フランスの映画「レ・ミゼラブル」の試写会への誘いが来ました。「レ・ミゼラブル」というと、著名なヴィクトル・ユゴーの小説が想起されますが、この映画ではその小説の舞台となったパリの東17キロにある郊外の町、モンフェルメイユが舞台になっています。直接の共通点はそれだけ。とはいえ、確かにこの映画を見終えて、深い衝撃に満たされました。モンフェルメイユの現実、大人から子供まで、民族も思想も多様な人間たちそれぞれの「存在」。そして住民間の衝突。監督のラジ・リはこの町でずっと暮らしてきた黒人の監督で、2005年にこの界隈で起きた暴動も自分でビデオを回して撮影していたのだそうです。その時に大量に撮りためた映像を基にドキュメンタリーの監督としてキャリアを始めたと言います。こうした経緯が、これまでのフランス映画にはなかった何か、新しい味わいを生み出した秘密でしょう。
物語はこの町に新たに赴任することになった教養のあるベテランの警官が、二人の同僚に伴われてこの町の視察に出かけるところから始まります。この最初の30分は車窓を中心に、次々とモンフェルメイユの実態を見せていくシーンの連続で、これがとても面白い。本当にドキュメンタリーの取材で警察車両に乗り合わせているような錯覚すら覚えます。というのも、先述の通り、ラジ・リ監督はこの町の事なら隅々まで把握しているかのような人物であり、そこにちょっとしたカットで登場する人々一人一人の振る舞いとか、存在感が非常にリアルに感じられますし、ちょっとした会話に現代フランスが透けて見えるようです。104分の映画の中で30分近くを、町を見せることに投じたのは大成功です。ロマ、ムスリム同胞団、白人、黒人、様々な住民のグループがあり、そこにいつ発火してもおかしくないような緊張感が垣間見えます。
映画ではちょっとした出来事が波紋を広げていき、惨事に発展していく道筋が描かれていきます。住民間で1つ間違えると殺し合いになりかねない。それはうねりながら進み、観客には予想できない展開に満ちているのです。面白いのは警察官の内部にも、黒人やムスリム同士の中にも一枚岩的な対決姿勢ではなく、異文化の人々との共生を望む人々がいて、彼らがカタストロフィーをたびたび一歩手前で回避していることです。そこには緊張に満ちた内部での対決と、外部との対決とがともにあり、緊張と緩和を繰り返しながら、映画はクライマックスに向かって進んでいきます。この<緊張と緩和>の描き方が見どころと言って過言ではないと思いました。つまり、本当に人間一人一人を豊かに、丹念に描いているため、チェス盤の駒みたいに機能するだけの歩兵が存在しない。言葉で、白黒で斬れない現実、ちょっとした哀しみの表情、まさにそれを描くことこそ映像の持つ強みでしょう。
牽強付会と言われそうですが、この映画はフランスの作家で歴史学者のイヴァン・ジャブロンカが提唱している「調査・探求を核にした文学の新しい太陽系」と同じベクトルにあるように感じました。というのも、この映画で起きたことは全部、モンフェルメイユで起きたことだとラジ・リ監督は言っているのです。映画ではそこに外から赴任してきた「(第三の)警官」という視点を作り出して、そこからこれらの出来事を見せています。視点を設けたことで、それまで細切れだった現実の間に有機的なつながりを見出し、1つの物語に編み込んだのでしょう。ラジ・リ監督の出発点とも言える2005年のパリ郊外における暴動は暴動を起こした人々に何も良いものをもたらすことはなかった(※)。そのことが、2019年公開のこの映画の底流に流れていて、第三の警官はまさにその出来事の不毛さを知る人物であり、この映画は彼が凝視する<未だ変わらぬ>現実と、<変わらなくてはならない>闘いのあり方を描いているように思えました。そのことは最後の1カットに象徴的です。
※trailer
https://www.youtube.com/watch?v=o8SLKTzg9cY
※2005年の郊外の暴動
当時、警察を管轄していた内務大臣の二コラ・サルコジはムスリム移民の若者を屑呼ばわりするなど、警察に対するムスリムの若者の怒りが蓄積し、郊外で爆発した。しかし、この時のサルコジ内相のタカ派的な姿勢が逆に人気を押し上げ、2007年には大統領に選出されるきっかけを作った。同様に、移民と警察との衝突は極右政党である旧国民戦線(現在は国民連合)の支持を押し上げる傾向がある。
※ラジ・リ監督による2005年の暴動のドキュメンタリー(この映画「レ・ミゼラブル」の舞台となったモンフェルメイユの記録)
https://www.youtube.com/watch?v=atOBaw9mgHg&pbjreload=10
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座https://chikyuza.net/
〔opinion9389:200126〕