ難民問題が深刻化している。ミャンマーを追われてバングラデシュ側に流れ込む難民の数が急増しているのだ。
約3000の仏塔が建ち並ぶバガン仏教遺跡で知られるミャンマーは、仏教徒が多数を占める国だ。その西辺にあるラカイン州(旧アラカン州)には、イスラム教を信仰する少数派のロヒンギャが暮らしている。
ここに国境を接しているバングラデシュは、英領インドから東パキスタンを経て独立し、イスラム教徒が多数の国だ。ベンガル湾東部の港湾都市チッタゴンの周辺には、仏教を信仰する少数派が暮らしている。仏教発祥の地に近いのはバングラデシュの方で、世界遺産に指定されたパハルプールなどいくつかの仏教遺跡もある。
陸続きで国教を接するこの地域では、歴史的に様々な民族や宗教が行き交ってきた。ミャンマーもまた、英領インドの一部だった。現在の国境線はイギリス植民地政策の名残という性格が強い。ここから独立した国々は、歴史、言語、文化、宗教を共有する単民族の国民国家を作ったはずだったが、この観念は最初から現実と一致していない。異なる宗教を持つ少数派がある程度の緊張関係を持ちながら共存しているという姿が、どの国にも見られる。観念的な国民国家を貫徹させようとすれば、少数民族問題が持ち上がることになる。
ミャンマー軍政が同国内のイスラム少数派ロヒンギャを国際テロ組織や対テロ戦争と結び付けて迫害している理由の一つは、制裁措置を科していたアメリカ政府との関係改善をめぐる駆け引きだった。このような背景が日本で報じられることは少ない。
ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスのブログ版に掲載されたジョセフ・オルチンの論説を翻訳して紹介する。
(前文・翻訳:酒井泰幸)
原文:http://www.nybooks.com/daily/2017/10/02/myanmar-the-invention-of-rohingya-extremists/
ミャンマー:でっち上げられたロヒンギャ過激派
ジョセフ・オルチン、2017年10月2日
チッタゴンの海岸で銃を手に入れるのは難しいことではない。少なくとも私はそう聞いた。バングラデシュ南部の漁村シャムラプールにある家の外、頭上を覆う樹々の木陰で、私はある男にインタビューした。彼の部下は傍らにじっと立って、彼に紙巻きタバコを差し出し、彼のお喋りに合わせ従順に笑っていた。私の知人が警察と闇の世界の両方に持っていた人脈は、この西部開拓時代のようなバングラデシュ辺境地帯では、世界を動かすのに欠かせないものだ。ここでは密輸が最も大きな収入と権力の源だ。彼はこの地域の新しい現象を反映していた。悲惨にも難民となったロヒンギャが、国境の向こうの祖国ミャンマーでの軍による迫害に異議を申し立てるため、武装抵抗運動を開始する可能性が出てきたのだ。
8月25日に、アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)という寄せ集めの集団が暗闇の中から現れ、主にこん棒と山刀で武装して、ミャンマー西武のラカイン州(旧アラカン州)で約30カ所の警察派出所を急襲し、12人ほどのミャンマー人警備員を殺害した。ミャンマー軍は圧倒的な武力と残虐さで対抗し、民間人を無差別に殺害し性的暴行を加え、村々を焼き払ったと報じられた。それから数週間のうちに、軍は50万人以上のロヒンギャを国境の向こうのバングラデシュへと追い出したが、その口実は、バングラデシュから不法に移民してきて過激派やテロリストをかくまっていると軍が難癖を付けた人々に対し「掃討作戦」を行うというものだった。バングラデシュで彼らが合流したのは、この数年に繰り返されてきた大虐殺とアパルトヘイトのような状況を脱出した、さらに50万人ほどの人々だった。
ミャンマー政府は数多くの民族的反政府運動に直面してきた。たとえば、同国北部の中国に近い国境地帯では、カチン独立軍がはるかに良い装備で反政府運動を戦っている。しかしカチンの人々はキリスト教徒が多く、大規模な民族浄化作戦の対象になったり、信仰のせいでテロリストと非難されることはなかった。違っているのは、ロヒンギャの人々の多くがスンニ派イスラム教徒だということだ。ミャンマーの軍部指導者は長らく、ロヒンギャをアルカイダと繫がった危険なイスラム教徒過激派の第5列に見立てようとしてきた。
このイスラム教徒少数派を「過激派」や「テロリスト」として悪魔化することは、ミャンマーの仏教徒多数派の側にいる国家主義の政治家たちにとっては、役立つものだと分かった。だがこのようにロヒンギャを他者化することは、今や危険な二次的影響のリスクをはらんでいる。それは主に、イスラム聖戦士反政府運動の亡霊を政府が呼び出せば、それが現実化するかもしれないことだ。さらに、辛苦をなめ先鋭化した離散ロヒンギャが、銃剣で脅され国境を越えてバングラデシュに流れ込んだ。そこでは「ヒズブアッタハリール(イスラム解放党)」のようなイスラム過激組織が一般大衆の感情を煽って、ロヒンギャの大義を自分たちの政治目的のために使っている。
ロヒンギャをイスラム教徒テロリストの脅威として描写することには根深い背景がある。ミャンマーが民主制に移行する前の10年間、ミャンマーの情報関係者は「対テロ世界戦争」に好機を見出した。2002年10月10日、サダム・フセインがアルカイダと繋がりを持ち大量破壊兵器を保有しているという偽りの根拠に基づいて、米国上院がジョージ・W・ブッシュの不運なイラク戦争を承認したのと同じ日、米国国務省がヤンゴンに派遣した特使から受け取った電報は、ミャンマー政府から情報共有の希有な申し入れを伝えるものだった。当時ミャンマーには厳しい制裁措置が科されており、ミャンマー全体が国際社会から隔絶されていたので、この協力は極めて希な出来事だった。
ミャンマーが提供した情報によれば、ロヒンギャ連帯機構(RSO)とアラカン・ロヒンギャ民族機構(ARNO)という今は活動していない2つの団体が、アルカイダ工作員と面会し訓練を受けていたとされていた。この外電は、2つのロヒンギャ団体がタイ国境に本拠を置く他のビルマ民族反政府団体との関係を構築しようとしていたことも報告していた。米国大使館が確信していたのは、ミャンマー将官らの望みは「(対テロ)最前線で協力して功績を認められることで米国との関係を下支えする」ことにあり、アルカイダに援助を求める団体との関係を理由に他の民族的反政府団体の評判を傷つけようともしていることだった。民族的反政府団体の多くは軍に対して共に闘っていたので、民主化活動家と親密な関係にあった。歴史的にミャンマー国軍は、反対勢力や権利を剥奪された少数派を弱体化さるため、分割統治戦術を使ってきた。
だが、ロヒンギャ団体がミャンマー国内での作戦のためにアルカイダとの関係を構築できていたという証拠は全くない。オサマ・ビンラディンと面識があったと噂されるロヒンギャの一人、サリム・ウッラーという活動家は、こう私に語った。ミャンマーでイスラム教徒が銃を取ればテロリスト扱いだが、仏教徒がそうすれば自由を求める叫びを上げていることになる。ロヒンギャに対する偏見が、他の民族的武装団体を支持する多くの人々や仏教徒多数派の中に植え付けられた。多くの元民主化活動家でさえ、軍がロヒンギャ全体をテロリストと呼ぶことを認めた。
多数派とイスラム教徒少数派の間の緊張は、ミャンマーの超国家主義的な仏教僧によって、さらにかき立てられた。この敵意が国外のイスラム教徒からネット上の反応を誘発した。アルカイダ傘下の団体や他のイスラム聖戦士運動は現在、自分たちのイスラム教徒迫害の物語を広めるために、ロヒンギャの窮状を利用している。
最近まで、このようなプロパガンダのほとんどは、ミャンマーで多くのロヒンギャイスラム教徒が昔から暮らしてきたアラカン州の「解放」を非現実的な目標ととらえ、それは隣国バングラデシュを「征服」し、そこにカリフ政権を樹立したら考えることだと見ていた。だが今は、アルカイダのような団体がもっと直接的にロヒンギャの大義を支援しているようだ。9月半ばのアルカイダの声明は、「バングラデシュ、インド、パキスタン、フィリピンの全ての聖戦士兄弟たちに、ビルマ(ミャンマー)に向かって旅立ち、イスラム教徒の兄弟たちを助ける」ように呼びかけた。
ロヒンギャ反政府団体が外部のイスラム聖戦士団体と同盟を結んだという兆しはまだない。じっさい、ARSAは3月にアラビア語の名前を廃止して、より世俗的な響きを持った英語の名前への変更を決定したが、これはARSAが多国籍イスラム教徒過激派組織に取り込まれていないことを示すものだ。この団体のカリスマ的指導者アタ・ウッラーは、パキスタンとサウジアラビアの両方に人脈を持ち、アルカイダ指導者のアイマン・アッ=ザワヒリが匿われているとされるパキスタンの港湾都市カラチで育った。だがARSAには能力も武器もあまりないことから明らかなように、アタ・ウッラーがいくらラシュカレ=トイバやタリバンのような団体から支持を得ようと努力しても、現在のところ実を結んでいない。
しかし、掃討作戦や大量のロヒンギャ民間人が集団脱出したことへの怒りが大きく盛り上がったことで、この状況は変化するかもしれない。すでに、エジプトの過激派がカイロのミャンマー大使館で爆弾を爆発させた。バングラデシュの対テロ責任者モニルル・イスラムは、私がシャムラプールで連絡した男が語ったのと同じことを繰り返した。「銃は手に入る。ミャンマーやインドからバングラデシュに密輸されている。」AK-47の模造品はブラックマーケットで1000ドル少し出せば買うことができ、ピストルなら200〜300ドルだろうとモニルル・イスラムはいう。武器の出所を突き止める努力が、過激派団体を現地情報機関の監視の下に引き出すだろう。バングラデシュではこのような運動は注目を避けるため有力者の支援に頼ることが多い。
バングラデシュ人イスラム教徒は、この危機を信仰と不信仰の2つの力による預言された壮大な紛争と描くことで、ロヒンギャの窮状を積極的に利用しようとしてきた。ARSA自体はこの反乱にバングラデシュ大衆の支持を得ようともしてきた。じっさい、ロヒンギャ支援には幅広い合意が形成されたが、以前は自分勝手な侵入者として無視されていた。バングラデシュのシェイク・ハシナ首相が示した慈悲心は、大きな喝采を受けた。イスラム教徒が大義に飛びついた声の大きさを考えれば、彼女の動きは政治的に必要だったようにも見える。
ARSA司令官と噂される人物が最近このように主張した。ミャンマー軍が「我々を毎日拷問にかけていたので、他に選択肢はなかった。だから我々は(8月25に)行動を起こした…。こうなることを我々は分かっていた。」不可避の紛争と存在をかけた闘いというこのメッセージは、多くのロヒンギャの人々に共感を呼び起こした。私がバングラデシュ南部でインタビューした女性でさえ、できるなら戦うと、私に促されるでもなく言った。彼女たちの手には何も残されていないのだ。ARSAが宣言した1カ月の停戦は10月10に終わる。ARSAは低強度の攻撃を再開する可能性が高い。もしそうなれば、今もミャンマーに残るロヒンギャの村人たちは、軍からのもっとひどい実力行使を覚悟しなければならない。
ブッシュ政権の見当違いの対テロ戦争が世界中でイスラム急進思想を助長したように、ミャンマー将官たちがロヒンギャ反乱者と国際イスラム聖戦士団体とのほとんど空想上の関係を意図的に誇張したので、同様の望ましくない結果になるかもしれない。もともとミャンマー軍は他の反政府・民主化・民族団体との同盟を防ぐため、歴史的な恨みを刺激してロヒンギャ反乱者とは分断しようとしてきたが、この政策の結果として、ARSAであれ、もっと恐ろしい怒りの表現の形であれ、ロヒンギャの闘士たちを本当の過激派の手中に追いやるだろう。
(本文終わり)
筆者:ジョセフ・オルチンは『エコノミスト』と『フィナンシャル・タイムズ』などの出版物でベンガル湾地帯を取り上げてきたジャーナリスト。近刊書『Many Rivers, One Sea: Bangladesh and the Challenge of Islamist Militancy(多くの川、一つの海:バングラデシュと好戦的イスラム教徒の挑戦)』の著者。
初出:「ピースフィロソフィー」2017.10.07より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2017/10/myanmar-invention-of-rohingya.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion7017:171009〕